シュガーレス・マリアージュ 〜君の嘘と、甘い毒〜
第7章:葵の罠と咲の涙
怜央の微かな優しさ、そしてお守りの発見が、咲の心に希望の光を灯した。しかし、その光は長くは続かなかった。
高千穂 葵は、咲と怜央の微妙な空気の変化を敏感に察知していた。特に、共同プロジェクトが進むにつれ、二人が仕事上で対等に、そして深く議論する機会が増えていることに、彼女は強い嫉妬心を抱いていた。
葵は、東條グループの再建計画の遅れを決定的なものにするため、そして咲をビジネスの場から排除するため、巧妙な罠を仕掛けることを決意する。
共同プロジェクトの重要なマイルストーンとなる、東條デパートの顧客データ移行作業の日。咲は、最終的なデータチェックと移行指示の責任者を任されていた。
深夜まで作業が及び、咲が休憩のため席を外した、ほんの十分ほどの間に、葵が雇ったシンフォニア側の人間が、システムにわずかな改ざんを加えた。
それは、データ移行を完了させるための暗号化キーが、古いものに置き換えられるという、素人には気づかないほどの小さなミスだった。
翌朝、プロジェクトは大規模なエラーに直面した。新システムへの顧客データ移行が途中でストップし、デパートのオンラインサービスに甚大な影響が出た。
緊急の対策会議が開かれた。会議室に、激しく張り詰めた空気が漂う。怜央の表情は、これまでに見たことがないほど冷酷だった。
「どういうことだ、東條さん。最終責任者として、この事態をどう説明する」
怜央の声は低く、怒りで震えていた。咲は、何が起こったのか必死に検証したが、改ざんされたキーコードが、咲の作成した最終チェックリストに記載されたものと完全に一致していた。
「申し訳ありません、神崎社長。最終チェックは私が行いました。しかし、このキーコードがなぜ弾かれたのか…」
「『なぜ』だと? 重要な局面で凡ミスを犯した人間が、原因を追究する時間などない。このミスで、プロジェクト全体が数週間遅れる。東條デパートの再建計画は頓挫するだろう」
「そんな…」
「お前は、このレベルの仕事に耐えられない。やはり、お嬢さんごっこだったということだ。東條デパートを救う気概があるのなら、もっとプロとして完璧にやれ。甘えるな」
「甘えるな」――。その言葉が、咲の心に最も深く突き刺さった。彼は、咲のこれまでの努力も覚悟も、全てを否定したのだ。
咲は、言い返せなかった。目の前の事実は、彼女のミスを裏付けている。悔しさと、怜央に誤解されたことの切なさで、咲の視界はぼやけた。
「東條さん。もうこのプロジェクトから手を引け。君の婚約の話に集中することだ」
怜央はそう吐き捨て、席を立った。彼の背中は、どこまでも冷たく、遠かった。
会議が終わった後、咲は誰にも見られないように、ビルの非常階段を駆け上がった。屋上のテラスにたどり着いたとき、空は鈍色で、今にも泣き出しそうだった。
咲は、雨の予感に満ちた冷たい風の中で、声を出さずに涙を流した。
(私、本気でやったのに…。どうして、いつもあなたは、私を信じてくれないの…?)
すれ違いは、今、最悪の形で再燃した。怜央は、咲のミスを容赦なく断罪することで、彼女をビジネスから遠ざけ、そして心の底では彼女を守ろうとしているつもりだったのかもしれない。しかし、咲には、それはただの冷酷な拒絶としてしか響かなかった。
その時、テラスの扉が開き、葵が優雅な足取りで現れた。彼女の手には、咲が落とした小さなハンカチが握られている。
「東條さん。お疲れ様」葵は微笑んだ。「私も、怜央様があんなに激怒されるのを見たのは初めてよ。…まあ、彼は完璧を求める方だから。あなたが、彼について行けなかったのは、仕方ないわ」
葵の優しげな声は、咲の心を抉る。
「…あなたが、彼を守るためになすべきことは一つよ。大人しく、高千穂の家に入ること。それが、東條デパートの、そして、怜央様の望みなのだから」
咲は、葵の言葉の残酷さに、返す言葉を持たなかった。心は深く傷つき、希望は打ち砕かれ、咲は完全に孤立した。
高千穂 葵は、咲と怜央の微妙な空気の変化を敏感に察知していた。特に、共同プロジェクトが進むにつれ、二人が仕事上で対等に、そして深く議論する機会が増えていることに、彼女は強い嫉妬心を抱いていた。
葵は、東條グループの再建計画の遅れを決定的なものにするため、そして咲をビジネスの場から排除するため、巧妙な罠を仕掛けることを決意する。
共同プロジェクトの重要なマイルストーンとなる、東條デパートの顧客データ移行作業の日。咲は、最終的なデータチェックと移行指示の責任者を任されていた。
深夜まで作業が及び、咲が休憩のため席を外した、ほんの十分ほどの間に、葵が雇ったシンフォニア側の人間が、システムにわずかな改ざんを加えた。
それは、データ移行を完了させるための暗号化キーが、古いものに置き換えられるという、素人には気づかないほどの小さなミスだった。
翌朝、プロジェクトは大規模なエラーに直面した。新システムへの顧客データ移行が途中でストップし、デパートのオンラインサービスに甚大な影響が出た。
緊急の対策会議が開かれた。会議室に、激しく張り詰めた空気が漂う。怜央の表情は、これまでに見たことがないほど冷酷だった。
「どういうことだ、東條さん。最終責任者として、この事態をどう説明する」
怜央の声は低く、怒りで震えていた。咲は、何が起こったのか必死に検証したが、改ざんされたキーコードが、咲の作成した最終チェックリストに記載されたものと完全に一致していた。
「申し訳ありません、神崎社長。最終チェックは私が行いました。しかし、このキーコードがなぜ弾かれたのか…」
「『なぜ』だと? 重要な局面で凡ミスを犯した人間が、原因を追究する時間などない。このミスで、プロジェクト全体が数週間遅れる。東條デパートの再建計画は頓挫するだろう」
「そんな…」
「お前は、このレベルの仕事に耐えられない。やはり、お嬢さんごっこだったということだ。東條デパートを救う気概があるのなら、もっとプロとして完璧にやれ。甘えるな」
「甘えるな」――。その言葉が、咲の心に最も深く突き刺さった。彼は、咲のこれまでの努力も覚悟も、全てを否定したのだ。
咲は、言い返せなかった。目の前の事実は、彼女のミスを裏付けている。悔しさと、怜央に誤解されたことの切なさで、咲の視界はぼやけた。
「東條さん。もうこのプロジェクトから手を引け。君の婚約の話に集中することだ」
怜央はそう吐き捨て、席を立った。彼の背中は、どこまでも冷たく、遠かった。
会議が終わった後、咲は誰にも見られないように、ビルの非常階段を駆け上がった。屋上のテラスにたどり着いたとき、空は鈍色で、今にも泣き出しそうだった。
咲は、雨の予感に満ちた冷たい風の中で、声を出さずに涙を流した。
(私、本気でやったのに…。どうして、いつもあなたは、私を信じてくれないの…?)
すれ違いは、今、最悪の形で再燃した。怜央は、咲のミスを容赦なく断罪することで、彼女をビジネスから遠ざけ、そして心の底では彼女を守ろうとしているつもりだったのかもしれない。しかし、咲には、それはただの冷酷な拒絶としてしか響かなかった。
その時、テラスの扉が開き、葵が優雅な足取りで現れた。彼女の手には、咲が落とした小さなハンカチが握られている。
「東條さん。お疲れ様」葵は微笑んだ。「私も、怜央様があんなに激怒されるのを見たのは初めてよ。…まあ、彼は完璧を求める方だから。あなたが、彼について行けなかったのは、仕方ないわ」
葵の優しげな声は、咲の心を抉る。
「…あなたが、彼を守るためになすべきことは一つよ。大人しく、高千穂の家に入ること。それが、東條デパートの、そして、怜央様の望みなのだから」
咲は、葵の言葉の残酷さに、返す言葉を持たなかった。心は深く傷つき、希望は打ち砕かれ、咲は完全に孤立した。