【番外編/後日談集】亡国の聖女は氷帝に溺愛される
一方その頃、首都ソルビスタに別邸を構えるロンダート家の邸宅では、ある男が一枚の絵画の前で花を愛でていた。
男の名はアレクス・ロンダート。社交界で“薔薇の貴公子”の異名を持つ青年である。
「──ようやくあの方にお会いできる」
アレクスは手元の花を愛おしむように撫でながら、形のよい唇を横に引いた。胸元まである艶やかな紫色の髪は風に揺れ、アメジストのような瞳は目の前の花を映しているというのに、それではない別のものを見ているようだ。
「──兄上、本当に行かれるのですか?」
一人掛けのソファに身を預けていたアレクスの元へと、彼の実弟であるライタスがやって来る。
アレクスは花からライタスへ視線を移すと、不思議そうな顔で首をこてんと傾けた。
「何が言いたいんだ?」
「叔母上の──オールヴェニス公爵家の舞踏会にです」
「当たり前だろう。この機を逃すわけにはいかない」
アレクスは花に唇を押し当てる。この世の何よりも愛おしいものに愛を伝えるかのように、そっと。
「私はあの日の約束を果たさねばならないんだ」
「そうは言いましても、その時の女性は皇后となられたではないですか。皇族と親類でもない一族の人間が皇帝陛下の寵姫と踊りたいなんて、夢物語ですよ」
ライタスの言葉に、アレクスは不機嫌に眉を寄せた。
「黙れ。あの日、私はあの方の手を取り踊るはずだったんだ。そこをあの男に邪魔をされ……私は社交界で笑い者にされたんだぞ」
アレクスには約束を交わした女性がいた。だけれどその約束は、ある男の乱入によって叶わなくなった。その出来事がきっかけで、陰で笑い者にされ、自分の耳にも入る距離で意地の悪い噂話を囁かれたことなど数えきれない。
アレクスが花をくしゃりと握りつぶしたのを見て、ライタスは息を呑んだ。
「落ち着いてください、兄上。相手は皇帝陛下ではありませんか!」
「私があの男に劣っているとでも言いたいのか!」
「そ、それは──」
アレクスはライタスを睨みつけると、フンと鼻を鳴らすなり大股で部屋を出て行く。部屋にひとり残されたライタスは、深い深いため息を吐いた。
「兄上、本当に皇后陛下のことを……僕は一体どうしたら」
それから暫くの間、ライタスは思案に暮れた。恋慕う気持ちは素敵なものだが、その相手は決して手の届かない人だ。遠くから見つめるだけならまだしも、それ以上のことは求めてはいけない。
どうしたら、罪を犯しかねない兄を止められるだろうか。
ライタスは一晩中考えに耽っていたが、ふとあることを閃いた。
──そうだ、あの御方なら……と。
◆
宰相であるエヴァン・セネリオの執務室は、皇帝の執務室と同じ階にある。とはいえ、それぞれ“コ”の字の上と下にあるので、行き来するにはやや時間を要する。その為、エヴァンはひと月の半分は皇帝の執務室にいるのだが、今日は久しぶりに自分の執務室にいた。
何故なら、珍しく来客の予定があるからである。
「──お初にお目にかかります、エヴァン・セネリオ様」
エヴァンを訪ねてきたのは、ロンダート伯爵家の次男であるライタスという青年だった。
「ようこそ、ライタス殿。僕に内密に相談したいことがある、と手紙にありましたが……」
エヴァンは深々と頭を下げたまま動こうとしないライタスの肩に触れ、顔を上げるよう優しく声を掛けた。
恐る恐る顔を上げたライタスは、兄であるアレクスとは似ていなかった。
アレクスは文武両道、容姿端麗と非の打ち所がなく、女性からの人気も高い青年なのだが、目の前にいるライタスは顔立ちはおろか髪の色も目の色もアレクスに似ていない。母君である伯爵夫人ではなく、物静かな伯爵に似ている印象だ。
「……はい。このままではいけないと分かっているのですが、僕にはどうすることも出来ず、それで……」
両親でも友人でもなく、会ったことのないエヴァンを訪ねてきたのは何故なのだろうか。不思議に思いつつも、エヴァンは温和な笑みを飾った。
「詳しい話を聞かせてください。僕が力になれるかどうかは、それからです」
エヴァンの優しい眼差しに、ライタスはほっと目元を和ませ、それから先日の出来事を語っていった。
「──なるほど。そういうことでしたか」
ひとしきり語り終えると、ライタスは涙目になりながらエヴァンが出したお茶に口をつけていた。昨日ルーチェから差し入れに貰った山盛りのクッキーもどうかと薦めたが、恐れ多くて食べられないと拒まれてしまった。
見た目は中々個性的で味も微妙──いや、優しい味のクッキーだというのに。
(──ま、陛下へのプレゼントの練習に焼いたものだと分かっているんですけどね)
愛するヴィルジールのために、時間を作っては菓子作りを練習しているルーチェの姿を思い浮かべながら、エヴァンは紅茶を啜った。
(さて、そのルーチェ様に関することとあらば、私も一肌脱がないといけませんね)
エヴァンは立ち上がり、俯いているライタスに向かって手を差し出した。
「ライタス殿。このエヴァン・セネリオが力になりましょう」
「ほ、本当ですかっ……」
「ええ。すごくおも──じゃない、ステキな作戦を思いついたので」
ライタスの瞳が潤む。ありがとうございます、と感激しながらエヴァンの手を握り返すライタスの顔は、先ほどよりも幾分か明るいものへと変わっていた。
男の名はアレクス・ロンダート。社交界で“薔薇の貴公子”の異名を持つ青年である。
「──ようやくあの方にお会いできる」
アレクスは手元の花を愛おしむように撫でながら、形のよい唇を横に引いた。胸元まである艶やかな紫色の髪は風に揺れ、アメジストのような瞳は目の前の花を映しているというのに、それではない別のものを見ているようだ。
「──兄上、本当に行かれるのですか?」
一人掛けのソファに身を預けていたアレクスの元へと、彼の実弟であるライタスがやって来る。
アレクスは花からライタスへ視線を移すと、不思議そうな顔で首をこてんと傾けた。
「何が言いたいんだ?」
「叔母上の──オールヴェニス公爵家の舞踏会にです」
「当たり前だろう。この機を逃すわけにはいかない」
アレクスは花に唇を押し当てる。この世の何よりも愛おしいものに愛を伝えるかのように、そっと。
「私はあの日の約束を果たさねばならないんだ」
「そうは言いましても、その時の女性は皇后となられたではないですか。皇族と親類でもない一族の人間が皇帝陛下の寵姫と踊りたいなんて、夢物語ですよ」
ライタスの言葉に、アレクスは不機嫌に眉を寄せた。
「黙れ。あの日、私はあの方の手を取り踊るはずだったんだ。そこをあの男に邪魔をされ……私は社交界で笑い者にされたんだぞ」
アレクスには約束を交わした女性がいた。だけれどその約束は、ある男の乱入によって叶わなくなった。その出来事がきっかけで、陰で笑い者にされ、自分の耳にも入る距離で意地の悪い噂話を囁かれたことなど数えきれない。
アレクスが花をくしゃりと握りつぶしたのを見て、ライタスは息を呑んだ。
「落ち着いてください、兄上。相手は皇帝陛下ではありませんか!」
「私があの男に劣っているとでも言いたいのか!」
「そ、それは──」
アレクスはライタスを睨みつけると、フンと鼻を鳴らすなり大股で部屋を出て行く。部屋にひとり残されたライタスは、深い深いため息を吐いた。
「兄上、本当に皇后陛下のことを……僕は一体どうしたら」
それから暫くの間、ライタスは思案に暮れた。恋慕う気持ちは素敵なものだが、その相手は決して手の届かない人だ。遠くから見つめるだけならまだしも、それ以上のことは求めてはいけない。
どうしたら、罪を犯しかねない兄を止められるだろうか。
ライタスは一晩中考えに耽っていたが、ふとあることを閃いた。
──そうだ、あの御方なら……と。
◆
宰相であるエヴァン・セネリオの執務室は、皇帝の執務室と同じ階にある。とはいえ、それぞれ“コ”の字の上と下にあるので、行き来するにはやや時間を要する。その為、エヴァンはひと月の半分は皇帝の執務室にいるのだが、今日は久しぶりに自分の執務室にいた。
何故なら、珍しく来客の予定があるからである。
「──お初にお目にかかります、エヴァン・セネリオ様」
エヴァンを訪ねてきたのは、ロンダート伯爵家の次男であるライタスという青年だった。
「ようこそ、ライタス殿。僕に内密に相談したいことがある、と手紙にありましたが……」
エヴァンは深々と頭を下げたまま動こうとしないライタスの肩に触れ、顔を上げるよう優しく声を掛けた。
恐る恐る顔を上げたライタスは、兄であるアレクスとは似ていなかった。
アレクスは文武両道、容姿端麗と非の打ち所がなく、女性からの人気も高い青年なのだが、目の前にいるライタスは顔立ちはおろか髪の色も目の色もアレクスに似ていない。母君である伯爵夫人ではなく、物静かな伯爵に似ている印象だ。
「……はい。このままではいけないと分かっているのですが、僕にはどうすることも出来ず、それで……」
両親でも友人でもなく、会ったことのないエヴァンを訪ねてきたのは何故なのだろうか。不思議に思いつつも、エヴァンは温和な笑みを飾った。
「詳しい話を聞かせてください。僕が力になれるかどうかは、それからです」
エヴァンの優しい眼差しに、ライタスはほっと目元を和ませ、それから先日の出来事を語っていった。
「──なるほど。そういうことでしたか」
ひとしきり語り終えると、ライタスは涙目になりながらエヴァンが出したお茶に口をつけていた。昨日ルーチェから差し入れに貰った山盛りのクッキーもどうかと薦めたが、恐れ多くて食べられないと拒まれてしまった。
見た目は中々個性的で味も微妙──いや、優しい味のクッキーだというのに。
(──ま、陛下へのプレゼントの練習に焼いたものだと分かっているんですけどね)
愛するヴィルジールのために、時間を作っては菓子作りを練習しているルーチェの姿を思い浮かべながら、エヴァンは紅茶を啜った。
(さて、そのルーチェ様に関することとあらば、私も一肌脱がないといけませんね)
エヴァンは立ち上がり、俯いているライタスに向かって手を差し出した。
「ライタス殿。このエヴァン・セネリオが力になりましょう」
「ほ、本当ですかっ……」
「ええ。すごくおも──じゃない、ステキな作戦を思いついたので」
ライタスの瞳が潤む。ありがとうございます、と感激しながらエヴァンの手を握り返すライタスの顔は、先ほどよりも幾分か明るいものへと変わっていた。