完璧男子の坂本くんは、放っておけないらしい
第1話 春雷
春休みの夕まぐれはどこか特別で、どこか平和ボケした余韻で包まれている。
下ろしたての制服に袖を通すのは、まだ少し先。けれど、街は少しずつ出会いの気配で満ちていた。お使い帰りのビニール袋に手に持って、私は人の波に身を任せている。母に頼まれた買い物は、トイレットペーパーと牛乳と、パン粉。何でパン粉かと言うと、コロッケを作り始めたお母さんが、ジャガイモを潰し終えたところで、パン粉がないことに気づいたから。指先に食い込む重みを、手の平で持ち直した時だった。
「ちょっとさ、一軒だけ。飲んで行こうよ」
「やめてください。帰りますから」
雑踏の音に混ざって、はっきりと聞こえた言葉に、体が反射でそっちを向いた。飲食店の入ったコンクリート張りのビルの前、居酒屋の看板の影。男に腕を掴まれた女の人が、困った顔で立ち竦んでいる。掴んでいる男は、笑っているはずなのに、目の中だけ温度がない。
やだな、と思った。
それで、通り過ぎればよかったのに、足が止まっていた。誰か大人が止めてくれるでしょ、と一瞬だけ期待して、でも誰も止まらないことにすぐ気が付く。思考よりも先に、身体が動いていた。
「そ、それ、迷惑です。やめてください」
自分でもびっくりするくらい、まっすぐ声が出た。
男の目が、こちらを捕える。毒ヘビに睨まれたみたいで、背筋が冷える。
「は?」
心臓が嫌なほど大きな音を立てている。足は小刻みに震えているのに、前に出たのは勝手な身体の方だった。
「犯罪ですよ。離してください」
女の人を背中で庇うように、二人の間に身体を滑り込ませる。次の瞬間、男の手が今度は私の襟元を掴んだ。首筋の皮膚が引き上げられる感覚に、呼吸が迷子になる。
「てめーー」
反射的に、瞼にギュ、と力を入れる。こわい。指先が震える。殴られるかも、そう身構えた時だった。目をつぶった闇の中で、足音がひとつ止まる。
「警察、呼びましたから」
背中から、低く落ち着いた声。
男の指先がほんの少しだけ緩んだのがわかる。私はゆっくりと首を動かして、声の方を見る。
街灯を背にした長身の男の人が立っていた。黒いトレーナーに、無地のコート。片手にはスマホ。画面には通話中の表示が浮かんでいて、こちらに見せつけるように傾けられている。
強い言葉は、どこにもない。ただ、それでも、空気が一段変わる感じがした。男が舌打ちを一つすると、私の襟を乱暴に突き放して、情けなくも人の流れに消えていった。
「うわっ」
よろけた体が倒れるーーそう思った瞬間、背中にしっかりとした温かみがぶつかって、支えられる。
「……っ」
私の背中には、助けてくれた男の人の胸元がある。身体に寄りかかった状態から見上げると、高い鼻筋と、長い睫毛が街灯の白い光に照らされた肌に影を作っていた。
「大丈夫?」
「は、はい……」
目の前に差し伸べられた大きく骨張った手の平を掴もうとして、どこか照れ臭くて、掴まずに体勢を戻す。自ら勇み足を踏み、見ず知らずの男性に助けてもらうだなんて、我ながら情けなくて、顔だけは夏を先取りしたみたいに暑い。
「怪我とかない?」
淡々と、でも、決して冷たくなくて、温かい声色。
「大丈夫です、全然」
「よかった。気をつけて」
続きの言葉を紡ごうとした時には、彼はもう背を向けていた。大きな歩幅で数歩。街路樹の影をまたいで、そのまま人の流れに紛れていく。私は、ほんの少し冷たさが残る春の夜の空気を思い切り、喉の奥に押し込んだ。
「ありがとうございます!」
何も返事はないけど、風がいきなり冷たくなって、スーパーの袋がカサカサ鳴る。そうだ、今頃、お母さんがコロッケの衣をつけられずに待ち呆けしているだろう。恐らくお母さんからだろう、スマホの通知がうるさいほど唸っている。
*
帰ってすぐ、お母さんにパン粉を渡すと、「どこほっつき歩いてたのかしら」と小言をぼやきながら、揚げ物の油の音が台所に広がった。けれど私の耳に残っているのは、ジュワジュワと言う音じゃなくてーー私は思わず目を閉じる。
お礼、ちゃんと言えなかったな。
あの人、誰なんだろう。
名前も、年齢も、何も知らない。声だけが、耳の奥にくっついて離れない。
その夜は、布団に潜っても寝付けなくて、一番しっくりくる枕の位置を探すみたいに、何度も寝返りを打っているうちに、いつの間にか眠っていた。
下ろしたての制服に袖を通すのは、まだ少し先。けれど、街は少しずつ出会いの気配で満ちていた。お使い帰りのビニール袋に手に持って、私は人の波に身を任せている。母に頼まれた買い物は、トイレットペーパーと牛乳と、パン粉。何でパン粉かと言うと、コロッケを作り始めたお母さんが、ジャガイモを潰し終えたところで、パン粉がないことに気づいたから。指先に食い込む重みを、手の平で持ち直した時だった。
「ちょっとさ、一軒だけ。飲んで行こうよ」
「やめてください。帰りますから」
雑踏の音に混ざって、はっきりと聞こえた言葉に、体が反射でそっちを向いた。飲食店の入ったコンクリート張りのビルの前、居酒屋の看板の影。男に腕を掴まれた女の人が、困った顔で立ち竦んでいる。掴んでいる男は、笑っているはずなのに、目の中だけ温度がない。
やだな、と思った。
それで、通り過ぎればよかったのに、足が止まっていた。誰か大人が止めてくれるでしょ、と一瞬だけ期待して、でも誰も止まらないことにすぐ気が付く。思考よりも先に、身体が動いていた。
「そ、それ、迷惑です。やめてください」
自分でもびっくりするくらい、まっすぐ声が出た。
男の目が、こちらを捕える。毒ヘビに睨まれたみたいで、背筋が冷える。
「は?」
心臓が嫌なほど大きな音を立てている。足は小刻みに震えているのに、前に出たのは勝手な身体の方だった。
「犯罪ですよ。離してください」
女の人を背中で庇うように、二人の間に身体を滑り込ませる。次の瞬間、男の手が今度は私の襟元を掴んだ。首筋の皮膚が引き上げられる感覚に、呼吸が迷子になる。
「てめーー」
反射的に、瞼にギュ、と力を入れる。こわい。指先が震える。殴られるかも、そう身構えた時だった。目をつぶった闇の中で、足音がひとつ止まる。
「警察、呼びましたから」
背中から、低く落ち着いた声。
男の指先がほんの少しだけ緩んだのがわかる。私はゆっくりと首を動かして、声の方を見る。
街灯を背にした長身の男の人が立っていた。黒いトレーナーに、無地のコート。片手にはスマホ。画面には通話中の表示が浮かんでいて、こちらに見せつけるように傾けられている。
強い言葉は、どこにもない。ただ、それでも、空気が一段変わる感じがした。男が舌打ちを一つすると、私の襟を乱暴に突き放して、情けなくも人の流れに消えていった。
「うわっ」
よろけた体が倒れるーーそう思った瞬間、背中にしっかりとした温かみがぶつかって、支えられる。
「……っ」
私の背中には、助けてくれた男の人の胸元がある。身体に寄りかかった状態から見上げると、高い鼻筋と、長い睫毛が街灯の白い光に照らされた肌に影を作っていた。
「大丈夫?」
「は、はい……」
目の前に差し伸べられた大きく骨張った手の平を掴もうとして、どこか照れ臭くて、掴まずに体勢を戻す。自ら勇み足を踏み、見ず知らずの男性に助けてもらうだなんて、我ながら情けなくて、顔だけは夏を先取りしたみたいに暑い。
「怪我とかない?」
淡々と、でも、決して冷たくなくて、温かい声色。
「大丈夫です、全然」
「よかった。気をつけて」
続きの言葉を紡ごうとした時には、彼はもう背を向けていた。大きな歩幅で数歩。街路樹の影をまたいで、そのまま人の流れに紛れていく。私は、ほんの少し冷たさが残る春の夜の空気を思い切り、喉の奥に押し込んだ。
「ありがとうございます!」
何も返事はないけど、風がいきなり冷たくなって、スーパーの袋がカサカサ鳴る。そうだ、今頃、お母さんがコロッケの衣をつけられずに待ち呆けしているだろう。恐らくお母さんからだろう、スマホの通知がうるさいほど唸っている。
*
帰ってすぐ、お母さんにパン粉を渡すと、「どこほっつき歩いてたのかしら」と小言をぼやきながら、揚げ物の油の音が台所に広がった。けれど私の耳に残っているのは、ジュワジュワと言う音じゃなくてーー私は思わず目を閉じる。
お礼、ちゃんと言えなかったな。
あの人、誰なんだろう。
名前も、年齢も、何も知らない。声だけが、耳の奥にくっついて離れない。
その夜は、布団に潜っても寝付けなくて、一番しっくりくる枕の位置を探すみたいに、何度も寝返りを打っているうちに、いつの間にか眠っていた。