職場では他人、家では夫婦。地味同僚の正体は次期社長でした

第8話「未来の確約」

 社内では距離を保ち、家では婚姻届の記入欄を埋めていく。段取りは分担表の隣に置かれ、私の字と彼の字が並ぶのが、少しだけ照れくさい。
 最初の仕事は両家への挨拶。会長は満面の笑みで立ち上がり、「彼をお願い」と深く頭を下げた。彼は隣で姿勢を正し、「僕の弱点ふくめ、全部、彼女に預けます」と言った。弱点、という単語が、胸の奥で丸くなる。

 レシピの件は“個人への便宜”という陰から表へ出した。彼が主導して、社の食育プロジェクトに組み替える。地元の学校に寄贈するレシピ冊子、社食のアレルギー表示の改善、余剰食材の活用。私の台所仕事は、いくつかの印鑑を通って、誰かの役に立つ線になった。

 婚約の写真は、社屋の屋上で撮ることになった。柵の向こうを風が渡る。彼は一歩で足を止め、わずかに目を伏せる。
 「高い」
 「手、どうぞ」
 握ると、彼は息を吐いて笑った。「怖い。だけど、君の手があれば平気だ。僕の“弱いところ”まで全部、君に見てほしい」
 独り占めの色をしていた彼の執着が、言葉のうえで誓いに変わる。風は強いのに、写真の中の私たちの輪郭はぶれなかった。

 社内には“隠れ夫婦”の噂が早くも流れ、宮園部長は咳払いを一つ。「就業規則は守れ。だが、帰り道は一緒でいい」。
 「ありがとうございます」
 「礼は仕事で返せ。――白湯、忘れるなよ」
 部長の冗談は短く、効く。

 夜、帰宅すると、湊が初めて二人に同時に手を伸ばした。小さな掌が二枚、空の真ん中で待ち合わせる。私と彼はその間に自分の指を差し入れ、三人で指切りをした。
 「約束」
 「約束」
 湊の笑い声が、台所の壁にやわらかく跳ねる。

 匿名相談のアカウントは、この夜に完全に閉じた。代わりに、共同ブログを開く。タイトルは『家では夫婦、職場ではチームメイト』。最初の記事に付けた小見出しは――『朝だけの同居人から始まった、私たちの台所』。写真は、湯気の薄い白湯と、使い込んだ木べら一本。

 区役所の窓口は静かだった。婚姻届の枠に二人の名前。最後の確認の印を押す前、私は横目で彼を見て囁く。
 「あなたの“隠しごと”、もう他には?」
 彼は少し考え、照れて視線を落とした。
 「……高所以外、ほぼ克服済みです」
 私たちは笑う。笑いながら、提出ボタンに指を重ねた。

 提出済のスタンプが赤く乾いていく。外へ出ると、風の高さは同じなのに、怖さは少し減っていた。
 「これからも、職場では線を引く」
 「線は君が引いて。僕は守る」
 「家では?」
 「家では、隣で湯を沸かす」

 帰り道、カバンの中で共同ブログの通知が鳴る。最初のコメントは、地元の学校の先生から。「子どもたちに作らせたい献立が見つかりました」。私たちは顔を見合わせ、頷く。
 未来は約束の連続だ。紙の上にも、台所にも、指先にも。
 今夜は、白湯を三つ。湊の分は、ぬるめで。
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