ただの心の有り様ですから。
限界だったものですから。
"人には幸せの限界値があると思うのです"
何時からか其れが、彼女の口癖で御座いました。
「結婚なさるそうですね」
彼女の問いに、わたくしはひと呼吸、黙り込んだのです。
あまりに涼やかな声はわたくしの心を貫いて、呼吸(いき)も声も失いました。
ふた呼吸めに言葉を紡ごうとしたところ、春風がわたくしと彼女を引き裂きました。
"もう、限界のようです。"
ほんの________ほんの二、三秒の出来事で御座いました。
春風の抱擁に思わず目を閉じて再び目を開いた時、彼女の姿はどこにもありませんでした。
只、彼女の草履が綺麗に揃えて置いてあるだけ。崖下の水面には、彼女が毎日大切に付けていた髪飾りがゆらゆらと漂っております。
不思議と悲しいとは感じませんでした。
何ゆえ此の様な事を致したか皆目見当もつきませんが、わたくしの幸せは、何時でも彼女と共にあったのです。
「草履はお隣に置かせてくださいな。
海がとても綺麗ですね。…帰りの船は不要ですわ。」
あなたと共に泳ぐ海は、とても甘いのでしょうね。
おしまい。