見上げた星空に、奇跡が降る

33 小さな探検家

      ―迷い猫―

 カレンダーに赤い丸をつけた翌日から、私は少しずつ外に出る練習を始めた。

 まずは玄関のドアを開けるだけ。

 たったそれだけなのに、冷たい外気が胸の奥まで入り込んできて、首を縮める。

 引き返したくなる足を必死にこらえ、ほんの一歩だけ外に出て、すぐ戻った。

 その夜、パソコンを開いてオリオンにメッセージを送った。


 =今日は玄関の外に一歩だけ出ました=


 すぐに返事が返ってくる。


 =それ、すごい進歩じゃないですか=


 短い文章なのに、驚きと喜びが伝わってきて、少しだけ胸が熱くなった。


 二日目はポストまで。

 玄関から三歩分、ほんの数秒。

 けれど、靴底から伝わる地面の感触が懐かしくて、妙にくすぐったい。

 その夜も報告する。


 =今日はポストまで行けました=

 =昨日より距離が伸びてますね。次はどこまで行くんでしょう=


 画面の向こうの声が、くすぐったくて心地いい。

 三日目、母に見つかった。

 「楓? どうしたの、外なんて……」

 母は驚いた顔をして、手に持っていた買い物袋を下ろした。

 「ちょっと……ポストまで」

 「具合でも悪いの?」

 「違う。……ただ、少し外に出てみようかなって」

 私の声は小さく、語尾は自信なくしぼんだ。

 母はしばらく黙って私を見つめたあと、柔らかく笑った。

 その笑顔に、胸が少し温かくなる。

 でも、同時に何かを期待されているような気がして、心が落ち着かなくもなった。



 五日目。今度は角を曲がった先まで歩いてみた。

 ほんの十数メートル。けれど、見慣れない景色に足が重くなる。

 帰り道、家の玄関が見えた瞬間、ほっとして息を吐いた。


 =今日は角を曲がったところまで行けました=

 =もう探検家ですね。それ以上は遭難しないように=


 「あはは」

 冗談めいた言葉に、思わず笑ってしまう。

 私の小さな一歩を、こんなふうに受け止めてくれる人がいる――それだけで、次も頑張ろうと思えてしまう。

 夕食後、父が珍しく話しかけてきた。

 「最近、外に出てるんだって?」

 「……うん」

 「寒いから気をつけろよ」

 ぶっきらぼうな声だったけど、心配してくれているのが伝わってくる。

 「大丈夫。ちゃんと着こんで行くから」

 そう答えると、父は「そうか」とだけ言って新聞に視線を戻した。

 その夜、オリオンからのメッセージ。

 =公園まで行けたら、当日は最高ですね。あと少しです=

 その一文に背中を押されるような気がした。

 でも公園まではまだ遠い。

 外の空気はまだ少し怖いけれど、その先に広がる丘の上の空を思えば、足は前へ進もうとしてくれる。


 彼と同じ光を見たい……その気持ちが、私を少しずつ押し出していた。
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