見えない君は大切な人

途切れた記憶と空席

春の朝は、どこか冷たくて優しくて、何とも言えない曖昧な温度を持っている。


制服のシャツの袖を通すと、肌に触れる感触がいつもより敏感に感じられた。


この街はまだ私を知らない。私もこの街を知らない。


鏡の前で顔を上げる。


見知らぬ自分がそこにいた。長い黒髪はほんの少し乱れていて、瞳はどこか遠くを見ているようだった。


ネクタイの結び目を直そうとしたけれど、上手くいかない。それでも、焦らずに何度もやり直した。


まるで、この小さな行為が私の心の乱れを鎮めてくれるような気がしたから。


階下から母の声が響く。


「遥、朝ごはんできてるよ。早く食べなさい」


返事はしなかった。声に出せなかったのかもしれない。靴下を履きながら、ぼんやりと考えていた。
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