あの日 カサブランカで

 湯河原には東京を出た東海道本線の普通電車が1時間半ほどで着く。

 グリーン車も2階席は冬の熱海を目指す客で混んでいたが、村木野はまっすぐ1階席に向かうと空きを得て麻美を海の見える窓側に座らせた。

「東京が始発だった頃には、並べば2階席に座れたんだけどね」

「そうだったんですね」

 あまり電車旅をしてこなかった麻美は、そういうものなのかと思うだけだったが、視線がちょうどホームの高さくらいになるその眺めは不思議な新鮮さがあった。




「あ、海が見える」

 湘南の町を過ぎ、ふと窓の外を見た麻美が言った。

「このあたりから先は海が見えるよ」

 村木野が言うとおり、それからは国道に沿って建つ家並の切れ目を縫うように、時々海を望むことができた。

「わあ、きれい」

 根府川(ねぶかわ)の駅に着いたとき、窓の外いっぱいに広がる碧い相模湾の景色を見て麻美は声を上げた。

「2階だったらもっと見えたんだけど」

 村木野が残念そうに言ったが、麻美は気にしなかった。

 彼がその席に座らせた理由がそのときよくわかったのだ。

 フェズのときの彼と同じだった。

 次の駅が湯河原だということが、ホームに見える表示板で麻美にもわかった。




 急な坂道を上るタクシーに10分ほど揺られて、高台の斜面に建つホテルに着いたときには、冬の早い夕暮れの空気が感じられたが、車を降りて振り返ると先ほど見た海の向こうの両端の対岸がよく見えた。

「あれが三浦半島で、こっちが真鶴(まなづる)

 地理には疎い麻美は、眼の前の景色に感動しながら村木野の説明を聞いてもただうなずくことしかできなかった。

(これが彼のデザインのテイストなのだ…)

 係に部屋まで案内されながら、何種類かの淡いグレーと木の香りを織り交ぜた無彩色の空間に落ち着いた暖かみを麻美は感じていた。

「朝の眺めがすごいんですよ」

 案内された部屋のバルコニーの窓際に立って村木野が言う。

「今も素敵です」

 そう言った麻美の肩を村木野が外を見たままそっと抱いた。

「付き合ってくれてありがとう」

「いいえ、連れてきてくださってうれしいです」

 大きく眼を開いて彼を振り向いた麻美の肩が彼に引き寄せられ、唇がふさがれた。

 物音ひとつしない静かな窓辺で何度も繰り返される初めての長いキスに麻美は、立っているのがやっとだった。

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