あの日 カサブランカで

 個室で時間をかけてゆったりとした食事を終え、2度目の短い温泉から上がって麻美が部屋へ戻ると、かすかに揺れるレースカーテンの向こうでベランダに立つ村木野の姿が見えた。

 湯道具を置いた彼女がガラス戸をゆっくりと開いて声をかけると彼が静かに振り向いた。

「寒くありません?」

「いや、気持ちいいよ」

 丹前の前合わせをしっかりと留めた麻美が手を引かれて外へ出ると、風のない穏やかな外気が温泉で火照った躰に心地よかった。

 半分欠けた月が凪いでいる海面を照らし、遠くには昼間見た陸地と思われる灯りがわずかに点在している。

 見下ろした足元では速度を落とした電車がちょうど湯河原の駅に入ろうとしているところだった。




「寒い…」

 少しだけ吹いた風に麻美が小さくつぶやいた。

 村木野の手がその背中を抱き、もう片方の手で彼のほうを向かされた彼女はその胸に顔をうずめる。

「あたたかい…」

 胸の前で縮めた両手ごと包むように抱きしめられた麻美の口からは思わず熱い吐息が洩れた。

 頬ずりされるようにして彼の唇が重ねられる。

 剃られていないひげになぞられた頬がくすぐったかった。

 寒さのせいなのか喜びのせいなのかよくわからないまま、いたわるような彼の丁寧で長いキスに麻美は小さな震えが止まらなくなっていた。

「ごめんね、寒かったね」

「いいえ、あたたかかったです…」

 ガラス戸を引いて部屋に戻された麻美はもう一度頭を彼に包まれて深いキスを受けると、そのまま抱き上げられた。

「だめ… 重いから…」

 そんなふうに抱かれた記憶はたぶん子供の頃以来なかったような気がしていたが、黙ったまま彼はその躰をベッドに運んでそっと下ろした。

「朝焼けを見せたいからもう休もうか」

 眼の前で見上げた村木野がそっと微笑んだ。




 彼の愛し方はとてつもなくやさしかった。

 あのフェズの深紅のベッドで胸に置かれたまま動かなかった彼の手は静かに躰を滑りはじめ、大切にしているガラス細工を羽箒(はねぼうき)で扱うようなどこまでも繊細で丁寧に繰り返される愛撫に麻美の躰は何度も激しく震えた。

 目くるめくような(ほとばし)りのときが過ぎ、乱れたシーツを直しながら口移しで彼に含ませてもらった麻美の唇の端からこぼれた水が、静かに頬を伝って真っ白な枕に沁み込んだ。

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