君へのブルーサルビア
大学一年の春。
 市川紫苑は、いつものように笑顔を浮かべていた。どんな人とでもうまくやれる“明るくて愛されキャラ”として、ずっとやってきた。
 でもそれは、彼女が磨き続けてきた“外側の自分”でしかなかった。

 誰かに嫌われたくなくて、感情を言葉にするのが怖くて、いつも相手の表情ばかりをうかがっていた。周囲の輪の中で笑うたび、胸の奥のどこかが少しずつすり減っていくような気がしていた。
 それでも、笑う。
 「大丈夫?」と心配されるより、「紫苑って、ほんと明るいね」と言われるほうが、ずっと楽だった。

 そんな自分を変えたくて、紫苑は“留学”という選択をした。
 留学すれば、何かが変わるかもしれない。新しい自分を見つけられるかもしれない。
 そう信じた。

 「お母さん、行ってくるね。なりたい自分になってくる!」
 笑顔でそう言った紫苑の声は、少し震えていた。笑顔の裏に、少しの不安と、たくさんの希望を隠してた。母は優しく微笑んで「気をつけてね」と手を振った。

 飛行機の窓から見た雲の海は、まるで真っ白なキャンバスのようにどこまでも広がっていた。紫苑はその景色に、自分の新しい始まりを重ねていた。

 着いたのは、南フランスの小さな町――エグレーヌ。
 街の入り口には石畳が続き、坂の上から見下ろすと、オレンジ色の屋根の向こうにラベンダー畑が風に揺れていた。
 紫苑はその景色を見て、胸の奥にぽっと明かりが灯るような気がした。

 同じ大学から留学してきた数人とは、空港で初めて顔を合わせた。
 みんな不安そうに笑っていたが、すぐに打ち解けた。特に一緒に行動することが多くなったのが、尾上香音(おのえ かのん)と谷原采音(たにはら あやね)だった。
 香音は快活でリーダー気質、采音は落ち着いた雰囲気で面倒見がよく、三人は自然と行動を共にするようになった。

 そして、留学先の学生寮では四人部屋。
 共有のリビングに、個人の部屋が四つ並んでいる。
 ルームメイトは同じ大学から来た宇美(うみ)と栞奈(かんな)、そして香音。采音は隣の部屋だった。
 最初の数日は、毎晩リビングで集まって夜遅くまでおしゃべりした。
 「やばい!明日も朝から授業なのに!」
 「もう寝ようって言って一時間経ってるじゃん!」
 そんな他愛もない会話が、紫苑にはたまらなく楽しかった。

 けれど――その時間は、長くは続かなかった。

 香音と采音は、いつの間にか二人だけで出かけるようになっていた。
 同じクラスのはずの紫苑に声をかけることもなく、授業が終わると香音は教室を出て采音を待つ。
 「……え?私、なんかしたかな?」
 頭の中で何度も繰り返すが、答えは見つからない。
海外では一人で帰るのは危ない。
だから香音に避けられていると気づきながらも、私は必死に一緒に帰った。

やがて、私は悟った。
――香音は、三人じゃなくて采音と二人でいたいんだ。

その瞬間から、私は“空気を読む”ようになった。
 二人席なら、私は当然のように一人で座る。
 二人だけがわかる話をされても、笑顔を崩さず聞き役に回る。

やがて香音は、采音だけを誘って遊びに行くようになった。
 紫苑はいつの間にか“いないことになっている3人目”になっていた。
 寂しさを誰にも言えず、紫苑はまた“外側の笑顔”で自分を守った。

寮に帰っても、二人は香音の部屋で話していることが多くなり、紫苑が入る隙がなかった。
 香音の部屋から二人が楽しそうに笑う声が静かなリビングに響いてくる。
 外から見れば、三人仲良し。
 でも、内側の私はボロボロだった。

そんなある日、週末に二人が出かけてしまい、リビングに残された紫苑は、ひとりで近くの庭園に行くことにした。
 いつも通学路から見えていた、古い病院の裏手にある小さな庭園。そこには色とりどりの花が咲き、静かな風が流れていた。

 ベンチに座って花を眺めていると、不意に声がした。
 「花、好きなの?」
 顔を上げると、同じくらいの年の日本人の男の子が立っていた。
 「うん。なんか、見てると落ち着くから。」
 「俺も。……この花、好きなんだ。」
 「どうして?」
 「花言葉、知ってる?」
 「知らない。」
 「“永遠の愛”だよ。」

 紫苑は思わず花を見つめた。
 青く澄んだ小さな花――ブルーサルビア。
 その名前を彼が教えてくれた。

 「俺、蓮(れん)って言うんだ。」
 「私は紫苑。」
 「紫苑って、名前きれいだね。花みたい。」
 「え、初めて言われた。ありがとう。」
 「紫苑の花言葉、知ってる?」
 「知らない。」
 「“君を忘れない”だよ。」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
 “永遠の愛”と“君を忘れない”。
 まるで、どこかで繋がっているような気がした。

 その日を境に、紫苑は少しずつ変わっていった。
 ルームメイトの宇美と栞奈に、自分の本当の気持ちを話すようになったのだ。
 「……実はね、香音たちのことで、ちょっとしんどくて。」
 紫苑が勇気を出してそう話すと、宇美は優しく肩を叩いた。
 「無理して笑わなくていいよ。紫苑は紫苑のままで大丈夫。」
 栞奈も、紅茶を差し出しながら微笑んだ。
 「私もさ、最初はうまく馴染めなかったよ。でも、紫苑が話してくれて嬉しい。」

 その夜、紫苑は久しぶりに泣いた。
 “外側の自分”を脱ぎ捨てた涙だった。

 気づけば、私は香音や采音のことを考えるよりも、蓮のことを考えている時間の方が長くなっていた。
 彼と話すときだけ、仮面をかぶらずにいられた。
 笑うことが、やっと“演技”じゃなくなった。

 ――その笑顔が、やがて“永遠の愛”へと変わっていくことを、
 このときの私はまだ知らなかった。 

初夏の光が町を柔らかく包み、海は遠くで静かに笑っていた。大学から坂を下りると潮の匂いがすっと差し込み、舗道に並ぶカフェのパラソルが白い影を作る。紫苑はその光景を、まだ慣れない言葉で説明する必要もないほど肌で覚えていた。ここにいるだけで、時間の輪郭が少しだけはっきりするようだった。

 あの日、あの青い庭で出会った蓮とは、思いがけず自然に顔を合わせる機会が増えた。授業の合間に図書館の裏手で鉢植えの世話をしている彼の姿を見かけることもあれば、週末に小さなマーケットで野菜を選んでいるのに出くわすこともあった。どの瞬間も、話し始めると穏やかな時間が流れた。蓮はこの街で生まれ育ち、現地の大学に通い、両親とほど近い家で暮らしている。彼の言葉は土地の色を帯びていて、紫苑には安心感を与えた。

 ある午後、紫苑は蓮に誘われて海沿いの小さなビストロへ行った。風が皿を揺らし、海鳴りが静かに背景音になる。蓮が注文したコーヒーを差し出しながら、ふと尋ねた。

 「ここ、好き?」

 白い湯気の向こうで蓮が笑う。
 「うん。子どものころからよく来てたんだ。父さんが漁師で、母さんは庭いじりが好きだから、家と港と市場が近くてね。ごちゃごちゃしてるけど、そのごちゃごちゃが落ち着くんだよ」

 紫苑はその言葉を黙って聞いた。彼の口から出る家の話は日常で、しかしどこか暖かかった。蓮の母のこと、父のこと、幼い兄弟の話、町の小さな祭りの思い出――そうした些細な話が、紫苑にはこの上なく親密に感じられた。話すほどに、蓮の家族が日々を大事にしていることが見えてきた。

 ビストロを出た帰り道、蓮はふと立ち止まり、ポケットから小さな包みを取り出した。

 「母さんがつくったジャム。よかったら試してみて」

 渡されたビンの蓋には手書きのラベルが貼られていて、「Confiture de lavande」と小さく書かれていた。紫苑はその温度を掌で確かめると、顔がほころんだ。些細な行為が、彼をより身近にする。

 だがその日、帰り道に紫苑は蓮の歩幅がいつもより少しだけ小さかったことに気づいた。角を曲がるたび、彼は息を深く吸い、掌を胸に当てる仕草をしていた。最初はただの疲れだと思った。けれど、翌週に会ったとき、蓮が少し色の抜けた顔で小さな包帯の跡を見せる瞬間があった。袖口からわずかに覗く痕。彼は軽く笑ってごまかした。

 「昔、ちょっとした手術をしたことがあってさ。今は大丈夫だよ」

 紫苑はその言葉をそのまま受け取った。蓮の声は淡く、説明を続ける様子はなかった。ただ、最後にそっと付け加えた。

 「でも、母さんは今でもやたらと心配してる。家に帰ると、薬のこととか、しつこく言われるんだよね」

 その「母さんの心配」が笑いに飲み込まれるとき、紫苑はふいに胸騒ぎを覚えた。だが蓮はすぐに話題を変え、海の向こうに見える島のことや、村角の古い本屋の話題に戻った。彼は自分のことを深く語らない性質の人だった。だから紫苑も問いを突きつけることはしなかった。――今は、彼のそばでただ言葉を交わすことのほうが大事に思えたから。

 日常は少しずつ積み重なった。図書館の裏で一緒にノートを取り、カフェの窓辺で小雨を見ながら世間話をする。その間に紫苑は自分でも驚くほど率直になっていた。香音や采音との距離に胸を痛めていること、誰かの二番手でいることへのむなしさ、今まで笑ってごまかしてきた小さな傷。それらを、彼は否定せずに受け止めてくれた。

 ある晩、紫苑は勇気を絞って言った。
 「私、いつも自分の気持ちを飲み込んでしまうんだ。きっと、それが楽だから」

 蓮は静かにうなずき、夏の夜の風がテラスのパラソルを揺らした。
 「無理に明るくなくていいよ。俺は、紫苑のそのままを見ていたい。たまに、言葉が出ないときもあるけど。それでもいいって思える人が一人いるだけで、人生は少し楽になると思うんだ」

 その言葉を聞いたとき、紫苑の胸の奥にあった冷えが柔らかく解けるのを感じた。誰かに「そのまま」を受け入れられるということは、彼女が想像していたよりずっと大きな救いだった。

 春から夏へ季節が移るにつれ、紫苑は家族やルームメイトにも自分の言葉を返していくようになった。宇美は相変わらず太陽のようで、困ったときにはまず大声で笑い飛ばしてくれる。栞奈は夜中に並んで映画を見ながら、静かに隣で頷いてくれる。二人に、紫苑は日々の小さな出来事を率直に打ち明けた。香音との微妙な距離感も、ある夜のことがきっかけで変わり始める。

 ある日の夕暮れ、三人で街外れの小さな丘に登った。海が大きく広がり、ラベンダーの香りが混じった風が吹いた。香音はふと俯き、ぽつりと言った。

 「ごめん、紫苑。最近、私たち二人で勝手に盛り上がってて……」

 紫苑は驚いたけれど、蓮と共有した「言葉にする勇気」が背中を押した。彼女は静かに、だけれどはっきりと答えた。

 「私、ちょっと寂しかった。香音が二人でいるとき、外にいる気分になってた」

 沈黙の後、香音が目を潤ませた。采音も手を差し伸べながら、「これからはちゃんと言うね」と言った。三人はその場で何かを確かめ合うように、しばらく無言で海を見つめた。紫苑の胸には小さな確信が生まれていた。言葉を失わずに伝えることは、壊すのではなく、むしろ結び直す方法なのだと。

 その夜、ベランダで星を見上げながら、紫苑は自分の変化を静かに受け止めた。気づけば、私は香音や采音のことを考えるよりも、蓮のことを考えている時間の方が長くなっていた――と、自然に思った。蓮の声、仕草、街のことを何気なく話す様子が、いつの間にか日常の一部になっていた。彼といるとき、仮面は要らなかった。代わりに小さな緊張と、暖かい安心があった。

 それと同時に、蓮の家庭のささやかな景色が紫苑の中で確かな輪郭を持ち始める。母は庭でハーブを育て、青い小さな花を大切にしている。父は市場へ朝早く出て、夜には魚をさばく手が止まらない。蓮の家族は言葉少なだが、日常の所作に愛情が滲んでいた。ある日、蓮が自分の母の作った料理を褒めると、母ははにかんで手を拭き、「あなたが元気でいるのが一番よ」と言った。その「元気でいる」が、紫苑には不意に重く響いた。

 日々の中に小さな不安の影が差し始める。蓮は時折、階段を上がるのに息を切らし、夜になっても早々に眠ってしまうことがあった。友人たちはただの疲労だと言うが、紫苑の胸はざわついた。彼に確かめたい。でも、確かめることが彼を怖がらせるなら、今は聞かない方がいいのではないかという葛藤も生まれる。蓮の小さな包帯の跡、母親のやさしいけれど少し過剰な気遣い――それらはまだ断片でしかなく、答えは出ない。だが、物言わぬ日常の中で、紫苑はその断片をひとつずつ拾い集めていった。

 海の見える街の空は広く、日々はゆっくりと流れていく。紫苑の内側に灯った小さな火は、やがて自分の言葉を育てる明かりになっていく。その明かりを頼りに、彼女はこれから起こる出来事に少しずつ向き合っていこうとしていた――蓮と、友人たちと、自分自身と。
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