『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~
第一章:苦手な幼馴染と突然の見合い話
三月を迎え、老舗呉服問屋の敷地内に植えられた梅の木が、鮮やかな緋色と清冽な香りを放ち始めていた。
一条家は、この街で三百年続く暖簾を持つ格式高い家柄である。その一人娘である一条 柚月は、春めいた日差しが差し込む自室で、卒業式の準備をしていた。
彼女は、誰もが「可愛らしい」と形容する顔立ちをしている。目尻の少し下がった柔和な瞳、色白で整った小さな顎のライン。身長はやや低く、仕草もおっとりとしていて、まるで箱庭で大切に育てられた雛菊のようだ。その温室育ちの印象は、彼女の大人しく、自己主張を滅多にしない性格ともよく一致していた。
(これで、ようやく自由になれる)
高校の制服のスカート丈を、そっと指で撫でる。卒業すれば、母の目も、父の目も、そして――あの人の目も、少しは緩くなるだろう。
柚月が心の中で「あの人」と呼ぶ人物は、彼女の人生において最も苦手で、最も鬱陶しく、そして最も逃れられない存在だった。
二階堂 蓮。
国内経済を牛耳る二階堂グループの御曹司であり、幼い頃から一条家と二階堂家の交流を通じて、柚月の生活の隅々まで入り込んできた幼馴染。
そして、柚月より十歳年上だ。
蓮は、二十代後半にして既にグループの重要ポストを任されるほどの傑物で、常に自信と冷静さに満ちている。顔立ちも、整いすぎているせいで人間味を感じさせないほど完璧だった。
しかし、柚月にとっての彼は、その輝かしい経歴とは全く違う側面を持っていた。
「柚月」
その声は、いつもどこか低く、落ち着いている。そして、その後に続く言葉は、決まって柚月の行動を咎める「説教」だ。
高校に入学し、少しだけ背伸びをしたくて、流行りの薄いピンクのリップをつけてみた日のこと。
「柚月、高校生が軽々しく化粧をするべきではない。君は一条の娘だ。品格を忘れるな」
友達に合わせてスカートの裾を少しだけ短くしてみた日のこと。
「脚を出せばいいというものではない。丈を戻しなさい。君の行動が、そのまま一条家の評価に繋がることを理解しろ」
彼はまるで、柚月の行動を逐一チェックし、規範から外れそうになるとすぐに修正する監視役のようだった。その態度には一切の悪意や意地の悪さはなく、ただただ「正しいこと」を教え込もうという教育者然とした真面目さがあった。
それが、かえって柚月を追い詰めた。
(まるで、お母さんの、いや、お母さんよりも口うるさい母親みたい)
柚月にとって、蓮との間に「親しい幼馴染」という温かい感情は存在しない。あるのは、「監視者」に対する重苦しい苦手意識と、「説教」に対する強い反発心だけだ。
だから、彼女は蓮を避け続けた。一条家と二階堂家が集まる席でも、挨拶以外は最低限の会話しか交わさない。二言三言言葉を交わせば、蓮はすぐに彼女の生活態度や考え方に口を出し始める。
「おっとりした子で、手がかからない」と周囲は言うが、蓮の前では自己防衛のために大人しくしているだけだ。
柚月は、自分のドレッサーの引き出しを閉めた。そこに置かれたままの、蓮にも親にも見つからないように隠している薄いピンクのリップスティックを、そっと思い浮かべた。
この苦手な関係が、もうすぐ終わりを迎える。大学に進学すれば、蓮との接点もさらに減るはずだ。
そう信じていた、矢先のことだった。
その日の夕食後、父である一条社長から、重々しい声で書斎に呼び出された。
「柚月、少し話がある」
父 一条 慎吾は、いつもは温厚で娘に甘い父親だが、仕事の話になると途端に厳格な社長の顔になる。書斎に入るなり、その二つの顔が混じり合った、複雑な表情をしていた。
書斎は、分厚い絨毯と、壁一面を埋め尽くす蔵書、そして重厚なオーク材のデスクが、身を竦ませるような威圧感を放っている。
「はい、お父様」
柚月は姿勢を正し、父の前に座った。
父は一度、深く息を吸い込み、デスクの上の分厚い書類を静かに閉じた。
「柚月、お前ももうすぐ高校を卒業する。大学の進路についても、お前の希望通りに決めたが……」
父は言葉を切り、慎重に柚月の顔色を伺った。まるで、これから告げる言葉が、娘にとってどれほどの衝撃になるかを測っているかのようだ。
「実は、二階堂家から、お前と蓮くんとの正式な縁談の話が持ち上がっている」
柚月の思考が、一瞬、完全に停止した。
静かな書斎に、暖房の小さな駆動音だけが響く。
「え……縁談、ですか」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「ああ。正式な、見合いだ。向こうの蓮くんの父親、二階堂会長が、非常に乗り気でね。先代の頃からの交流もある。何より、二階堂グループと我が一条とが、この先も盤石な関係を築くためには、これ以上の縁はない」
父の言葉は、全てが「商売」と「家柄」という現実的な側面から語られていた。父にとって、これは娘の将来というより、一条家の将来における最善の策なのだろう。
「蓮くんのことは、お前も幼い頃から知っているだろう。
十歳上だが、若くしてあのグループの中枢で活躍している。頭脳明晰、容姿端麗。非の打ち所がない相手だ」
父の賛辞は、柚月の胸に鉛のように重く響いた。非の打ち所がない――それは、柚月が彼を最も苦手とする理由そのものだった。完璧すぎて、息が詰まる。そして、説教しかしない。
「お父様、わたくし……」
柚月は、おっとりとした性格の裏に秘めていた本能的な拒否反応を、父に伝えようと口を開いた。
「わたくし、あの……二階堂さまは、苦手です」
父の表情が、目に見えて曇った。
「苦手? 柚月、それはどういうことだ。幼馴染ではないか」
「幼い頃から、何かと……厳しく指導してくださる方で。わたくし、彼の前ではいつも、自分が一条家の娘という役割を演じている気がして、苦痛で……」
「それは、蓮くんの優しさだろう。彼は常にお前の将来を案じて、厳しく接してくれたのだ。お前が道を踏み外さぬようにと」
父の言葉は、蓮の行動を全て善意として解釈していた。柚月が抱える、あの重苦しい監視されている感覚は、父には理解できない。あるいは、理解しようともしない。
「だが、柚月。この見合いは、ただの恋愛ではない。一条家のこの先がかかっている。それに、蓮くんもお前のことを……」
「お父様」
柚月は、静かに、しかし、決然とした響きを声に乗せた。これは、彼女にしては最大級の抵抗だった。
「わたくしは、苦痛な人生を送るために生まれたわけではありません。いくら家のためとはいえ、わたくしが苦手で苦痛だと感じる方との婚姻は、お受けできません」
父の顔は、社長の厳しいものに変わった。
「柚月。これは、お前のわがままが通る話ではない。二階堂会長も蓮くん自身も、既に受け入れる姿勢を示している。一週間後、二階堂家で、顔合わせをする」
父はそう告げると、これ以上の議論は認めないというように、立ち上がってデスクの後ろに立ちはだかった。
「お前はまず、蓮くんと正面から向き合うべきだ。苦手だなどと、子供じみたことは言うな。一週間後には、立派な一条家の令嬢として、見合いの席に着きなさい」
拒否権はない。決定事項として、柚月の前に突きつけられた現実だった。
重い扉を背に、書斎を出た柚月は、廊下の隅で立ち尽くした。梅の香りが、いつもは心地よかったはずなのに、今はまるで鉄の匂いのように冷たく感じられた。
(蓮さまと、見合い……)
あの、常に冷静沈着で、人の内面にまで口を出す完璧な男と、一生を共にする。それは、柚月にとって生涯にわたる監視と説教の宣告に等しかった。
(嫌だ。絶対、嫌だ)
拒否の意思は、強固な決意へと変わった。
この見合いを断るためには、父の「家のため」という論理や、蓮の「善意の指導」という解釈を、根本から打ち破る理由が必要だった。
「わがままだと言われてもいい。子供じみていると言われてもいい。私には……他に、好きな人がいる」
柚月は、暗い廊下の先にある、自分の秘めた想いを守るために、生まれて初めて、父親と、そして苦手な幼馴染に立ち向かうことを決意したのだった。
一条家は、この街で三百年続く暖簾を持つ格式高い家柄である。その一人娘である一条 柚月は、春めいた日差しが差し込む自室で、卒業式の準備をしていた。
彼女は、誰もが「可愛らしい」と形容する顔立ちをしている。目尻の少し下がった柔和な瞳、色白で整った小さな顎のライン。身長はやや低く、仕草もおっとりとしていて、まるで箱庭で大切に育てられた雛菊のようだ。その温室育ちの印象は、彼女の大人しく、自己主張を滅多にしない性格ともよく一致していた。
(これで、ようやく自由になれる)
高校の制服のスカート丈を、そっと指で撫でる。卒業すれば、母の目も、父の目も、そして――あの人の目も、少しは緩くなるだろう。
柚月が心の中で「あの人」と呼ぶ人物は、彼女の人生において最も苦手で、最も鬱陶しく、そして最も逃れられない存在だった。
二階堂 蓮。
国内経済を牛耳る二階堂グループの御曹司であり、幼い頃から一条家と二階堂家の交流を通じて、柚月の生活の隅々まで入り込んできた幼馴染。
そして、柚月より十歳年上だ。
蓮は、二十代後半にして既にグループの重要ポストを任されるほどの傑物で、常に自信と冷静さに満ちている。顔立ちも、整いすぎているせいで人間味を感じさせないほど完璧だった。
しかし、柚月にとっての彼は、その輝かしい経歴とは全く違う側面を持っていた。
「柚月」
その声は、いつもどこか低く、落ち着いている。そして、その後に続く言葉は、決まって柚月の行動を咎める「説教」だ。
高校に入学し、少しだけ背伸びをしたくて、流行りの薄いピンクのリップをつけてみた日のこと。
「柚月、高校生が軽々しく化粧をするべきではない。君は一条の娘だ。品格を忘れるな」
友達に合わせてスカートの裾を少しだけ短くしてみた日のこと。
「脚を出せばいいというものではない。丈を戻しなさい。君の行動が、そのまま一条家の評価に繋がることを理解しろ」
彼はまるで、柚月の行動を逐一チェックし、規範から外れそうになるとすぐに修正する監視役のようだった。その態度には一切の悪意や意地の悪さはなく、ただただ「正しいこと」を教え込もうという教育者然とした真面目さがあった。
それが、かえって柚月を追い詰めた。
(まるで、お母さんの、いや、お母さんよりも口うるさい母親みたい)
柚月にとって、蓮との間に「親しい幼馴染」という温かい感情は存在しない。あるのは、「監視者」に対する重苦しい苦手意識と、「説教」に対する強い反発心だけだ。
だから、彼女は蓮を避け続けた。一条家と二階堂家が集まる席でも、挨拶以外は最低限の会話しか交わさない。二言三言言葉を交わせば、蓮はすぐに彼女の生活態度や考え方に口を出し始める。
「おっとりした子で、手がかからない」と周囲は言うが、蓮の前では自己防衛のために大人しくしているだけだ。
柚月は、自分のドレッサーの引き出しを閉めた。そこに置かれたままの、蓮にも親にも見つからないように隠している薄いピンクのリップスティックを、そっと思い浮かべた。
この苦手な関係が、もうすぐ終わりを迎える。大学に進学すれば、蓮との接点もさらに減るはずだ。
そう信じていた、矢先のことだった。
その日の夕食後、父である一条社長から、重々しい声で書斎に呼び出された。
「柚月、少し話がある」
父 一条 慎吾は、いつもは温厚で娘に甘い父親だが、仕事の話になると途端に厳格な社長の顔になる。書斎に入るなり、その二つの顔が混じり合った、複雑な表情をしていた。
書斎は、分厚い絨毯と、壁一面を埋め尽くす蔵書、そして重厚なオーク材のデスクが、身を竦ませるような威圧感を放っている。
「はい、お父様」
柚月は姿勢を正し、父の前に座った。
父は一度、深く息を吸い込み、デスクの上の分厚い書類を静かに閉じた。
「柚月、お前ももうすぐ高校を卒業する。大学の進路についても、お前の希望通りに決めたが……」
父は言葉を切り、慎重に柚月の顔色を伺った。まるで、これから告げる言葉が、娘にとってどれほどの衝撃になるかを測っているかのようだ。
「実は、二階堂家から、お前と蓮くんとの正式な縁談の話が持ち上がっている」
柚月の思考が、一瞬、完全に停止した。
静かな書斎に、暖房の小さな駆動音だけが響く。
「え……縁談、ですか」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「ああ。正式な、見合いだ。向こうの蓮くんの父親、二階堂会長が、非常に乗り気でね。先代の頃からの交流もある。何より、二階堂グループと我が一条とが、この先も盤石な関係を築くためには、これ以上の縁はない」
父の言葉は、全てが「商売」と「家柄」という現実的な側面から語られていた。父にとって、これは娘の将来というより、一条家の将来における最善の策なのだろう。
「蓮くんのことは、お前も幼い頃から知っているだろう。
十歳上だが、若くしてあのグループの中枢で活躍している。頭脳明晰、容姿端麗。非の打ち所がない相手だ」
父の賛辞は、柚月の胸に鉛のように重く響いた。非の打ち所がない――それは、柚月が彼を最も苦手とする理由そのものだった。完璧すぎて、息が詰まる。そして、説教しかしない。
「お父様、わたくし……」
柚月は、おっとりとした性格の裏に秘めていた本能的な拒否反応を、父に伝えようと口を開いた。
「わたくし、あの……二階堂さまは、苦手です」
父の表情が、目に見えて曇った。
「苦手? 柚月、それはどういうことだ。幼馴染ではないか」
「幼い頃から、何かと……厳しく指導してくださる方で。わたくし、彼の前ではいつも、自分が一条家の娘という役割を演じている気がして、苦痛で……」
「それは、蓮くんの優しさだろう。彼は常にお前の将来を案じて、厳しく接してくれたのだ。お前が道を踏み外さぬようにと」
父の言葉は、蓮の行動を全て善意として解釈していた。柚月が抱える、あの重苦しい監視されている感覚は、父には理解できない。あるいは、理解しようともしない。
「だが、柚月。この見合いは、ただの恋愛ではない。一条家のこの先がかかっている。それに、蓮くんもお前のことを……」
「お父様」
柚月は、静かに、しかし、決然とした響きを声に乗せた。これは、彼女にしては最大級の抵抗だった。
「わたくしは、苦痛な人生を送るために生まれたわけではありません。いくら家のためとはいえ、わたくしが苦手で苦痛だと感じる方との婚姻は、お受けできません」
父の顔は、社長の厳しいものに変わった。
「柚月。これは、お前のわがままが通る話ではない。二階堂会長も蓮くん自身も、既に受け入れる姿勢を示している。一週間後、二階堂家で、顔合わせをする」
父はそう告げると、これ以上の議論は認めないというように、立ち上がってデスクの後ろに立ちはだかった。
「お前はまず、蓮くんと正面から向き合うべきだ。苦手だなどと、子供じみたことは言うな。一週間後には、立派な一条家の令嬢として、見合いの席に着きなさい」
拒否権はない。決定事項として、柚月の前に突きつけられた現実だった。
重い扉を背に、書斎を出た柚月は、廊下の隅で立ち尽くした。梅の香りが、いつもは心地よかったはずなのに、今はまるで鉄の匂いのように冷たく感じられた。
(蓮さまと、見合い……)
あの、常に冷静沈着で、人の内面にまで口を出す完璧な男と、一生を共にする。それは、柚月にとって生涯にわたる監視と説教の宣告に等しかった。
(嫌だ。絶対、嫌だ)
拒否の意思は、強固な決意へと変わった。
この見合いを断るためには、父の「家のため」という論理や、蓮の「善意の指導」という解釈を、根本から打ち破る理由が必要だった。
「わがままだと言われてもいい。子供じみていると言われてもいい。私には……他に、好きな人がいる」
柚月は、暗い廊下の先にある、自分の秘めた想いを守るために、生まれて初めて、父親と、そして苦手な幼馴染に立ち向かうことを決意したのだった。
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