蝶々結び 【長編ver.完結】
第1章 ほどけた結び目
駅のホームの風が、髪の短い襟足をやさしく撫でていく。ひんやりとした夜の空気に、少し湿った線路の匂いが混ざる。
電車が通り過ぎるたびに、線路の向こうで照明が少し揺れて見えた。光が淡く揺れる様子は、まるで思い出の断片のように揺れ動き、結衣の胸に小さな痛みを残した。
橘 結衣(タチバナ ユイ)は、会社帰りの人たちのざわめきに紛れながら、ぼんやりとホームの端に立っていた。周囲の人々はスマートフォンを覗き込み、イヤホンから流れる音楽に合わせて歩く。誰も結衣の存在に気を留めてはいない。けれど、それでよかった。人の目から離れている今、この数分間だけは、自分の心を整理することができるから。
ふと、結衣はバッグの紐に手をやった。小さな蝶々結び。
幼いころから、どうしても上手に結べなかった。左右がずれて、何度やり直しても形が整わず、母に「またほどけちゃうわよ」と笑われたのを、今でも鮮明に覚えている。あの頃は、ほどけても、また結べばいいと思っていた。何度でも、きれいに結び直せばいいと信じていた。
でも――大人になると、そうはいかない。人間関係の結び目は、ほどけたら、もう二度と元には戻らない。
次の電車が来るまでの数分間、結衣は静かに目を閉じた。電車の金属音やホームのアナウンスが、遠くの水面で反響するかのように、胸に静かに響く。
脳裏に浮かんだのは、懐かしい声だった。
――「ねぇ結衣、こっち向いて。」
――「結衣、笑って。」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。懐かしい。でももう、遠い。
新しい病院に勤めてから一年が経とうとしていた。
仕事にも少しずつ慣れ、手術や処置も以前よりは自信を持って行えるようになったけれど、夜勤の明け方や、ふとした空き時間に、あの人の名前がひょっこりと頭をよぎる。
「早瀬先生……」
声に出して呼ぶことはもうない。けれど、心のどこかに残るその響きは、まだ完全には消えていない。胸の奥でそっと揺れ続ける。
結衣は小さく息を吐き、もう一度バッグの紐を見つめる。蝶々結びは今も完璧ではないけれど、手をかければ結び直すことができる。それなのに、人の心の結び目は、簡単には直せない。
「私……大丈夫かな。」
独り言のように、かすかに声が漏れる。誰にも届かないけれど、それでいい。今はただ、自分の胸の奥にある結び目のことを、そっと抱きしめていたい。
そのとき、風が少し強く吹き、結衣の髪を耳にかけながら、遠くのホームの照明が一瞬だけ煌めいた。まるで、ほどけた結び目をもう一度結び直すための、小さな合図のようだった。
結衣は目を細め、手元の紐を握り直す。
「また、結び直せるかな…。」
駅の夜風が、彼女の背中をそっと押しているようだった。
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