蝶々結び 【長編ver.完結】
あの頃の自分は、何もかもが手探りだった。
新人看護師として働き始めてまだ数週間。
毎日が緊張の連続で、時間に追われるように動いていた。
ナースステーションの時計は、いつも針が早く進んで見えた。
記録、点滴、検温、採血。覚えなければならないことは山ほどあって、頭の中はいつも混乱していた。
特に採血のときは、針を持つ手が震えた。
患者さんの腕に影を落としながら、心の中で何度も「落ち着いて」と言い聞かせる。けれど、緊張すればするほど指先はこわばっていく。
「……ごめんなさい、少しチクッとしますね。」
そう言っても、思うように針が入らず、患者さんが小さく顔をしかめた。
「痛いよ……。」
その言葉に、結衣の心臓がぎゅっと縮んだ。
隣で見ていた先輩看護師が、小声でため息をつく。
「橘さん、もっと角度を浅くして。焦らないでって言ったでしょ」
「は、はい……すみません……。」
声が震える。
なんとか採血を終えて頭を下げたあと、ナースステーションに戻る足取りは重かった。
自分の未熟さが情けなくて、泣きたくなるのを必死でこらえる。
――そのとき。
「焦らなくていいよ。誰だって最初は失敗する。」
やわらかな声がした。
顔を上げると、白衣の袖を少し捲りながら、優しく笑う男性がいた。
早瀬 隼人(ハヤセ ハヤト)先生。
外科の若手医師で、研修を終えたばかりの新人。
けれど、その笑顔には不思議な安心感があった。
「手が震えるのは、患者さんを思ってる証拠だよ。」
「……証拠、ですか?」
「うん。怖いのは、ちゃんと相手の痛みを想像できる人だけだから。」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
結衣は小さく笑う。「……ありがとうございます。」
「ほら、こうやって深呼吸してみて?」
そう言って、彼は軽く背中を押してくれた。
あの温もりを、結衣はきっと一生忘れない。
それからの日々、結衣は少しずつ彼と言葉を交わすようになった。
廊下ですれ違うたびに、
「お疲れさま。」
「今日も忙しかったね。」
そんな何気ない言葉が交わされるだけで、胸がふわりと軽くなった。
食堂で偶然隣の席になった昼休み、
「立場さん、コーヒー飲める?」
「ミルクたっぷりなら……。」
「じゃあ、次からそれで持ってくるね。」
そんな他愛ない会話のひとつひとつが、当時の彼女には宝物のように思えた。
笑うタイミングも、歩く速度も、不思議と似ていた。
まるで神様が見えない糸で結んでくれたように感じていた。
***
それからの毎日は、不思議なほど早く過ぎていった。
ナースステーションの向こうから聞こえる彼の声。
カルテに目を落としながらも、どこかでその姿を探してしまう。
「橘さん、今日も頑張ってるね。」
「……はい。まだ慣れなくて。」
「慣れなくていいよ。完璧な新人なんていないさ。」
そう言って笑う顔に、いつも救われた。
休憩室で二人きりになった昼下がり。
湯気の立つ紙コップを差し出される。
「ココアでいい?」
「はい、覚えていてくださってたんですね……。」
「まあね。橘さんのことなら…ね?」
そんな何気ない会話が、嬉しくてたまらなかった。
夜勤明け、朝日が昇る病院の屋上。
二人で缶コーヒーとココアを分け合った。
オレンジ色の光の中で、彼の横顔がやけに優しく見えた。
「橘さんって、頑張り屋だね。」
「そんなことないです。すぐ落ち込んじゃうし、すぐ泣いちゃうし。」
「それでいいんだよ。泣ける人のほうが、強いんだから。」
不意に見つめ合って、照れくさくて目を逸らす。
けれどその瞬間、心がひどく跳ねた。
---
早瀬先生と結衣が付き合い始めたのは、その少しあとだった。
当直の合間にこっそり食堂で一緒に夜食を食べたり、
休日に病院の近くの小さなカフェで待ち合わせしたりした。
「このケーキ、結衣が好きそうだね。」
「早瀬先生、私の好み覚えてるんですか?」
「当たり前。君のことなら、もうけっこう覚えてるよ。」
その言葉に、頬が熱くなった。
名前を呼ばれるたびに、世界が少し輝いて見えた。
帰り道、人気のない裏通り。
ふいに手をつながれて、心臓が跳ねた。
「手、冷たいね。」
「冬ですから……」
「じゃあ、俺が温めてあげる。手、貸してみて。」
そう言って、指先を包み込む彼の手。
少し大きくて、温かくて、まるで世界そのものを守ってくれるようだった。
笑うタイミングも、歩く速度も似ていた。
まるで神様が結んだ運命の糸みたいに感じていた。
「結衣、この先もずっと一緒にいよう。」
夜の公園で、彼がそう言った。
街灯の明かりが淡く照らす中、結衣は小さく頷いた。
あのとき信じて疑わなかった。
この人となら、何があっても乗り越えられるって。
――けれど、その糸は思いがけない形でほどけてしまったのだ。
その日も、日勤の終わりだった。
夕方の病棟は、いつものように慌ただしくて、ナースコールの音が途切れることはなかった。
それでも結衣は、仕事を終えたあとの小さな達成感に包まれていた。
夕日が廊下の窓から差し込み、床に長い影を落としている。
ナースステーションから医局の方をなんとなく見やったそのとき――
そこに、見慣れた背中があった。
白衣の袖越しに見える、あの人の背中。
隣には、後輩の若い看護師が立っていた。
まだ二十代前半で、誰からも可愛がられている子。
明るくて、愛されるタイプ。
結衣も彼女を嫌いではなかった。
けれど――その瞬間、笑い声が聞こえた。
早瀬先生の手が、その子の肩をそっと引き寄せた。
抱きしめる仕草。
世界が一瞬で静止する。
呼吸が止まり、鼓動の音さえ遠くに消えていった。
何かの見間違いだと思いたかった。
でも、二人の距離は、見間違うほど遠くはなかった。
視界の端がにじみ、手に持っていたファイルが落ちる音だけがやけに大きく響いた。
足元がふらつき、壁に手をついた。
心の中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた気がした。
頬を叩く音が、医局の中に響いた。
それでも涙は出なかった。
――「結衣…ごめん。」
「…っさようなら。」
たったそれだけの冷えきった言葉を残して、結衣は背を向けた。
ーーー
その夜。
部屋の中は、静かだった。
段ボールをひとつ広げ、少しずつ荷物を詰めていく。
二人で撮った写真、誕生日にもらった小さなブレスレット、
彼が残した手書きのメモ――「無理してない?結衣の笑顔がみたい。」
ひとつ箱に入れるたび、心の中の糸が静かにほどけていく気がした。
「もう、いいよね……。」
声に出して言った瞬間、頬をつたう涙が継ぎから次へと止めどなく流れ落ちた。
その涙は、思っていたより温かくて、まるで長い間凍っていた心が溶け出したようだった。
窓の外は、雨と一緒にたくさんの滴が流れ落ちた。
ーーー
翌朝、鏡の前で結衣はハサミを握る。
結衣の髪は、彼に褒められた長い髪だった。
「長い髪、似合ってる。」――その言葉を、今でも覚えている。
けれど今、その髪を残しておく理由はもうなかった。
シャキ、シャキ、とハサミが落とす音が静かな部屋に響く。
肩に落ちた髪が、まるで過去の自分の破片のように見えた。
それから、気持ちを整理するかのように結衣は
気付いたら美容院の前に立っていた。
美容師に「本当に切っちゃっていいんですか?」と聞かれて、
結衣は鏡越しに自分の目を見つめた。
「はい、大丈夫です。」
そう答えた声は思ったよりしっかりしていて、
その瞬間、ほんの少しだけ本当に笑えた気がした。
---
そして今、電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開き、人々が流れ込む。
制服のボタンを留めながら、結衣は小さく息を吸い、前を向いた。
――ほどけた糸を、もう一度結べる日は来るのだろうか。
そう思いながらも、心の奥では、誰にも見えない新しい結び目を作っていた。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
だけど――人生の糸は、いつも思い通りには結べない。
しかし、これから彼女が出会う「ある男性」が、その糸を再び引き寄せてしまうことを、
このときの結衣はまだ知らなかった。
新人看護師として働き始めてまだ数週間。
毎日が緊張の連続で、時間に追われるように動いていた。
ナースステーションの時計は、いつも針が早く進んで見えた。
記録、点滴、検温、採血。覚えなければならないことは山ほどあって、頭の中はいつも混乱していた。
特に採血のときは、針を持つ手が震えた。
患者さんの腕に影を落としながら、心の中で何度も「落ち着いて」と言い聞かせる。けれど、緊張すればするほど指先はこわばっていく。
「……ごめんなさい、少しチクッとしますね。」
そう言っても、思うように針が入らず、患者さんが小さく顔をしかめた。
「痛いよ……。」
その言葉に、結衣の心臓がぎゅっと縮んだ。
隣で見ていた先輩看護師が、小声でため息をつく。
「橘さん、もっと角度を浅くして。焦らないでって言ったでしょ」
「は、はい……すみません……。」
声が震える。
なんとか採血を終えて頭を下げたあと、ナースステーションに戻る足取りは重かった。
自分の未熟さが情けなくて、泣きたくなるのを必死でこらえる。
――そのとき。
「焦らなくていいよ。誰だって最初は失敗する。」
やわらかな声がした。
顔を上げると、白衣の袖を少し捲りながら、優しく笑う男性がいた。
早瀬 隼人(ハヤセ ハヤト)先生。
外科の若手医師で、研修を終えたばかりの新人。
けれど、その笑顔には不思議な安心感があった。
「手が震えるのは、患者さんを思ってる証拠だよ。」
「……証拠、ですか?」
「うん。怖いのは、ちゃんと相手の痛みを想像できる人だけだから。」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
結衣は小さく笑う。「……ありがとうございます。」
「ほら、こうやって深呼吸してみて?」
そう言って、彼は軽く背中を押してくれた。
あの温もりを、結衣はきっと一生忘れない。
それからの日々、結衣は少しずつ彼と言葉を交わすようになった。
廊下ですれ違うたびに、
「お疲れさま。」
「今日も忙しかったね。」
そんな何気ない言葉が交わされるだけで、胸がふわりと軽くなった。
食堂で偶然隣の席になった昼休み、
「立場さん、コーヒー飲める?」
「ミルクたっぷりなら……。」
「じゃあ、次からそれで持ってくるね。」
そんな他愛ない会話のひとつひとつが、当時の彼女には宝物のように思えた。
笑うタイミングも、歩く速度も、不思議と似ていた。
まるで神様が見えない糸で結んでくれたように感じていた。
***
それからの毎日は、不思議なほど早く過ぎていった。
ナースステーションの向こうから聞こえる彼の声。
カルテに目を落としながらも、どこかでその姿を探してしまう。
「橘さん、今日も頑張ってるね。」
「……はい。まだ慣れなくて。」
「慣れなくていいよ。完璧な新人なんていないさ。」
そう言って笑う顔に、いつも救われた。
休憩室で二人きりになった昼下がり。
湯気の立つ紙コップを差し出される。
「ココアでいい?」
「はい、覚えていてくださってたんですね……。」
「まあね。橘さんのことなら…ね?」
そんな何気ない会話が、嬉しくてたまらなかった。
夜勤明け、朝日が昇る病院の屋上。
二人で缶コーヒーとココアを分け合った。
オレンジ色の光の中で、彼の横顔がやけに優しく見えた。
「橘さんって、頑張り屋だね。」
「そんなことないです。すぐ落ち込んじゃうし、すぐ泣いちゃうし。」
「それでいいんだよ。泣ける人のほうが、強いんだから。」
不意に見つめ合って、照れくさくて目を逸らす。
けれどその瞬間、心がひどく跳ねた。
---
早瀬先生と結衣が付き合い始めたのは、その少しあとだった。
当直の合間にこっそり食堂で一緒に夜食を食べたり、
休日に病院の近くの小さなカフェで待ち合わせしたりした。
「このケーキ、結衣が好きそうだね。」
「早瀬先生、私の好み覚えてるんですか?」
「当たり前。君のことなら、もうけっこう覚えてるよ。」
その言葉に、頬が熱くなった。
名前を呼ばれるたびに、世界が少し輝いて見えた。
帰り道、人気のない裏通り。
ふいに手をつながれて、心臓が跳ねた。
「手、冷たいね。」
「冬ですから……」
「じゃあ、俺が温めてあげる。手、貸してみて。」
そう言って、指先を包み込む彼の手。
少し大きくて、温かくて、まるで世界そのものを守ってくれるようだった。
笑うタイミングも、歩く速度も似ていた。
まるで神様が結んだ運命の糸みたいに感じていた。
「結衣、この先もずっと一緒にいよう。」
夜の公園で、彼がそう言った。
街灯の明かりが淡く照らす中、結衣は小さく頷いた。
あのとき信じて疑わなかった。
この人となら、何があっても乗り越えられるって。
――けれど、その糸は思いがけない形でほどけてしまったのだ。
その日も、日勤の終わりだった。
夕方の病棟は、いつものように慌ただしくて、ナースコールの音が途切れることはなかった。
それでも結衣は、仕事を終えたあとの小さな達成感に包まれていた。
夕日が廊下の窓から差し込み、床に長い影を落としている。
ナースステーションから医局の方をなんとなく見やったそのとき――
そこに、見慣れた背中があった。
白衣の袖越しに見える、あの人の背中。
隣には、後輩の若い看護師が立っていた。
まだ二十代前半で、誰からも可愛がられている子。
明るくて、愛されるタイプ。
結衣も彼女を嫌いではなかった。
けれど――その瞬間、笑い声が聞こえた。
早瀬先生の手が、その子の肩をそっと引き寄せた。
抱きしめる仕草。
世界が一瞬で静止する。
呼吸が止まり、鼓動の音さえ遠くに消えていった。
何かの見間違いだと思いたかった。
でも、二人の距離は、見間違うほど遠くはなかった。
視界の端がにじみ、手に持っていたファイルが落ちる音だけがやけに大きく響いた。
足元がふらつき、壁に手をついた。
心の中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた気がした。
頬を叩く音が、医局の中に響いた。
それでも涙は出なかった。
――「結衣…ごめん。」
「…っさようなら。」
たったそれだけの冷えきった言葉を残して、結衣は背を向けた。
ーーー
その夜。
部屋の中は、静かだった。
段ボールをひとつ広げ、少しずつ荷物を詰めていく。
二人で撮った写真、誕生日にもらった小さなブレスレット、
彼が残した手書きのメモ――「無理してない?結衣の笑顔がみたい。」
ひとつ箱に入れるたび、心の中の糸が静かにほどけていく気がした。
「もう、いいよね……。」
声に出して言った瞬間、頬をつたう涙が継ぎから次へと止めどなく流れ落ちた。
その涙は、思っていたより温かくて、まるで長い間凍っていた心が溶け出したようだった。
窓の外は、雨と一緒にたくさんの滴が流れ落ちた。
ーーー
翌朝、鏡の前で結衣はハサミを握る。
結衣の髪は、彼に褒められた長い髪だった。
「長い髪、似合ってる。」――その言葉を、今でも覚えている。
けれど今、その髪を残しておく理由はもうなかった。
シャキ、シャキ、とハサミが落とす音が静かな部屋に響く。
肩に落ちた髪が、まるで過去の自分の破片のように見えた。
それから、気持ちを整理するかのように結衣は
気付いたら美容院の前に立っていた。
美容師に「本当に切っちゃっていいんですか?」と聞かれて、
結衣は鏡越しに自分の目を見つめた。
「はい、大丈夫です。」
そう答えた声は思ったよりしっかりしていて、
その瞬間、ほんの少しだけ本当に笑えた気がした。
---
そして今、電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開き、人々が流れ込む。
制服のボタンを留めながら、結衣は小さく息を吸い、前を向いた。
――ほどけた糸を、もう一度結べる日は来るのだろうか。
そう思いながらも、心の奥では、誰にも見えない新しい結び目を作っていた。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
だけど――人生の糸は、いつも思い通りには結べない。
しかし、これから彼女が出会う「ある男性」が、その糸を再び引き寄せてしまうことを、
このときの結衣はまだ知らなかった。