蝶々結び 【長編ver.完結】
午後の病棟。
昼のピークが過ぎても、ナースコールの音は途切れない。
橘結衣は、カルテを片手に廊下を駆けていた。
「すぐ参ります!」
病室へ駆け込み、患者の点滴交換、ベッドの体位変換、ナースコール対応。
休む暇なんてない。
けれど、その慌ただしさが結衣には心地よかった。
何も考えずに動いていれば、余計な感情を閉じ込めていられる気がする。
――“陽向先生”のことなんて、考えなければいい。
そう思っていたのに。
「橘さん。それ、僕が持ちますよ。」
背後から聞き慣れた声。
振り返ると、白衣の袖をまくった陽向碧が、柔らかく笑って立っていた。
「いえ、大丈夫です。陽向先生は診察が――」
「診察より、橘さんの方が気になる。」
「えっ?」
不意を突かれたように、結衣の足が止まる。
陽向先生は軽く笑って、彼女の手から重い備品をひょいと奪い取った。
白衣の裾がふわりと揺れて、すれ違う瞬間――
彼の指先が、結衣の手の甲にほんの一瞬だけ触れた。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
ほんの一秒にも満たないのに、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
「……顔赤いけど、熱でもある?」
「な、ないです!」
「ほんとに?診察してあげようか?」
「しなくていいですっ!」
反射的に声が裏返った。
恥ずかしさをごまかすようにそっぽを向くと、陽向先生はおかしそうに笑う。
「そう? 残念だなぁ。」
「……っ、もう知りません!」
結衣は顔を伏せ、備品を抱えて足早に病室へ戻っていった。
その背中を見送りながら、陽向先生は小さく呟く。
「(はは……ほんと、可愛いな。)」
夕方になっても、結衣の頬の火照りはなかなか冷めなかった。
記録室でパソコンを打つ指が、妙に落ち着かない。
(あんなこと、普通に言える人、いる?)
(“診察より、あなたが気になる”なんて――)
思い出すたび、胸の奥がざわつく。
なのに、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまう自分が、嫌だった。
夜。
ナースステーションに残って、結衣はひとりカルテ整理をしていた。
他のスタッフはほとんど帰り、静まり返ったフロアにパソコンの打鍵音だけが響く。
(早く帰らないと……)
そう思っても、入力漏れが気になってしまうのが性分だ。
「――お疲れさま。」
ふと背後から声がした。
驚いて振り向くと、そこにいたのは――やはり、陽向先生だった。
「陽向先生……帰ってなかったんですか?」
「帰ろうと思ったけど、なんか橘さんがまだいそうな気がして。」
「……なんですか、その“なんか”。」
「んー?勘。」
彼はいつもの調子で、悪びれもなく笑った。
そして、コンビニの袋を差し出す。
「はい、これ。疲れたでしょ?」
中には、小さなプリンとスプーン。
「糖分、今日二回目ですね。」
「うん。前のは午後、これは夜勤用。」
「陽向先生、私を太らせる気ですか?」
「え?そのほうが可愛いと思うけど?」
「……っ!」
思わずスプーンを落としそうになる。
陽向先生は素早くそれを拾い上げ、軽く笑って差し出した。
「ははっ、冗談だよ。」
「そういう冗談、やめてください。」
「うん。でも――冗談じゃないかもしれない。」
不意に声のトーンが落ちた。
笑っているようで、どこか真剣なその眼差し。
結衣の喉が、ごくりと鳴る。
「――陽向先生、ほんとに意地が悪いですね。」
「うん。橘さん限定でね。」
静かな空気が流れる。
夜のナースステーションには、時計の針の音だけが響いていた。
「……では、お疲れ様でした。」
「送ろうか?」
「いいです。一人で帰れますから。」
「そう言うと思った。」
ふっと笑う陽向先生。
その笑顔に、また心が揺れる。
廊下を歩き出すと、背後から足音がついてくる。
「ついてこないでください。」
「いや、帰る方向一緒だから。」
「……ほんとですか?」
「ほんと。」
半信半疑のまま、二人並んで病院のエントランスへ。
外は春の夜。
街灯に照らされた桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。
「――桜、もうすぐ散っちゃいますね。」
結衣がぽつりと呟く。
「うん。でも、散る瞬間が一番きれいだと思わない?」
「……先生って、そういう詩的なこと言うんですね。」
「意外だった?」
「はい。もっと単純に“花見したい”とか言うタイプかと。」
「……あ、それもいいね。」
「ちょっと、今の流れ台無しですよ。」
陽向先生が吹き出す。
ふと、二人の間に漂う空気がやわらかくなる。
笑い合う時間が、こんなに心地いいなんて。
気づけば、視線が自然と重なっていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(だめ。これは仕事の関係なんだから。)
自分に言い聞かせるように、結衣は少し距離を取った。
「じゃあ、ここで。」
病院の駐車場の前で足を止める。
「気をつけて帰ってね。」
「陽向先生も。……寝落ちしないように。」
「うっ、それは痛いとこ突くね。」
二人で小さく笑い合う。
「……あの時、本気で怒ってたでしょ?」
「当たり前です。患者さんに何かあったら大変ですから。」
「でも、あの時の橘さん、すごく綺麗だった。」
「……は?」
「真剣で、まっすぐで。ちょっと怖かったけど、…綺麗だなって。」
心臓が跳ねた。
言葉が出ない。
陽向先生は少し照れたように頭を掻いて、
「ごめん、また変なこと言っちゃったね。」と笑った。
「……もう、ほんとにどういうつもりですか。」
「さあ。たぶん、俺もよくわかってない。」
その言葉が妙に素直で、結衣は思わず目を伏せた。
帰り道。
夜風が頬を撫でる。
春の匂いと、少しだけ切ない静けさ。
(まだ恋じゃない。)
そう思おうとする。
でも、胸の奥では何かが静かに動いていた。
“恋”という言葉の輪郭を、少しずつ、確かに形作っていく。
陽向先生の笑顔。
優しい声。
そして――あの一瞬の、手のぬくもり。
思い出すたびに、心臓が痛いほど鳴る。
(……どうして。)
街灯の下、結衣は足を止めて空を見上げた。
白い月が雲の合間から顔を出す。
――あの人の笑顔を、もう一度見たい。
その想いが、胸の奥でふっと灯った。
まだ恋じゃない。
けれど、恋の入口にゆっくり立っていた。
昼のピークが過ぎても、ナースコールの音は途切れない。
橘結衣は、カルテを片手に廊下を駆けていた。
「すぐ参ります!」
病室へ駆け込み、患者の点滴交換、ベッドの体位変換、ナースコール対応。
休む暇なんてない。
けれど、その慌ただしさが結衣には心地よかった。
何も考えずに動いていれば、余計な感情を閉じ込めていられる気がする。
――“陽向先生”のことなんて、考えなければいい。
そう思っていたのに。
「橘さん。それ、僕が持ちますよ。」
背後から聞き慣れた声。
振り返ると、白衣の袖をまくった陽向碧が、柔らかく笑って立っていた。
「いえ、大丈夫です。陽向先生は診察が――」
「診察より、橘さんの方が気になる。」
「えっ?」
不意を突かれたように、結衣の足が止まる。
陽向先生は軽く笑って、彼女の手から重い備品をひょいと奪い取った。
白衣の裾がふわりと揺れて、すれ違う瞬間――
彼の指先が、結衣の手の甲にほんの一瞬だけ触れた。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
ほんの一秒にも満たないのに、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
「……顔赤いけど、熱でもある?」
「な、ないです!」
「ほんとに?診察してあげようか?」
「しなくていいですっ!」
反射的に声が裏返った。
恥ずかしさをごまかすようにそっぽを向くと、陽向先生はおかしそうに笑う。
「そう? 残念だなぁ。」
「……っ、もう知りません!」
結衣は顔を伏せ、備品を抱えて足早に病室へ戻っていった。
その背中を見送りながら、陽向先生は小さく呟く。
「(はは……ほんと、可愛いな。)」
夕方になっても、結衣の頬の火照りはなかなか冷めなかった。
記録室でパソコンを打つ指が、妙に落ち着かない。
(あんなこと、普通に言える人、いる?)
(“診察より、あなたが気になる”なんて――)
思い出すたび、胸の奥がざわつく。
なのに、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまう自分が、嫌だった。
夜。
ナースステーションに残って、結衣はひとりカルテ整理をしていた。
他のスタッフはほとんど帰り、静まり返ったフロアにパソコンの打鍵音だけが響く。
(早く帰らないと……)
そう思っても、入力漏れが気になってしまうのが性分だ。
「――お疲れさま。」
ふと背後から声がした。
驚いて振り向くと、そこにいたのは――やはり、陽向先生だった。
「陽向先生……帰ってなかったんですか?」
「帰ろうと思ったけど、なんか橘さんがまだいそうな気がして。」
「……なんですか、その“なんか”。」
「んー?勘。」
彼はいつもの調子で、悪びれもなく笑った。
そして、コンビニの袋を差し出す。
「はい、これ。疲れたでしょ?」
中には、小さなプリンとスプーン。
「糖分、今日二回目ですね。」
「うん。前のは午後、これは夜勤用。」
「陽向先生、私を太らせる気ですか?」
「え?そのほうが可愛いと思うけど?」
「……っ!」
思わずスプーンを落としそうになる。
陽向先生は素早くそれを拾い上げ、軽く笑って差し出した。
「ははっ、冗談だよ。」
「そういう冗談、やめてください。」
「うん。でも――冗談じゃないかもしれない。」
不意に声のトーンが落ちた。
笑っているようで、どこか真剣なその眼差し。
結衣の喉が、ごくりと鳴る。
「――陽向先生、ほんとに意地が悪いですね。」
「うん。橘さん限定でね。」
静かな空気が流れる。
夜のナースステーションには、時計の針の音だけが響いていた。
「……では、お疲れ様でした。」
「送ろうか?」
「いいです。一人で帰れますから。」
「そう言うと思った。」
ふっと笑う陽向先生。
その笑顔に、また心が揺れる。
廊下を歩き出すと、背後から足音がついてくる。
「ついてこないでください。」
「いや、帰る方向一緒だから。」
「……ほんとですか?」
「ほんと。」
半信半疑のまま、二人並んで病院のエントランスへ。
外は春の夜。
街灯に照らされた桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。
「――桜、もうすぐ散っちゃいますね。」
結衣がぽつりと呟く。
「うん。でも、散る瞬間が一番きれいだと思わない?」
「……先生って、そういう詩的なこと言うんですね。」
「意外だった?」
「はい。もっと単純に“花見したい”とか言うタイプかと。」
「……あ、それもいいね。」
「ちょっと、今の流れ台無しですよ。」
陽向先生が吹き出す。
ふと、二人の間に漂う空気がやわらかくなる。
笑い合う時間が、こんなに心地いいなんて。
気づけば、視線が自然と重なっていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(だめ。これは仕事の関係なんだから。)
自分に言い聞かせるように、結衣は少し距離を取った。
「じゃあ、ここで。」
病院の駐車場の前で足を止める。
「気をつけて帰ってね。」
「陽向先生も。……寝落ちしないように。」
「うっ、それは痛いとこ突くね。」
二人で小さく笑い合う。
「……あの時、本気で怒ってたでしょ?」
「当たり前です。患者さんに何かあったら大変ですから。」
「でも、あの時の橘さん、すごく綺麗だった。」
「……は?」
「真剣で、まっすぐで。ちょっと怖かったけど、…綺麗だなって。」
心臓が跳ねた。
言葉が出ない。
陽向先生は少し照れたように頭を掻いて、
「ごめん、また変なこと言っちゃったね。」と笑った。
「……もう、ほんとにどういうつもりですか。」
「さあ。たぶん、俺もよくわかってない。」
その言葉が妙に素直で、結衣は思わず目を伏せた。
帰り道。
夜風が頬を撫でる。
春の匂いと、少しだけ切ない静けさ。
(まだ恋じゃない。)
そう思おうとする。
でも、胸の奥では何かが静かに動いていた。
“恋”という言葉の輪郭を、少しずつ、確かに形作っていく。
陽向先生の笑顔。
優しい声。
そして――あの一瞬の、手のぬくもり。
思い出すたびに、心臓が痛いほど鳴る。
(……どうして。)
街灯の下、結衣は足を止めて空を見上げた。
白い月が雲の合間から顔を出す。
――あの人の笑顔を、もう一度見たい。
その想いが、胸の奥でふっと灯った。
まだ恋じゃない。
けれど、恋の入口にゆっくり立っていた。