蝶々結び 【長編ver.完結】
昼下がりのナースステーション――。


 窓の外では、春の陽光が白く反射していた。
 電子カルテの画面が、ぼんやりと光を返している。

 結衣はその前で、淡々とタイピングを続けていた。
 カタカタと規則正しいキーの音。
 それは、彼女にとって仕事モードへのスイッチのようなもの。

 (よし、あと新規の患者さん二件分と、看護計画と……。)

 集中していると、背後から柔らかな声が届く。

 「橘さん、午前中の採血ありがとね。助かったよ。」

 振り向くまでもなく、声の主はわかっていた。

 「いえ、いつも通りの業務ですから。」

 そう答えると、陽向先生は軽く笑って続けた。

 「そういう真面目なとこ、やっぱり橘さんらしいね。」

 そのまま彼は、結衣の背後に立ち、モニターを覗き込む。

 ――近い。

 ほんの数十センチの距離。
 背中越しに感じる体温と、ほのかに香る石鹸の匂い。
 それだけで、心拍数が一段上がる。

 「陽向先生、近いです。」

 「ん?モニター見てただけだけど?」

 「……そうですか。」

 (絶対わざとですよね?)

 そう思いながらも、結衣はその場を動けなかった。
 彼の声が、耳のすぐそばを通り抜けるたびに、心がくすぐられる。

 「橘さんってさ、タイピングの音も几帳面だよね。ちゃんとリズムある。」

 「そんなの、気にして見てるんですか?」

 「うん。いつも聞いてると、落ち着く。」

 ――やっぱり、絶対わざとだ。

 モニターの文字が妙にぼやけて見える。
 冷静を装っても、頬の熱だけはごまかせなかった。







 その日の午後。

 処置室で、結衣は物品の整理をしていた。
 しゃがみ込んで下の引き出しを開け、在庫の確認をしていると――

 ガサッ。

 上の棚から、突然ガーゼの箱が何個か落ちてきた。

 「わっ!」

 反射的に目を閉じた瞬間。
 スッと伸びた腕が、彼女の頭上を庇った。

 箱が陽向先生の肩に当たって、床に転がる。

 「危なっ、橘さん。怪我したらどうするの。」

 「……ありがとうございます。」

 「お礼はいいけど、気をつけてね。僕がいないと危なっかしいなー。」

 「そんなことないです、…っ!」

 慌てて立ち上がると、彼との距離が一気に縮まった。
 わずかに触れそうな距離。
 見上げたその瞳が、今までで一番近く感じる。

 「……あの、陽向先生?」

 「ん?」

 「そんな近くで見ないでください。」

 「なんで?綺麗だから、つい見ちゃうんだけど。」

 「っ!」

 結衣は慌てて顔をそらした。
 頬にじわりと熱が広がる。

 陽向先生は、いたずらっぽく笑って小声で囁く。

 「はは、顔赤いよ。……熱あるんじゃない?」

 「ないですっ…。」

 「ほんとに?やっぱり診察しようか?」

 「いりません!」

 その瞬間、ドアが開く。

 「ふたりとも、なんか仲良いですよね〜?」

 看護師の柚希が、ニヤニヤしながら顔を出した。

 「ゆ、柚希!こ、これは違うから!」

 「はいはい、“違う”ね〜。」

 結衣が必死に弁解する横で、陽向先生は苦笑を浮かべる。

 「そうそう、違う違う。ね、橘さん?」

 「……っ!」

 (この人、ほんとずるい……!)







 翌日――。

 勤務終わりのナースステーションは、すでに人の気配がなかった。
 夜の静けさの中、蛍光灯の白がぼんやりと反射する。

 結衣は、机に広げたカルテを一枚ずつ丁寧に整理していた。
 残業というより、仕事をきちんと終わらせたい性分。

 カサ……

 背後で微かな音。
 振り向くと、陽向先生が紙コップを二つ手に持って立っていた。

 「はい、これ。今日も一日お疲れ様。」

 「陽向先生……また甘いやつですか?」

 「うん。今日はココア。橘さん、よく頑張ってたから特別。」

 「……甘やかさないでください。」

 「僕、結構甘やかすの好きなんだよね。特に、橘さん限定で。」

 「……っ。」

 言葉が出ない。
 視線を逸らしても、心拍数が誤魔化せない。

 「でも、あんまり言うとまた怒るでしょ?」

 「……怒りません。ただ、戸惑ってるだけです。」

 「戸惑うってことは、ちょっとは僕のこと意識してくれてるってこと?」

 陽向先生の笑みが、柔らかくてずるい。
 結衣は何も言えず、ただココアを見つめた。

 紙コップの表面から、白い湯気がふわりと立ちのぼる。
 その温度が、指先に、そして胸の奥にまで伝わってくる。

 「……陽向先生って、ほんとずるいですよね。」

 「そう言われるの、橘さんだけだよ。」

 その言葉に、胸がまたざわつく。
 軽口のはずなのに、彼の声がどこか優しく響いた。






 少しの沈黙。

 カーテン越しに夜風が入り、書類がふわりと揺れる。
 ココアを口に含むと、やさしい甘さが広がった。

 「……こうやって飲むの、なんか落ち着きますね。」

 「うん。仕事終わりのコーヒーは最高。」

 「陽向先生は、コーヒー飲むんですね。」

 「そりゃあね。……でも、こうやって飲むのは初めてかも。」

 「え?」

 「誰かと、同じ時間に。」

 不意の言葉に、結衣の胸が跳ねた。

 「僕ね、ずっと仕事ばっかりしてたから。
  こうやって話す時間があるの、なんか新鮮なんだ。」

 「……そんなふうに見えません。」

 「そう? でも、ほんとはけっこう寂しがりなんだよ、僕。」

 「……冗談ですよね。」

 「半分本気。」

 そう言って笑う顔が、少しだけ寂しげに見えた。
 それを見た瞬間、結衣の胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられる。

 (……なにそれ。そんな顔、反則じゃない。)






 「陽向先生。」

 「ん?」

 「陽向先生って……いつも、あんなふうに言うんですか?他の人にも。」

 陽向先生は一瞬だけ目を細め、ゆっくりと首を振った。

 「いいや。橘さんだけ。」

 「……なんで、私なんですか。」

 「さあ。理由なんて、あったら困るな。」

 「……困る?」

 「うん。惹かれるのに理由なんていらないでしょ?」

 息が詰まる。
 ココアの湯気が、ふたりの間をかすかに揺らす。

 結衣は下を向き、震える声でつぶやいた。

 「……そういう冗談、ほんとにやめてください。」

 「……冗談じゃなかったら?」

 その言葉が、静かな夜を切り裂いた。
 目を上げると、彼はもう笑っていなかった。
 真剣な眼差しで、まっすぐに結衣を見ている。

 時間が止まったように、世界が静まり返る。
 時計の針の音が、やけに大きく響いた。

 「――…っ、帰ります。」

 かろうじてそれだけを言い残し、結衣は逃げるようにナースステーションを出た。







 夜の駐車場。
 春風が吹き抜ける。
 空には、薄い雲の向こうにぼんやりと月が浮かんでいた。

 (冗談じゃなかったら、って……どういう意味…?)

 心臓がずっと鳴りやまない。
 風が頬を撫でるたびに、さっきの彼の声が蘇る。

 "惹かれるのに、理由なんていらないでしょ?"

 ――あの人の笑顔が、脳裏から離れない。

 まだ、恋とは認めたくない。
 でももう、“好き”の輪郭は、どうしようもなく形を成していた。

 白衣の袖口を握りしめながら、結衣は小さく呟く。

 「……陽向先生、ずるい。」

 夜風が、その言葉をそっとさらっていった。

 触れそうで、触れない距離。
 けれど、もう確かに――灯り始めた小さな恋の熱が、そこにあった。
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