『偽りの婚約(フィアンセ)と、秘めた恋心(アンサー)〜御曹司の溺愛は、いつも切ないすれ違い〜

第4章:運命の再会は、街角で

東條家での生活にも慣れ、結衣は与えられた「婚約者」としての役割を、完璧にこなすようになっていた。
蓮は相変わらず多忙で、二人が顔を合わせるのは、社交の場か、夜のわずかな時間だけだ。

しかし、蓮の冷たさの中にも垣間見える不器用な気遣いや、高瀬アパレルへの的確な支援を見るにつけ、結衣は彼に対する「冷徹な御曹司」という認識が、少しずつ揺らいでいた。

(蓮様は、根は優しい人なのかもしれない。ただ、感情を表現するのが苦手なだけで……)
そんなことを考え始めていたある日の午後。

結衣は、婚約披露パーティで着用するドレスの最終フィッティングのため、付きの運転手に連れられ、銀座の高級ブティックを訪れていた。フィッティングが終わり、気分転換に一人で歩きたくなった結衣は、運転手に「この辺りで買い物をしてから帰るので、大丈夫です」と告げ、数時間の一人時間をもらうことにした。

人混みに紛れ、久しぶりに一人の時間を満喫する。東條家での緊張感から解放され、結衣は心底リラックスしていた。

ふと、歩き疲れて立ち寄った、路地裏にある静かなカフェのテラス席。結衣は、通りを眺めながら、アイスティーを飲んでいた。

その時、目の前の通りを歩いてくる、見慣れたシルエットに、結衣は思わずグラスを取り落としそうになった。
「あ……佐伯先輩?」

「高瀬か? いや、高瀬じゃなくて……結衣?」
声をかけたのは、結衣の大学時代、同じデザイン学部で学んでいた、佐伯 愁人だった。

佐伯は、当時から面倒見が良く、実直な性格で、結衣にとっても頼れる先輩だった。現在は、インテリアデザインの会社を立ち上げ、活躍していると聞いていた。

「佐伯先輩! お久しぶりです。まさか、こんなところで会うなんて」
結衣が立ち上がると、佐伯は驚きと喜びが混じった表情を浮かべた。

「本当に奇遇だな! 連絡しようにも、お前、政略結婚ってニュースになってたから、まさか連絡先が変わってるだろうと思ってさ。元気にしてたか?」

「はい、おかげさまで。先輩も、お変わりないですね」
結衣は、佐伯と席を向かい合って座った。数年ぶりの再会に、二人の会話は弾む。

学生時代の思い出話、卒業後の仕事の話。蓮との緊張した毎日を送っていた結衣にとって、佐伯との気兼ねない会話は、心が安らぐ時間だった。

佐伯は、結衣の左手の薬指に光る大きな婚約指輪を見て、一瞬、少し寂しそうな表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。

「結衣、お前が幸せなら、何よりだ。東條グループの御曹司か……すごいな」
「いえ、私は……。これは、会社の関係で……」

結衣が言葉を濁すと、佐伯は、静かに結衣の手を包むように、テーブルの上に自分の手を置いた。

「結衣。実はな……今日、偶然会ったのも、何かの縁だと思って。ずっと言えなかったことがあるんだ」
佐伯の真剣な眼差しに、結衣はゴクリと唾を飲み込んだ。彼の表情は、学生時代には見せなかった、大人としての覚悟のようなものを含んでいた。

「大学の時、俺は、お前がずっと好きだった」
静かなテラスに、佐伯の正直な告白が響く。結衣は、驚きのあまり、言葉を失った。
「え……先輩が?」

「ああ。卒業する時、ちゃんと告白しようと思ってたんだ。でも、お前は常に華やかで、優秀で……俺なんか、言っても迷惑だろうって、臆病になって言えなかった」
佐伯は、苦笑いを浮かべながら、手で頭を掻いた。

「今更、こんなことを言っても、お前はもう婚約者だ。ただ、後悔したくなかったんだ。あの時、言わなかったことを」
佐伯の目には、清々しさとともに、過去への未練のようなものが滲んでいた。

「だから、本当に心から、お前の幸せを願っている。東條さんのことはよく知らないが、結衣を泣かせたら、俺が絶対に許さないからな」
佐伯は、結衣の手から、優しく手を離した。

結衣は、胸が熱くなるのを感じた。長年、友人だと思っていた先輩から、秘められた真剣な想いを打ち明けられたことに、動揺しつつも、感謝の念を抱いた。

「佐伯先輩……ありがとうございます。今、聞けてよかったです。私も、先輩のことは、尊敬できる大切な先輩だと思っています」
結衣が、心からの微笑みを浮かべた、その時だった。

結衣と佐伯が、穏やかな別れの挨拶を交わしている、ちょうどその瞬間。
一本、隣の大通りを、蓮の乗った黒塗りの高級車が、ゆっくりと通り過ぎていった。秘書との重要な会議を終えたばかりの蓮は、いつものように、疲労の色を隠せない顔で、手元の資料に目を通していた。

ふと、信号で車が停止した際、蓮は窓の外の路地裏のカフェに、何気なく目をやった。
(――結衣?)
彼は、自分の視界に入った光景に、一瞬で、全てを忘れ去った。

夕暮れがかったオレンジ色の街灯の下。
自分の「婚約者」であるはずの高瀬結衣が、見知らぬ男と、親しげに、向かい合って座っている。

蓮の注意を引いたのは、二人の距離だった。男は、結衣の顔を覗き込むように真剣な眼差しを向けている。そして、次の瞬間、男が結衣の手を包み込み、何かを真剣に語りかける。

結衣の顔は、驚きに目を見開き、そして、少し顔を赤らめたように見えた。
(あの男は、誰だ)

蓮の心臓が、まるで警鐘のように、不規則なリズムを刻み始めた。それは、冷静沈着な彼が、これまで体験したことのない、底知れない、熱く、不快な感情だった。
車は信号が変わり、やがて通り過ぎる。

蓮は、結衣がその男に、心からの微笑みを向けている、最後の瞬間を目撃した。
(俺以外の男に、あんな顔をするな)

彼の理性が崩れ、腹の底から、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。蓮は、手に持っていた資料を、無意識に強く握りつぶしていた。
「東條様、どうかされましたか?」

運転手の問いかけに、蓮は低く、冷たい声で命じた。
「運転を止めろ。すぐに、あのカフェの前に戻れ」
彼の穏やかだった瞳は、嫉妬という名の激しい嵐に飲み込まれ、もう、冷静な光を宿してはいなかった。この目撃が、二人を、切ないすれ違いの泥沼へと引きずり込む、運命の始まりとなる。
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