『偽りの婚約(フィアンセ)と、秘めた恋心(アンサー)〜御曹司の溺愛は、いつも切ないすれ違い〜

第6章:すれ違いの夜と、冷たい指輪

佐伯との再会を目撃した翌日以降、東條邸の空気は一変した。蓮と結衣の間には、目に見えないが、確実に存在する冷たい壁が築かれていた。

蓮は結衣を避け、必要最低限の会話しかしない。同じ部屋にいても、お互いの存在を無視し合う時間が、増えていった。
夜、結衣が意を決して、蓮に話しかける。

「蓮様。お話ししたいことがあります」
蓮は、デスクで資料を広げたまま、低い声で返した。
「何だ。仕事の話なら後にしてくれ」
「違います。私たちのことです。この数日、蓮様の態度があまりにも冷たいので、私が何か気に障ることをしたのかと……。もしそうなら、教えていただきたいのです」

蓮は、持っていたペンをデスクに強く置いた。その音に、結衣はビクリと身体を揺らす。
蓮は立ち上がり、ゆっくりと結衣に近づいた。その瞳は、昨日にも増して冷たく、結衣を値踏みするかのように見つめている。

「気に障る、だと? 気にする必要はない。君は、契約通りに振る舞っている」
蓮はそう言い放つと、結衣の左手の薬指を、鋭い視線で射抜いた。
「君の役割は、私の隣で、東條グループの婚約者として優雅に微笑むこと。そして、私以外の男とは、不必要な接触を持たないことだ」

結衣は、蓮の言葉の裏に、激しい非難が込められていることを悟った。彼の言う「不必要な接触」とは、明らかに昨日の佐伯先輩との再会のことだ。

「……っ! 昨日のことですか。佐伯先輩とは、本当に偶然お会いしただけです。彼は、大学時代の先輩で、友人としてお話ししただけで……」
「友人?」蓮は、冷笑した。

「ほう。君の友人は、婚約者を前に、そんなに親しげに、手を握り合うものなのか? それとも、公衆の面前で、昔の恋心を告白してくるものなのか」

蓮の言葉が、あまりにも正確に、核心を突いていたため、結衣は息を詰まらせた。蓮が、二人の会話の全てを聞いていたわけではないだろうが、決定的な場面だけを見て、誤解していることは明白だった。

「違います! 手を握ったのは一瞬ですし、告白も、昔の、終わった話として……」
「言い訳は聞きたくない」蓮は、結衣の言葉を遮った。
彼は、一歩踏み込み、結衣の顔のすぐ傍に顔を寄せた。その迫力に、結衣は反射的に後ずさりする。

「私との結婚は、高瀬アパレルを救うための、ビジネスだ。君が、私との契約を履行するにあたり、過去の男との未練を見せられては、東條家の顔に泥を塗る」

蓮は、結衣の左手の薬指を、ぞんざいに掴んだ。指輪のプラチナが、皮膚を通して冷たさを伝えてくる。
「いいか。君が私に与えるべきものは、感情ではない。忠実さだ。私以外の男に心を許すな。それが、契約内容だと思え」

蓮の強い、独占的な言葉に、結衣は心臓が引き裂かれるような痛みを感じた。彼の言葉は、結衣に対する「愛」から出たものではなく、全て「所有欲」と「契約」に基づいているように聞こえたからだ。
「……わかりました」

結衣は、泣き出しそうな声を押し殺して、そう答えるしかなかった。
「私が、蓮様に恋をしているわけがないでしょう。ただの契約です。ご心配なく。私が蓮様以外の誰かに心を許すことは、絶対にありません」

結衣の言葉は、蓮の冷たさに負けないよう、強く、意図的に突き放すように発せられた。

蓮の表情が、一瞬、激しく歪んだ。結衣の「蓮様に恋をしているわけがない」という言葉が、彼の胸の奥深くに突き刺さったのだ。
(ああ、そうだ。君は俺を愛していない。契約だから、俺の傍にいるんだ)

分かっているはずの事実なのに、結衣から直接、冷たく言い放たれると、蓮の心は激しく軋んだ。
蓮は、すぐに無表情の仮面でその動揺を隠した。そして、掴んでいた結衣の指を、突き放すように離した。
「結構だ。その言葉、忘れるな。私との契約は、君の家の命綱だ」

そう吐き捨てると、蓮は再びデスクへと戻り、PCの画面に視線を固定した。結衣は、その冷たい背中を見て、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
(この人は、私がどうなっても、会社の危機が去れば、それでいいのね)

結衣の瞳には、蓮の冷酷さが、さらに深く刻み込まれた。

その夜、二人は沈黙の中で一夜を過ごした。
蓮は、デスクで仮眠をとり、結衣は、広大なベッドの端で、小さく横になっていた。
午前四時。蓮は、喉の渇きを覚えて目を覚まし、ベッドを見やった。暗闇の中、結衣が丸くなって眠っているのが見える。

(……言い過ぎた)
蓮は、昨夜の自分の冷酷な言葉を反芻し、後悔の念に苛まれた。自分が激しい嫉妬に駆られ、彼女を傷つけたことくらい、理解している。だが、一度口から出てしまった言葉は、もう取り消せない。

彼は、佐伯への嫉妬が、自分をこれほどまでに理性を失わせるとは思っていなかった。結衣が、あの男に優しく笑いかけたことが、彼の幼い頃から秘めてきた純粋な恋心を、粉々に砕いたのだ。

蓮は、音を立てないよう、結衣の傍まで歩み寄った。
結衣の頬には、乾いた涙の跡が、薄く残っていた。
「……泣かせたな」
蓮は、自嘲するように、小さく呟いた。

彼は、そっと、結衣の左手の薬指に触れた。そこには、彼の選んだ婚約指輪が、冷たく光っている。
蓮は、その指輪を撫でるように触れながら、心の中で、誰にも聞かれないように、熱い想いを告白する。
(君に、幸せになってほしい。それは、偽りない、俺の願いだ)

(だが、君の隣にいるのは、俺でなければならない。君を救い、君を守るのは、契約ではなく、愛からだ。それを、君は知らなくてもいい。知れば、君は重荷に感じるだろうから)
彼は、秘めた愛を、相変わらず冷たい「契約」という名の箱に閉じ込める。

蓮は、結衣の指から手を離し、静かにデスクに戻ろうとした。その時、結衣が寝言のように、小さく呟いた。
「……先輩」
その一言が、蓮の凍りついた心臓を、再び激しく打ち砕いた。

蓮は、その場に立ち尽くし、全身の血の気が引くのを感じた。
(やはり、そうか。彼女の心には、まだ、あの男がいる)
彼の脳裏で、佐伯と結衣が笑い合う光景が、再びフラッシュバックする。蓮は、激しい痛みと、どうしようもない絶望に打ちのめされた。

「……契約だ。契約なんだ」
彼は、自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返す。彼女を繋ぎ止めるものは、愛ではなく、会社の未来という「鎖」しかないのだと。

蓮は、もう一度、深く、冷たい壁を築いた。その壁は、彼の深い愛情と、結衣への独占欲、そして、恐ろしいほどの誤解によって、さらに高く、強固なものになってしまった。
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