テイラー侯爵は甘やかしたい

02 侯爵からの手紙

 舞踏会があった翌朝から一週間ほどぐずついた天気が続いた。ようやく訪れた晴天に、溜まってしまっていた洗濯物を一気に済ませる。これが終わったら街に出て、お夕飯の買い出しに出掛けようと考えていると、お部屋の中からジャックお兄さまが「すぐに応接間へ」と声を掛けてきた。

 濡れたエプロンを外し、くるぶしまであるスカートのよれた裾を整える。応接間へ顔を出せば、早々にお母さまから「紅茶を淹れてちょうだい」という要望が入った。すぐに、と返事をしキッチンのほうへ急ぐ私の背中に「全員分よ」ともう一度お母さまの声が当たった。

 湯と茶葉を用意し、茶器を載せたワゴンを押す。応接間へ戻れば、先ほどまでいなかったお父さまとシエナお姉さまもいて、お姉さまは退屈そうにソファーの上で一つ欠伸をした。

「先ほど、手紙が届いた」

 ポットから注いだダージリンの甘やかな香りが私の鼻をくすぐる。お父さまの前に、ティーカップを置くのと同時に、お父さまはそう口を開いた。

「手紙?」

 シエナお姉さまが首を傾げる。

「ああ。アリス・テイラーという男からだ」
「アリス・テイラーというと、クランブルの侯爵ではないですか」

 お兄さまがお父さまに言う。艶やかで真っ直ぐなジャックお兄さまの茶色の髪は、窓から差し込む光が反射して、ダージリンの紅茶のようにキラキラと光っている。クランブルは確か、とてものどかで、フルーツや野菜が豊かに実る町だ。お兄さまの話では、そのアリス・テイラーという男性はその町の領主なのだという。

「そのテイラー侯爵が、一体なんの手紙を?」
「うちの娘を、嫁に貰いたいそうだ」

 真っ赤なシーリングワックスが目立つ白い封筒を掲げ、お父さまが言う。まぁ、といの一番に色めきだった声を上げたのはお母さまだった。

「もちろんそれは、シエナを、ということですわよね?」
「おそらく」
「おそらくって?」

 お母さまが眉を顰める。お父さまは「んー、いや、」と言い淀みながら、最近ぽっこりと出てきたお腹を隠すように、ベージュ色のベストをそっと整えた。

「それが、手紙には『ご令嬢さまを』としか書かれていなくてな。誰を、という名前がないんだよ」
「ヴィオは社交界に出たことがないんですよ。シエナに決まっていますわ」

 お母さまが扇子で私を差す。私もそれに「ええ」と賛同し頷いた。

「先日の舞踏会でも、皆、お姉さまに釘付けでした。私に……とは、考えられません」
「テイラー侯爵とは踊ったのか?」
「さぁ。どうだったかしら。覚えていないわ。ヴィオの言う通り、たくさんの紳士とダンスをしたので」

 お兄さまに尋ねられたお姉さまは、困ったように答えるけれど、その声はどこか上機嫌そうに聞こえた。先ほどまでの退屈さは、すっかりとなくなっているようだった。

「ついにシエナも結婚ね。ああ、忙しくなるわ」

 ふふふ、とお母さまが可愛らしく両手を重ねて言う。はぁ、と幸せに満ちた溜息を遮ったのは、

「私、テイラー侯爵とは結婚したくないわ」

 他の誰でもなくお姉さま本人だった。

「えっ!」

 お母さまが悲鳴に近い声を上げる。なぜ、と詰め寄られたお姉さまは「だって」と、紅茶をそっと啜って続けた。

「クランブルなんて田舎……ではなくて、顔も分からない侯爵さまのところに嫁ぐなんて、私、不安よ」
「でも、シエナ。そんな選り好みしていたら、次の縁談はいつになるか……」

 お母さまの口元が引き攣る。お姉さまは、特にそれを気に留めることはしない。気に留めないどころか、とても自信に溢れた笑顔でお父さまとお母さまを見た。

「私、皇子さまに気に入られたのよ。先日の舞踏会、私、一番に皇子さまから誘われたの。それから、食事の誘いもいただいたわ」

 ええっ、とお母さまの口からはまた高い声が上がる。お母さまの表情が、いつにも増してコロコロと大きな変化を見せるから、目が回ってしまいそうだ。

「お父さまだって、田舎の侯爵さまよりも皇子さまのほうがいいに決まっているでしょう?」
「そ……れは、たしかに、そうだな」

 うん、とお父さまは緩む口元を隠すように頷く。きっと頭の中は、この家の繁栄を思い描いているのだろう。

「では、このテイラー侯爵の申し入れは断るということで、」
「いえ、父上。テイラー侯爵の縁談は受けましょう」
「ちょっと! お兄さま、何を言っているの? 私は絶対にイヤよ」
「最後まで話を聞け、シエナ」

 綺麗な唇を歪ませたお姉さまを、ジャックお兄さまは冷静に制止する。高い声は頭が痛む、とお兄さまは眉間に皺を寄せて、こめかみを指で押さえた。

「テイラー侯爵の元には、シエナではなくヴィオレッタが嫁ぐのです」

 お兄さまの口から突然紡がれた私の名前に肩が跳ねる。困惑した声を私とお父さまが同時に上げた。

「手紙には『ご令嬢さま』としか書かれていなかったのでしょう? ならば、ヴィオもそれに当てはまりますから」
「でも、ジャックお兄さま、私では……」
「いいえ、ヴィオ! それがいいわ。これを逃したら、ヴィオにはきっと縁談話は舞い込んでこないわよ。ね!お父さま、お母さま」

 お姉さまが一度手を叩く。

「お相手が侯爵さまなら、お父さまも文句はないでしょう?」
「うーん、まぁ……そうだなぁ」
「そうよ。これで決まり。よかったわね、ヴィオ。ヴィオにはきっと、のどかな田舎暮らしがぴったりだと、姉さまは思うもの」
「ええ。私もそう思うわ」

 ずっと険しい顔をしていたお母さまも、パッとその表情を明るくさせる。

「それでは、私はこれから商談がありますので」

 お兄さまが席を立つ。このままこの話が進むべきではないと思う私が「お兄さま」と声を掛ければ、彼は一度私に視線を向けた。ブラウンのジャケットを羽織りながらお兄さまは、あの日、舞踏会で見たお姉さまと同じ目で、

「婚姻は、お前のためにするものではない」

と言った。



 夜の帳がどっぷりと落ちた頃。湯浴みを済ませ、部屋へと戻る途中。聞こえてきた声に、思わず息を潜めた。

「てい良く、ヴィオレッタお嬢様をこのお屋敷から追い出すだけでは……」
「お可哀想に」

 使用人たちの声だ。そっと壁に背中を預け、息を吐く。目を伏せて考える。思い出すのは、お姉さまとお兄さまの目つきだ。すっかり落ち込んでしまった私は、使用人たちが私がいる廊下の角を曲がろうとしていることにも気付かず、彼女たちが小さく悲鳴を上げるように息を飲む音で、ようやく我に返った。

「おやすみなさい」
「お、おやすみなさいませ」

 頭を下げて別れる。悪いことをしてしまった。きっと気を遣わせただろう。

 まだ濡れた髪から雫が落ちる。もっとしっかり乾かさなければと思うけれど、今日はとても疲れてしまっていて、それができそうになかった。使用人たちが言っていたことはもっともだ。私はいずれ、アビントン家にとって大きな負担となる。何もない私には貰い手も現れず、お父さまはきっと焦ることだろう。年頃の娘が、いつまでも実家に入り浸っているなんて。だから、私は、これで良かったのだ。私にとっては、それはひどく光栄なことだけれど、屋敷から追い出された厄介者を、引き受けなければいけなくなるテイラー侯爵さまにとって、幸せなことなど何もありはしない。

 深く溜息が零れる。お父さまもお兄さまも、きっと私の言うことを聞いてなどくれないだろう。私は、どうしたらいいのかしら。私の口からは、心から溢れる不安が尽きることなく溢れている。

 ついにこの日がやって来てしまった。段取りは全てお父さまがテイラー侯爵さまとやり取りし、私の、鞄一つに収まる荷物は、お母さまの言いつけで使用人によって早々にまとめられた。

 馬車が私の体を揺らす。舞踏会へ行くときとはまるで心の置き場が違った。顔も分からなければ、声も聞いたことがない。手紙の文面すら見ることを許されなかった。お若い方だとはお兄さまが言っていたけれど、一体どんな人なのだろうか。

「すぐに愛想を尽かされて、帰ってくることのないように」

 お母さまの声が頭を巡る。それは侯爵さまが私を望んでいるのであればの話だ。もし彼が、お姉さまとの婚姻を望んでいるのであれば。私との婚姻に嫌な顔をするならば、すぐにこの話はなかったことにして帰ろう。お兄さまは、この婚姻は「お前のためにするものではない」と言っていた。そうよ、これは、テイラー侯爵さまの望みがすべて。だから、彼が望まないのであれば、この婚姻は成立しないのだ。

 あれこれと考え込んでいる内に、馬車の歩みがゆっくりになる。やがてそれは完全に止まって、御者が扉を開けてくれた。彼の手を取り馬車を降りる。外を見ることを忘れていた私は、あっという間に田舎町へと姿を変えた世界に驚きを隠せなかった。

 石畳の多いマディラとは違い、一面が緑に覆われているかと思うほどだ。鼻をくすぐる、草花の香り。どこからか、馬の嘶きが微かに聞こえてくる。

 御者が私の鞄を下ろし終える。

「お嬢様、お別れが名残り惜しいのですが、後の予定がございまして、私はこれにて失礼させていただきます」
「ここまで連れてきてくれてありがとう。お元気で」
「ヴィオレッタお嬢様も」

ハグを交わし、御者席に着いた彼は再び馬へ鞭打つ。砂埃をあげて馬車は来た道を戻っていく。その姿を見送って、私も荷物を持ち上げた。

 言われた通りの住所で、美しい薔薇が実るアーチが私を出迎えた。広い庭。そのずっと先に、古くて大きなお屋敷がある。あれがきっと、テイラー侯爵さまが住んでいるお屋敷なのだろう。歴史を感じる景色。綺麗に整えられた芝。高まる緊張に、心臓が弾けて、口から出てしまいそうだ。怖いお方だったらどうしよう。どうしましょう、手が震えてしまう。

 鉛のように足は重いのに、考え事をしていたせいか、あっという間に玄関の前までやって来てしまった。胸に手を当てて、一度大きく息を吐き出す。震える手を軽く握って、重そうなチョコレート色の扉をノックした。

「マ、マディラのアビントン家からやって参りました。ヴィオレッタ……」

と申します、と言おうとした言葉は、突然開かれた扉によって言うことができなかった。扉にくっつくようにして中に声を掛けていた私の体は、こちら側に開いた扉によって大きくよろめく。「ああ、危ない!」と中から飛び出してきた男性が私を抱き留めた。

「すまない。あまりに待ち焦がれすぎて、いきなり扉を開けてしまった。大丈夫かい?」
「は、はい。私は、大丈夫です」

 私の両腕を掴むようにして支えてくれていたその人は、私がしっかりと立ち直したのを確認すると、もう一度「大丈夫だね」と言葉でも確認してから、ようやく手を離した。

「マディラからここまではとても遠かっただろう」
「いえ、そんなこと。考え事をしていたら、あっという間でしたので」
「考え事? それは楽しいこと?」
「えっと、あの、」
「まぁいいか、それは。君の部屋はもう準備をしてあるから、まずはゆっくりそこで休むといい。荷物の整理もあるだろうし」

 馬車の中で考え事をしていたことを切り出そうとすれば、会話のテンポの速さに置いて行かれる。エヴァンス、とその人は振り返り、人を呼ぶ。真っ白なブラウスの上に纏った、若草色のベストの背中に、なぜか芝がいくつも付いていることが気になった。けれど、それすら聞ける暇がない。

「はい、坊ちゃま」
「アビントン家のご令嬢が参った。部屋へ案内して」
「はい、かしこまりました」

 エヴァンスと呼ばれた、少し腰が曲がり、白まじりの髪をキュッと結った小柄な女性は「さぁ、こちらへ」とニコやかに私を促す。

「あ、あの、」
「お荷物は、私が」

 今度は赤毛の若いメイドが、音もなく突然私の隣に現れるから、驚いて体が跳ねる。上がりそうになった悲鳴を懸命にこらえ、代わりに息をまず吐き出した。

「いえ、荷物くらい私が自分で、」
「いいえ。ご遠慮なさらないでくださいませ。これが私どもの役目ですので」

 半ば強引だった。私よりも一つか二つ、年も下であろう女の子に予想以上に強い力で鞄を奪われ、それ以上は何も言い出せない。あれよあれよという間に、屋敷の中へ連れて行かれる私を、坊ちゃまと呼ばれていた彼が鼻歌まじりに見送っている。勢いに流され考える余裕もなかったが、きっとこの人が、この家の主人である、アリス・テイラー侯爵さまなのだろう。
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