テイラー侯爵は甘やかしたい
03 背中の芝
「嵐のような、一日だったわ」
怒涛の流れに流されるままに、一日があっという間に過ぎていった。おやすみなさいませ、と部屋を出ていった綺麗な赤髪のメイド。気付いたときには、私はベッドの中で横になっていた。
「結局、言い出せなかった」
私との婚姻を、侯爵さまが望んでいるのかどうか。こういうことは早く済ませておかなければいけないのだけれど。
湯浴み後に、優しく乾かされ梳かれた髪のお陰で湯冷めもない。布団は綿がぎっしりと詰まっているようで、ぬくぬくとした温かさが、疲れた私の体を眠りへと誘う。
今日言い出せなかったことは、もう明日にしてしまおう。私は自分が望むままに目を閉じた。
「洗濯は、私にお任せくださいませ」
「えっ、そんな、いいのよ。これくらい、自分でできるわ」
「いいえ。これは、私どもの役目ですので。まだ昨日の旅の疲れも残っておられることでしょう。お嬢様は、ゆっくりとお過ごしください」
赤毛のメイドは、また強引に私の手から、今度は昨日着ていた服と寝間着を奪っていく。朝食もそうだった。自分で準備をするつもりでいたのに、起きたときには全て完璧にセットされていて何もすることがなかった。食べ終わったお皿は私が立ち上がった絶妙なタイミングで下げられてしまうし、キッチンへは立ち入りさえさせてもらえず、片付けもする必要はないと言われた。
呆然と立ち尽くす私の背中に、くすくすと笑う声がぶつかる。振り返れば、侯爵さまで、うっすらと茶色みがかったブラウスの袖を捲りながら笑っていた。
「オリビアに全部取られたのか」
「え、ええ。自分ですると言ったのですけれど」
「それはうちでは難しいかもしれない」
侯爵さまが大きな掃き出し窓を開ける。舞い込んだ春風がレースのカーテンを揺らした。彼は未だ可笑しそうに笑いながら、そのまま庭のほうへ出る。ずんずんと進んでいくその背中を見て、言わなければいけないことがあったのを思い出した。小走りでその背中を追う。侯爵さまの歩幅は私よりも随分大きく、追いつく頃には少し息が切れた。
「あの、侯爵さま、」
「うん?」
「少しお話があるのですけれど……」
「その口振りは、なんだかとても気難しい話をするように思えるから、今は聞きたくないな」
また後で、と言って、侯爵さまはそのまま芝生の上へ腰を下ろし、自分の腕を枕にするようにして仰向けにごろんと寝転んだ。本当に聞く耳はないようで、その瞼はしっかりと閉じられてしまった。
首元に巻かれたスカーフタイに、真っ青な宝石が光っている。ミルクティーのような色のベストに、それよりも少し色の濃いスラックス。天を向いた革靴の足先は、少しだけ外側を向いて開いている。
そよそよと吹く春のそよ風が、ジャックお兄さまとは違う、ふんわりと巻かれたチョコレート色の髪を揺らしている。そういえば、まだハッキリとそのお顔を拝見していなかったと気付く。すっと通った鼻筋。私よりも綺麗な、真っ白な、白磁のような肌。目は閉じられているけれど、とても美しい人だ。お兄さまの言う通り、侯爵さまはとても若いお人であることにも気付く。そんな方が、こんな歴史を感じる大きなお屋敷で、私が把握しているだけでも五人は使用人を雇っていることに、ひそかに驚きを感じる。
「ヴィオレッタ」
突然の呼びかけに体がびくつく。視線を下ろせば、彼は目を閉じたまま続けた。
「君も、ゆっくりするといいよ。ゆっくり息を吸って、吐いて、少し周りを見回してごらん」
「えっ」
「難しい話は、その後でもいいんじゃないかな」
時間はたっぷりあるし、と侯爵さまは口元を穏やかに綻ばせる。それは、妙に説得力があって、私も素直にスカートを織り込んで、彼の隣に座った。柔らかな芝の感触に、思わずホッと胸のつっかえが和らいだように思えた。
遠くでオリビアが洗濯物を干している姿が見える。昨日と同じようにどこかから馬の嘶きと、犬が可愛らしく吠えている声が聞こえた。
そして、あれはそうだったのかとふと気付いて、笑いが零れた。昨日、侯爵さまの背中についていた芝は、彼が今日と同じようにここで寝転んでいたせいだ。
◆
昼食は、テラスに出した席で食べようと侯爵さまは言った。
白い丸テーブルに、白い椅子が二脚。私たちは向かい合うように座って、侯爵さまはサンドイッチを一つ、ペロリと気持ちよく平らげた。その隙間を見て、話したかった話題をようやく切り出すことができた。
「テイラー侯爵さまは、本当に私との婚姻を望まれているのですか?」
その問いかけに、彼は手を止めてジッと私を見た。侯爵さまは、もう一つお皿に置かれていたサンドイッチのパンを開いて、あまり上品とは言えない、中にあるベーコンを指でつまんでいる途中だった。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「思い描いていた人とは違って、ガッカリされているのではないかと、思って……」
「それじゃあ、君はどうなの?」
「え、」
ぱくりと、つままれていたベーコンが侯爵さまの口の中に消えていく。親指と人差し指についたソースをぺろりと舐めとってから、今度はパンを掴み上げた。中には、もうレタスしか入っていない。
「君は僕のことを知らなかっただろう。ここに来て、初めて僕を認識した」
「ええ……」
「どんな僕を想像していた? 思ったよりも若かった? 変なやつだと思った? 君は、僕にガッカリしていない?」
「ガッカリなんて、そんな……」
「『私がガッカリしたなんて言うのはおこがましい』なんて思っているだろう」
思わず言葉が口の中でまごつく。図星かな、と侯爵さまは、私の様子を見てくすくすと肩を揺らして笑った。そして、レタスが挟まれたサンドイッチをかじる。もぐもぐと口を動かして、ゆっくりと飲み込んだ彼は、真っ白なシルクのナフキンで口元を拭った。
「まぁ、君が僕にガッカリしているかどうかは分からないけれど、」
「た、確かに、私が誰かを評価できるような人間だとは思っていません。でも……侯爵さまには昨日お会いしたばかりで、よく……知らないので」
侯爵さまは一度、二度、少し丸くした目を瞬かせると、すぐに「ふふ」と可笑しそうに笑った。それから、頬杖をついて「そうだなぁ」と考え込む。その口元は穏やかに弧を描き、どこか楽しそうに見えた。
「一年くらい、籍は入れずに一緒に暮らしてみるっていうのはどうだろう」
「えぇ?」
「僕は別に、結婚に焦っているわけではないから。一年後、互いにガッカリしていなかったら、籍を入れることにしよう」
それなら君も安心だろう、と言って、それでこの話は終わりだと、侯爵さまは席を立ってしまった。私の目の前にはまだ、手つかずのままのサンドイッチが二つ残っている。
何だか私は言いたいことのほとんども言えず、よく分からないうちに丸め込まれてしまったように思う。テイラー侯爵さまは、お姉さまとの婚姻を望んでいたわけではなかったのだろうか。彼から届いた手紙の『ご令嬢さま』は一体、誰を指していた言葉だったのだろう。
「ああ、そうだ。ヴィオレッタ」
「はい」
部屋の中へ戻ろうとしていた侯爵さまが私を振り返る。
「侯爵さまなんて堅苦しいから、アリスって気軽に呼んで。そのほうが、きっと、うんと仲良くなれるよ」
柔らかく細められる瞳。思わず見惚れてしまうほど美しく、慌てて視線を逸らした。
私の返事はどんなものでもきっと良かったのだろう。満足そうな侯爵さまは、近くにいた使用人に「ごちそうさま」と告げて、鼻歌を歌いながら去って行ってしまった。ようやくサンドイッチを一口齧る。「おいしい」と呟いた声は、小鳥の囀りと共に溶けていった。誰かが作った料理を食べるのは、何年ぶりだろう。
怒涛の流れに流されるままに、一日があっという間に過ぎていった。おやすみなさいませ、と部屋を出ていった綺麗な赤髪のメイド。気付いたときには、私はベッドの中で横になっていた。
「結局、言い出せなかった」
私との婚姻を、侯爵さまが望んでいるのかどうか。こういうことは早く済ませておかなければいけないのだけれど。
湯浴み後に、優しく乾かされ梳かれた髪のお陰で湯冷めもない。布団は綿がぎっしりと詰まっているようで、ぬくぬくとした温かさが、疲れた私の体を眠りへと誘う。
今日言い出せなかったことは、もう明日にしてしまおう。私は自分が望むままに目を閉じた。
「洗濯は、私にお任せくださいませ」
「えっ、そんな、いいのよ。これくらい、自分でできるわ」
「いいえ。これは、私どもの役目ですので。まだ昨日の旅の疲れも残っておられることでしょう。お嬢様は、ゆっくりとお過ごしください」
赤毛のメイドは、また強引に私の手から、今度は昨日着ていた服と寝間着を奪っていく。朝食もそうだった。自分で準備をするつもりでいたのに、起きたときには全て完璧にセットされていて何もすることがなかった。食べ終わったお皿は私が立ち上がった絶妙なタイミングで下げられてしまうし、キッチンへは立ち入りさえさせてもらえず、片付けもする必要はないと言われた。
呆然と立ち尽くす私の背中に、くすくすと笑う声がぶつかる。振り返れば、侯爵さまで、うっすらと茶色みがかったブラウスの袖を捲りながら笑っていた。
「オリビアに全部取られたのか」
「え、ええ。自分ですると言ったのですけれど」
「それはうちでは難しいかもしれない」
侯爵さまが大きな掃き出し窓を開ける。舞い込んだ春風がレースのカーテンを揺らした。彼は未だ可笑しそうに笑いながら、そのまま庭のほうへ出る。ずんずんと進んでいくその背中を見て、言わなければいけないことがあったのを思い出した。小走りでその背中を追う。侯爵さまの歩幅は私よりも随分大きく、追いつく頃には少し息が切れた。
「あの、侯爵さま、」
「うん?」
「少しお話があるのですけれど……」
「その口振りは、なんだかとても気難しい話をするように思えるから、今は聞きたくないな」
また後で、と言って、侯爵さまはそのまま芝生の上へ腰を下ろし、自分の腕を枕にするようにして仰向けにごろんと寝転んだ。本当に聞く耳はないようで、その瞼はしっかりと閉じられてしまった。
首元に巻かれたスカーフタイに、真っ青な宝石が光っている。ミルクティーのような色のベストに、それよりも少し色の濃いスラックス。天を向いた革靴の足先は、少しだけ外側を向いて開いている。
そよそよと吹く春のそよ風が、ジャックお兄さまとは違う、ふんわりと巻かれたチョコレート色の髪を揺らしている。そういえば、まだハッキリとそのお顔を拝見していなかったと気付く。すっと通った鼻筋。私よりも綺麗な、真っ白な、白磁のような肌。目は閉じられているけれど、とても美しい人だ。お兄さまの言う通り、侯爵さまはとても若いお人であることにも気付く。そんな方が、こんな歴史を感じる大きなお屋敷で、私が把握しているだけでも五人は使用人を雇っていることに、ひそかに驚きを感じる。
「ヴィオレッタ」
突然の呼びかけに体がびくつく。視線を下ろせば、彼は目を閉じたまま続けた。
「君も、ゆっくりするといいよ。ゆっくり息を吸って、吐いて、少し周りを見回してごらん」
「えっ」
「難しい話は、その後でもいいんじゃないかな」
時間はたっぷりあるし、と侯爵さまは口元を穏やかに綻ばせる。それは、妙に説得力があって、私も素直にスカートを織り込んで、彼の隣に座った。柔らかな芝の感触に、思わずホッと胸のつっかえが和らいだように思えた。
遠くでオリビアが洗濯物を干している姿が見える。昨日と同じようにどこかから馬の嘶きと、犬が可愛らしく吠えている声が聞こえた。
そして、あれはそうだったのかとふと気付いて、笑いが零れた。昨日、侯爵さまの背中についていた芝は、彼が今日と同じようにここで寝転んでいたせいだ。
◆
昼食は、テラスに出した席で食べようと侯爵さまは言った。
白い丸テーブルに、白い椅子が二脚。私たちは向かい合うように座って、侯爵さまはサンドイッチを一つ、ペロリと気持ちよく平らげた。その隙間を見て、話したかった話題をようやく切り出すことができた。
「テイラー侯爵さまは、本当に私との婚姻を望まれているのですか?」
その問いかけに、彼は手を止めてジッと私を見た。侯爵さまは、もう一つお皿に置かれていたサンドイッチのパンを開いて、あまり上品とは言えない、中にあるベーコンを指でつまんでいる途中だった。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「思い描いていた人とは違って、ガッカリされているのではないかと、思って……」
「それじゃあ、君はどうなの?」
「え、」
ぱくりと、つままれていたベーコンが侯爵さまの口の中に消えていく。親指と人差し指についたソースをぺろりと舐めとってから、今度はパンを掴み上げた。中には、もうレタスしか入っていない。
「君は僕のことを知らなかっただろう。ここに来て、初めて僕を認識した」
「ええ……」
「どんな僕を想像していた? 思ったよりも若かった? 変なやつだと思った? 君は、僕にガッカリしていない?」
「ガッカリなんて、そんな……」
「『私がガッカリしたなんて言うのはおこがましい』なんて思っているだろう」
思わず言葉が口の中でまごつく。図星かな、と侯爵さまは、私の様子を見てくすくすと肩を揺らして笑った。そして、レタスが挟まれたサンドイッチをかじる。もぐもぐと口を動かして、ゆっくりと飲み込んだ彼は、真っ白なシルクのナフキンで口元を拭った。
「まぁ、君が僕にガッカリしているかどうかは分からないけれど、」
「た、確かに、私が誰かを評価できるような人間だとは思っていません。でも……侯爵さまには昨日お会いしたばかりで、よく……知らないので」
侯爵さまは一度、二度、少し丸くした目を瞬かせると、すぐに「ふふ」と可笑しそうに笑った。それから、頬杖をついて「そうだなぁ」と考え込む。その口元は穏やかに弧を描き、どこか楽しそうに見えた。
「一年くらい、籍は入れずに一緒に暮らしてみるっていうのはどうだろう」
「えぇ?」
「僕は別に、結婚に焦っているわけではないから。一年後、互いにガッカリしていなかったら、籍を入れることにしよう」
それなら君も安心だろう、と言って、それでこの話は終わりだと、侯爵さまは席を立ってしまった。私の目の前にはまだ、手つかずのままのサンドイッチが二つ残っている。
何だか私は言いたいことのほとんども言えず、よく分からないうちに丸め込まれてしまったように思う。テイラー侯爵さまは、お姉さまとの婚姻を望んでいたわけではなかったのだろうか。彼から届いた手紙の『ご令嬢さま』は一体、誰を指していた言葉だったのだろう。
「ああ、そうだ。ヴィオレッタ」
「はい」
部屋の中へ戻ろうとしていた侯爵さまが私を振り返る。
「侯爵さまなんて堅苦しいから、アリスって気軽に呼んで。そのほうが、きっと、うんと仲良くなれるよ」
柔らかく細められる瞳。思わず見惚れてしまうほど美しく、慌てて視線を逸らした。
私の返事はどんなものでもきっと良かったのだろう。満足そうな侯爵さまは、近くにいた使用人に「ごちそうさま」と告げて、鼻歌を歌いながら去って行ってしまった。ようやくサンドイッチを一口齧る。「おいしい」と呟いた声は、小鳥の囀りと共に溶けていった。誰かが作った料理を食べるのは、何年ぶりだろう。