テイラー侯爵は甘やかしたい
05 桃の香り
「よし、次は腹ごしらえでもしよう」
買った服も受け取らず、当たり前のようにお店を出て行こうとする侯爵さまを呼び止める。
「あの、まだ服を受け取っていないので……」
「ああ、それなら後でお家までお届けいたしますので、大丈夫ですよ」
焦る私に向かって、店主さんの優しい声で言った。
「そんな、お忙しいのに悪いです。自分で持って帰れますので」
「テイラー侯爵さまのお屋敷でしょう? 他にもまとめて運ぶものもあるので、お気になさらず」
侯爵さまの顔を窺うように振り返る。侯爵さまは「彼の言う通りだよ」と頷いた。
「他にも頼んでいるものがあるし、気にしなくていい。いつもお願いしていることなんだ」
「ええ。そうですよ、奥様。これも俺たちの仕事ですし、旦那さまにはいつも贔屓にしていただいているので。……それにしても、こんなにもお優しい奥様をいつお迎えになられたんですか?」
「あっ、いや、私は……」
奥様じゃないです、と続けようとした私の手を侯爵さまが取った。驚いて侯爵様の顔を見上げれば、彼は私を見てにっこりと微笑む。
「またよろしく頼むよ」
「毎度ありがとうございます!」
その笑みに呆気に取られて言葉を飲み込んでしまった私と、その手を引いて歩き出す侯爵さまを、店主の明るく覇気のある声が見送った。
「僕が適当に見繕ってくるから、君はここに座っていて」
定期市が行われている広場には木陰に小さなベンチがあった。
侯爵さまはベンチの埃を手で払うと、私に座るよう促す。
「でも……」
「疲れたって顔にハッキリ書いてあるけど? まだ朝食も食べていないのに連れ回して悪かった。だから、休んでいて」
肩を優しく掴まれ、しかし力強くベンチに座らせられる。侯爵さまはそれで満足したようで、「すぐ戻る」と言うと、市場の人混みの中へと消えていった。
本当に何もせず、座っているだけで良いのだろうか。
そわそわとして落ち着かない。
けれど侯爵さまの言う通り、慣れない買い物のせいもあってか疲労を感じているのも事実だった。
口から、小さく溜息が零れた。
さっき、侯爵さまは、私が店主に「奥様ではない」と否定することを拒んだ。そう思われても良い、ということだったのだろうけれど。
もし侯爵さまが、本当はシエナお姉さまとの婚姻を望んでいるのならば、しっかりと否定しておかなければいけなかったのではないかと不安になる。
お屋敷に荷物を運んでくれるほど懇意にしている店だ。これからだって何度も侯爵さまと関りがあると容易に想像できる。
こういうことになるから、もっと早く侯爵さまに真意を確かめておかなければいけなかったのに……。
「ヴィオ、お待たせ」
侯爵さまの声に俯いていた顔を慌てて上げる。彼は「良いものがあった」と上機嫌に、私の隣に腰を下ろした。
「手、出してみて」
「は、はい」
両方の掌をそろえて侯爵さまに差し出す。
「はい、どうぞ。もう洗ってあるから、そのまま食べられるよ」
そう言って、侯爵さまがぽんっと私の手の上に置いたのは、愛らしいピンク色を纏った桃だった。侯爵さまの言った通りそれは、ほんのりと水気を纏い冷えている。
「皮も、そのまま?」
「ああ。皮もそのまま食べて大丈夫」
ほら、こうやって。と、侯爵さまは桃を一口、皮ごと齧った。
桃は食べたことあるけれど、アビントンの家では皮をむいて切って食べることが当たり前だった。だから、こんな豪快な食べ方に少しだけ気が引ける。
けれど、せっかく侯爵さまが「今、食べよう」と買ってくれたものだ。ごくり、と唾を飲みこむ。それから、恐る恐る口を開いて、一口、桃の肌に歯を立てた。
途端、じゅわっと溢れる果汁。優しいけれど、濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
芳醇な香りは鼻の奥にまで届く。
目の前の景色が、一瞬にして煌めいた。
「美味しい……!」
「気に入った?」
「マディラで食べた桃と全然違います。舌触りも、香りも……!」
「クランブルは土と水が良いんだ。気候も悪くなくて、植物が育ちやすい」
「果物や野菜の名産地になっているのは、そういう理由なんですね」
「うん、そうだよ」
頷いた侯爵さまは、ジャケットのポケットから白いハンカチを取り出した。そして、私の手を取ると、私の指をハンカチで拭う。
どうやら、気付かない内に果汁が指にまで垂れていたらしい。
「す、すみません、あとは自分でっ」
「いいよ。そのままじっとしていて。服に垂れるから」
「すみません……」
誰かにこんな風に汚れた指を拭ってもらうなんてこと、してもらったことがないからだろうか。それとも、ハンカチ越しから伝わる侯爵さまの体温に緊張してしまっているのだろうか。
……たぶん、理由はどちらも。ドキドキとうるさくなった心臓に息を潜めてしまう。
「……ふっ」
拭われる指を見ていられなくて目を逸らそうとしたときだ。侯爵さまが突然吹き出すように笑った。
彼はくすくすと肩を揺らしながら笑っている。
「あの……?」
「ふふ、ごめん。少し、昔のことを思い出して懐かしくて」
「昔のこと、ですか?」
「ああ。ちょっと、似たようなことがあったなって」
目が合った侯爵さまが、ふわりと目を細める。
瞬間、記憶の小さな枝葉が微かに揺れる感覚がした。
甘い桃の香りと、それから、風が運んできた深緑の香り。
こんな風に外で果物を食べるなんて初めてのはずなのに。私も、これを知っている気がする。
胸に舞い込んだ懐かしい香りに誘われるように、手の中にある桃へ視線を落とした。
買った服も受け取らず、当たり前のようにお店を出て行こうとする侯爵さまを呼び止める。
「あの、まだ服を受け取っていないので……」
「ああ、それなら後でお家までお届けいたしますので、大丈夫ですよ」
焦る私に向かって、店主さんの優しい声で言った。
「そんな、お忙しいのに悪いです。自分で持って帰れますので」
「テイラー侯爵さまのお屋敷でしょう? 他にもまとめて運ぶものもあるので、お気になさらず」
侯爵さまの顔を窺うように振り返る。侯爵さまは「彼の言う通りだよ」と頷いた。
「他にも頼んでいるものがあるし、気にしなくていい。いつもお願いしていることなんだ」
「ええ。そうですよ、奥様。これも俺たちの仕事ですし、旦那さまにはいつも贔屓にしていただいているので。……それにしても、こんなにもお優しい奥様をいつお迎えになられたんですか?」
「あっ、いや、私は……」
奥様じゃないです、と続けようとした私の手を侯爵さまが取った。驚いて侯爵様の顔を見上げれば、彼は私を見てにっこりと微笑む。
「またよろしく頼むよ」
「毎度ありがとうございます!」
その笑みに呆気に取られて言葉を飲み込んでしまった私と、その手を引いて歩き出す侯爵さまを、店主の明るく覇気のある声が見送った。
「僕が適当に見繕ってくるから、君はここに座っていて」
定期市が行われている広場には木陰に小さなベンチがあった。
侯爵さまはベンチの埃を手で払うと、私に座るよう促す。
「でも……」
「疲れたって顔にハッキリ書いてあるけど? まだ朝食も食べていないのに連れ回して悪かった。だから、休んでいて」
肩を優しく掴まれ、しかし力強くベンチに座らせられる。侯爵さまはそれで満足したようで、「すぐ戻る」と言うと、市場の人混みの中へと消えていった。
本当に何もせず、座っているだけで良いのだろうか。
そわそわとして落ち着かない。
けれど侯爵さまの言う通り、慣れない買い物のせいもあってか疲労を感じているのも事実だった。
口から、小さく溜息が零れた。
さっき、侯爵さまは、私が店主に「奥様ではない」と否定することを拒んだ。そう思われても良い、ということだったのだろうけれど。
もし侯爵さまが、本当はシエナお姉さまとの婚姻を望んでいるのならば、しっかりと否定しておかなければいけなかったのではないかと不安になる。
お屋敷に荷物を運んでくれるほど懇意にしている店だ。これからだって何度も侯爵さまと関りがあると容易に想像できる。
こういうことになるから、もっと早く侯爵さまに真意を確かめておかなければいけなかったのに……。
「ヴィオ、お待たせ」
侯爵さまの声に俯いていた顔を慌てて上げる。彼は「良いものがあった」と上機嫌に、私の隣に腰を下ろした。
「手、出してみて」
「は、はい」
両方の掌をそろえて侯爵さまに差し出す。
「はい、どうぞ。もう洗ってあるから、そのまま食べられるよ」
そう言って、侯爵さまがぽんっと私の手の上に置いたのは、愛らしいピンク色を纏った桃だった。侯爵さまの言った通りそれは、ほんのりと水気を纏い冷えている。
「皮も、そのまま?」
「ああ。皮もそのまま食べて大丈夫」
ほら、こうやって。と、侯爵さまは桃を一口、皮ごと齧った。
桃は食べたことあるけれど、アビントンの家では皮をむいて切って食べることが当たり前だった。だから、こんな豪快な食べ方に少しだけ気が引ける。
けれど、せっかく侯爵さまが「今、食べよう」と買ってくれたものだ。ごくり、と唾を飲みこむ。それから、恐る恐る口を開いて、一口、桃の肌に歯を立てた。
途端、じゅわっと溢れる果汁。優しいけれど、濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
芳醇な香りは鼻の奥にまで届く。
目の前の景色が、一瞬にして煌めいた。
「美味しい……!」
「気に入った?」
「マディラで食べた桃と全然違います。舌触りも、香りも……!」
「クランブルは土と水が良いんだ。気候も悪くなくて、植物が育ちやすい」
「果物や野菜の名産地になっているのは、そういう理由なんですね」
「うん、そうだよ」
頷いた侯爵さまは、ジャケットのポケットから白いハンカチを取り出した。そして、私の手を取ると、私の指をハンカチで拭う。
どうやら、気付かない内に果汁が指にまで垂れていたらしい。
「す、すみません、あとは自分でっ」
「いいよ。そのままじっとしていて。服に垂れるから」
「すみません……」
誰かにこんな風に汚れた指を拭ってもらうなんてこと、してもらったことがないからだろうか。それとも、ハンカチ越しから伝わる侯爵さまの体温に緊張してしまっているのだろうか。
……たぶん、理由はどちらも。ドキドキとうるさくなった心臓に息を潜めてしまう。
「……ふっ」
拭われる指を見ていられなくて目を逸らそうとしたときだ。侯爵さまが突然吹き出すように笑った。
彼はくすくすと肩を揺らしながら笑っている。
「あの……?」
「ふふ、ごめん。少し、昔のことを思い出して懐かしくて」
「昔のこと、ですか?」
「ああ。ちょっと、似たようなことがあったなって」
目が合った侯爵さまが、ふわりと目を細める。
瞬間、記憶の小さな枝葉が微かに揺れる感覚がした。
甘い桃の香りと、それから、風が運んできた深緑の香り。
こんな風に外で果物を食べるなんて初めてのはずなのに。私も、これを知っている気がする。
胸に舞い込んだ懐かしい香りに誘われるように、手の中にある桃へ視線を落とした。
