ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き③

昨年の夏だった。

「のう、千隼。一年の時からお前に聞こうと思うとった事があるんじゃけど」

 三年生の先輩たちが甲子園予選岡山県大会でイレギュラーの二回戦敗退して直ぐの、それはもう、溶けて蒸発してしまいそうなほど暑い日だった。夏休みに入ったばかりの部活帰りで、夕方になっても蝉がうるさいくらいにわんわん鳴いていたから、良く覚えている。

「あぁ……暑いのう。なんじゃあ?」

 その日は朝からうんざりするほど暑くて、部活中に実は一度だけ、体力だけが取り柄の俺もとうとうここまでか……と気が遠のいた、最高気温37度の猛暑日だった。

「千隼、お前、彩世のこと好きじゃろう」

 寄り道したコンビニで購入したガリガリ君コーラ味を片手に、肩を並べて歩きながら親友が投下した爆弾発言に、俺は弾かれたように顔を上げた。

「は」

 まるで、今年の夏は異常に暑いよなあ、みたいに、何気ない日常会話のようにあまりにも極自然にさらっと言うものだから、聞き逃すところだった。

「……ん、なっ」

 言葉は喉につっかえて出て来ないし、ただでさえ暑くて立っているだけでも汗が噴き出して来るのに、また別の意味合いの汗が止まらなくなって、二次災害状態になった。

 夏の制服の半そでワイシャツがびしょびしょになった。そんな俺の肩をバシバシ叩いて、孝太はカラカラと笑った。

「そうか、そうかぁ。分かってるって。大丈夫。分っかりやすい奴じゃのう。これじゃぁ千隼は投手には向かんな」

 違う。なに寝ぼけたこと言ってるんだ。阿呆か。あんなおせっかいな女、好きなわけないだろ。うざいだけだ。とかなんとか言ってどうにかして誤魔化さなければ、と焦れば焦るほど、頭の中は面白いほど真っ白になった。

 心臓はばっくんばっくん、あり得ない音で暴れ回るし、口から転び出るんじゃないかと心配になった。

 まずい。やばい。早く誤魔化さないと。そう思うと汗はじわじわとにじみ出す一方で、止まらなくなった。

 たかだかほんの十数秒の出来事だったのだと思う。だけど、その時の俺にはたかが十数秒が十分に思えるほど長いものに思えた。瞬きの仕方さえ忘れて、眼球がカピカピに渇いて痛いくらいだった。

 窮地に立たされてとうとう立ち止まった俺より半歩遅れて立ち止まり、

「溶けとるよ、アイス」

 と孝太は俺の手元を指さして小さく肩で笑う。

 夕方だというのに日差しはきついし、まだまだ暑いし熱風が前方から吹いて来て、ガリガリ君を容赦なく溶かす。

「……のう、孝太ぁ」

 手元からポタポタと滴が落ちて、灼熱のアスファルトに染み込んでいった。

「俺、彩世が好きなんか?」

 自分の顔を人さし指で指しながら聞くと、

「いや。控えめに言うて、でぇれー好きじゃろうなあ。自分がいちばん分かるじゃろうが」

 シャクッとガリガリ君を頬張る孝太は37度の暑さの中でも表情一つ変えない、
根っからのエースだった。投手たるものどんな苦しい状況に追い込まれようが、発狂したいほど嬉しかろうが、心を読まれたりしないように、常に平常心でポーカーフェイス。それが、鳴瀬孝太だった。

 孝太は出逢った時から何事にも冷静で感情を表に出さずに内に秘め、穏やかに見えて心の中は誰よりも野心に満ちた熱い男だった。そして、信じられないくらい優しくて、温かい男だった。

「そうか。まじか」

 俺、彩世のこと、でぇれー好きだったのか。

 ポタポタと滴になって溶け続けるガリガリ君を、残り全部一気に頬張ったら頭がキーンと痛くなった。アイスの棒を前歯で噛み「ウヒィー」とこめかみを指先でぎゅっと押さえると、

「一気に全部食うからじゃろうが」

 あほうじゃ、と孝太は左の眉毛だけを器用にへの字にして、静かに微笑んだ。

 孝太は他の騒がしい部員たちや、ぶっきらぼうな俺とは違った。孝太の周りにはいつもとても穏やかで静かで、そして透明な空気が漂っていた。まるで、まだ誰も立ち入った事のない山奥から湧き出る雪解け水が流れる渓流のような、そんな空気が漂っているのだった。

「千隼。彩世はモテるけぇな。早うつかまえとかないと後悔するぞな」

「う……うるせえんじゃぁ。分かっとる」

「ほんまかぁ?」

 そして、日常の様々なことにひとつずつ変化が起き始めたのは、八月に入ってすぐのことだった。

 第10☓回全国高等学校野球選手権大会が開幕し、世の中は甲子園の話題が取りざたされるようになった、八月上旬。

 岡山県代表は今年も白倉商業だろうと言われていたけれど予選敗退に終わり、先輩が引退し、新体制となった俺たちは部員一丸となって秋季大会に向かって練習に明け暮れていた。

 そんな八月七日の雨の日だった。もちろんグラウンドは使用できず、俺たちバッテリー陣は蒸し風呂のように蒸し暑い屋内投球練習場で汗を流していた。

「ちゃっすー!」

 と雨を吹き飛ばすほどの明るく良く通る声を響かせ、スポーツドリンクを持って来たのは、今日も元気な彩世だった。

 入部初日のオリエンテーションでの自己紹介の時の彩世の第一印象は、《《元気な貞子》》だった。

 眉毛の数ミリ上の辺りでパッツリと真っ直ぐ横に切り揃えられた前髪。艶々の黒髪は胸下まで長く、絹糸のようにさらさらと揺れていた。切れ長の奥二重まぶたは妙に色気があって、大人っぽく見えた。色白で、唇はつやつやだった。もやしのようにひょろっこい体型で、マネージャーが務まるのかと心配になった。

 でも、いざグラウンドに立つと印象は180度変わった。その長い黒髪を頭の高い位置にひとつに束ねてポニーテールにすると、大人っぽかった印象の顔は驚くほど幼くなった。

 ちゃっすー! と挨拶をするその笑顔がびっくりするほど可愛い事実に気付いてしまってから、気付けばいつも無意識に目で追い掛けるようになっていたようだ。

「バッテリー陣、水分補給してくださーい! ぶっ倒れたら困るけぇ!」

 彩世は俊介や後輩捕手、一年のバッテリー陣にもテキパキとスポーツドリンクのペットボトルを配っていく。

「コーチからの差し入れじゃって! キンキンに冷えとるよ!」

 相変わらず今にもポキリと折れてしまいそうなゴボウみたいな腕なのに、彩世は数十本のペットボトルが入ったカゴを、軽々と片手で持ち運ぶからパワフルだ。

「おいー! 千隼ぁ! 見惚れてんじゃねえぞ」

 マウンドから孝太に言われてハッと我に返った俺は、

「な! 違うわい!」

 焦りに焦ってわたわたとボールを投げ返してしまったせいで、見事に暴投。ぽーんと軽く投げたつもりだったのに、孝太が上に伸ばして構えたグローブの上を遥かに超えて行ってしまった。

「ああっ! すまん!」

「おいー、図星か」

 と笑う孝太の後方にタタタと走って回って来た彩世が、バウンドして転がったボールをひょいと拾い、えいっと孝太に投げる。

「なになに? 何の話? 何に見惚れとるん?」

 真っ黒な瞳をくるくると輝かせ、興味津々に聞いて来た彩世に、

「うるせぇ! お前には関係ねえんじゃ。早うあっちに行けえ。気が散るんじゃ」

 俺は野良犬を追い払うかのように、ミットの甲でシッシとジェスチャーした。微調整したキャッチャーマスクの隙間から見えたのは、ほっそりとした頬を最大限まで膨らませて、むっとする彩世の表情だった。

 くそ。またやってしまった。いつもこうだ。好きなのに、それがバレたくなくてこうしてあからさまな態度を取ってしまう。

「なんなん? 最高にイラつくー! それがマネージャーにとる態度なん? のう、孝太ぁ」

 彩世に同意を求められて、孝太は可笑しそうに肩を揺らして小さく笑った。

「俺の魔球に見惚れとったんじゃ。のう、千隼ぁ」

「お、おお、そうじゃぁ」

ナイス、孝太。

「ええかぁ、彩世。見ろ、これが俺の魔球じゃぁ」

 そして、孝太は俺に次の投球のサインを求めた。俺は定位置に腰を落として構え、フォークを要求した。孝太は無表情でひとつ頷き、投球フォームをセットする。この瞬間は何とも説明しがたい空気が漂う。マウンドで孝太が投球フォームに移ろうとする瞬間は、空気がビリビリする気がする。

 味方でさえ皆が息を殺し、息を呑み、孝太から目を離せなくなる。誰もが鳴瀬孝太の一球に夢中になる。孝太が大きく振りかぶる。その時、俺は胸いっぱいに空気を吸い込んで、息を止める。すると、一瞬、時が止まる。人も、空気も、動きが止まる。

 そんな静寂の中、今度は止めていた息を一気に根こそぎ吐き出す。すると、全身を物凄い速さで血が駆け巡る。次の瞬間、孝太の指先からボールが離れる。俺は背筋をゾクゾクさせながら目を見開いて、奥歯を噛む。

「……は?」

 ところが、たまらず声が漏れてしまった。

 俺は投手の指先からリリースされたボールをこのミットでつかむまで、絶対に瞬きしないと決めている。これまでだってそうしてきた。4歳の時からずっと、孝太の球を何百、何千、何万何億と受け続けてきたけど、初めて瞬きをした。せざるを得なかった。

 その瞬間、何が起こったのか理解が追い付かなかった。瞳孔が開いた。

 待て。何だ。どういうことだ。

 速いのか、遅いのか。向かって来る球の速度の判別がつかない。回転しているのか……いや、していない。無回転だ。深紅の縫い目が、孝太の指先を離れた瞬間から、おそらく……動いていない。

 孝太のやつ、フォークじゃなくてチェンジアップ投げやがったのか。なんて、一瞬疑った自分がバカだった。

 その一球は遅いのではなく、でぇれー速かった。スピードを保ったまま、左右にふらふら……いや。まるで木の葉がひらひらと、散り落ちるように左右に揺れながら向かって来たのだ。

「ウソ、じゃろっ」

 俺はとっさにキャッチャーマスクを剥ぎ取った。そうする他になかった。そうでもしなければ、この一球を止めることが出来ないと判断した。まともに捕りに行こうとすれば、絶対に後ろへ逃してしまう。

 これが公式戦の九回裏、満塁、ツーアウト、0対0だとしてだ。捕り逃してみろ。ゲームセットだ。

 背筋がゾクゾクした。この蒸し暑さだというのに、背中がひんやりと感じた。

 つるっつるに凍ったスケートリンクの上を滑り、不規則な動きをして伸びて来たボールを、俺は地べたにべったりと座り込むように腰を低く落とした。

 不規則な動きをするブーメランのように、ボールがベース手前でカクンと落ちる。

 俺は防具とミット、最後には全身を使ってその飛球を止めた。防具に当たったボールが威力を失って、俺の正面にポトリと落ちた。そこで、無意識に止めていた息を慎重に吐き出した。

 何だ……今のボールは。

 全く、これっぽっちも予測がつかなかった。こんな事は初めてだった。4歳の頃からずっと孝太の球を捕り続けて来たけど。他の奴の球も、俊介の球も捕ってきたけれど。こんな気分になったのは初めてだった。

 まるで、まんまと裏切られたような、味方に欺かれたような、でも、清々しささえ感じるような一瞬だった。

 何かから解放されたほうに全身でほうっと息を吐き出すと、ようやく要らない力が抜けていった。ハッとして周囲を見渡した。投球練習のミットがボールをキャッチする爽快な音や掛け声がわんわん響いていた屋内は、水を打ったかのように静まり返っていた。

 屋内投球練習場の屋根を叩く雨の音だけが響いているだけで、誰もがその場に立ち尽くして俺をじっと見つめていた。

「お、おい……ちいと待てぇ」

 集まる視線の中、俺はゆっくりと立ち上がり、ボールを拾い上げた。

「なんじゃ、今のは。のう、孝太ぁ」

 大粒の汗が額から頬を、首筋を、背中を、つるりと伝い落ちる。

「お、おお。え……いや。なんじゃぁ、今のは」

 あの一球を投じた張本人も、何が起きたのか分からないといった様子で、口をまんまるに開けて呆けている状態だった。確かに、それは俺も同じだった。孝太の指からボールが離れた瞬間から、あっと思った時には事の後だった。

 気付いた時にはもう、ボールが土の上に落ちていた。

 利き手の左手のひらをじっと見つめて、指を曲げては開いてを繰り返して唖然として立ち尽くす孝太のもとへ、てくてくと歩み寄って行ったのは俊介だった。

「のう、孝太ぁ」

 と俊介が左肩を叩くと、孝太は口を開けたまま、まるで魂を抜かれたような顔をぬうっと上げた。

「今の、ナックルじゃねえんか?」

 やい、と孝太の背中を俊介が全力の笑顔で思いっきり豪快に叩いた。

 ナックルボールは、孝太がどんなに練習を重ねても投げることができなかった球種だ。

 中学二年生の時だった。孝太はオーバースローの投球法から、憧れの投手と同じスリークォーターという足を高く上げる投球フォームに変えた。

 そうだ。あれは2019年のことだった。

 当時、高校生史上最速の163キロを記録し、令和の怪物と言われた右腕投手が、まだ中学一年だった孝太の心を根こそぎかっさらって行ったのだ。その年のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受けた令和の怪物。

「なんじゃぁ、あの魔球は。信じられん。のう、千隼。そう思わんか?」

 彼はプロでも史上最年少で完全試合達成などの伝説を残すものだから、孝太の怪物に対する熱は上昇する一方だった。令和の怪物の投じる魔球のようなフォークボールが、孝太の目標になった。

「腕の振りが直球の時と同じなら、リリースのタイミングも同じじゃ。きっと、ボールの握り方だけを変えとるんじゃ。だから打者からは区別がつかんで、厄介なんじゃ。そう思わんか、千隼」

 令和の怪物の存在は偉大で、いつも口数の少ない孝太を唯一おしゃべりにさせた。

「あ、フォークじゃ思うたとしても、時すでに遅しじゃ。見てみろ。ええか、ここじゃ!」

 いつだって穏やかでゆったりとした口調のくせに、動画で怪物の投球を研究し始めようものなら、ぺらぺらとまあよくしゃべった。

「ベースに到達するタイミングで、最大50センチも落ちるんじゃと。信じられるか? 50センチじゃ」

 ぐはあぁぁ、しびれるぅ、くぅー、なんて。

 小さい頃から周りのみんなと比べても、そんなに表情豊かではなくて、内に秘めるような性格なのに。令和の怪物の話題になると興奮して、あの独特な色の瞳をきらっきらに輝かせて、表情をくっしゃくしゃに崩して笑う。

「でぇれーかっこええー!」

 なんて。

 令和の怪物に憧れ過ぎた孝太はコーチに直談判し、投球フォームを変えて、ナックルボールを習得しようと努力し始めた。あのフォークを超えるにはナックルボールしかないんだと無謀な事を言い出すのだから、さすがの俺も苦笑いしてこっそり首をかしげた。ただ、孝太はどうしたって真剣で、となると、まあ、俺は孝太と双子のように育って来たし、一心同体みたいなものだったから、もちろん付き合った。

 中学生で、サウスポーで、ナックルボールを習得するなんて無理。天と地がひっくり返っても無理。プロでさえも難しいのに。無謀だ、時間の無駄だ、と言われても孝太は気にも留めず、ひたすらに投げ続けた。でも、現実は厳しく、そう簡単な道のりじゃなかった。

 リトルリーグ時代は硬式ボール、スポ少に入ってからは軟式ボールに変わって、それがまた孝太を戸惑わせた。そして、高校生になって再び硬式ボールになると、また更に感覚が狂った。いわゆるスランプを、孝太はボールが変わるタイミングごとに乗り越えた。そこからもうすぐ3年。長かった。孝太は、ナックルボールを習得したのだった。

 190センチという高身長から紡ぎ出される高低差が売りのツーシームと、どこに飛んで来るか誰も予測がつかないナックルボールが武器の、鳴瀬孝太。

 しっかりとしたきれいなバックスピンが掛かった安定のコントロールと、利き腕の右と反対方向に縦に落ちるスライダーが得意な、打たせて確実にアウトを狙う、米倉俊介。

 いける。これなら秋季大会も優勝を狙えるし、春の選抜の岡山代表も夢じゃない。

 左投手と右投手のダブルエースを軸に、新体制のチームは一気に士気が上がり、ひとつになった。

 でも、ようやく歩み出そうとした道に障害物を落とすかのように、孝太に病魔の影がちらつき始めたのもまたこの頃だった。

「のう、孝太。その腕、どうしたんじゃ」

「あぁ? どこじゃ? ……え、えぇ? うわ、なんじゃぁこれ」

その頃から、孝太は体中あちこち、あらゆるところに身に覚えのない痣をつけてくるようになった。大きなものから小さなものまで、腕だったり、足だったり、時にはまぶたにつけていることもあった。

「おかしいのう。俺、どこかにぶつけたかのう。痛くも痒くもねえんじゃけどなぁ」

 風呂に入った時かもしれない、とか、それでも自覚があればまだ良かった。

「まったく心当たりがねえんじゃ」

 心当たりというものが一切ないというのだから不思議でならなかった。

 でもまあ、俺だって部活中、夢中になってプレーしていればそういうことが多々あったし、その時はまだそこまで……というか、まったく気にも留めていなかった。でもさすがに、あれ? やっぱりおかしいんじゃないか、と心配が膨らみ始めたのは秋季大会の初戦の二回表を、三者凡退に抑えてベンチに戻って来た孝太の尋常じゃない汗を見てからだった。

 ベンチに背中からダイブするようにどーんと座り、すかさずタオルで顔を覆った孝太の肩を叩こうと伸ばしたはずのその手を、俺はとっさに引っ込めてしまった。

 激しく上下する肩。湧き水のように額に染み出る脂汗。心なしかシャープになったフェイスライン。そして、涙袋の下の青いくま。

 何かがおかしい。たった一カ月の間に、孝太に何が起きたんだろう。俺は孝太の変化の何を見落としてしまっていたのだろう。

「のう……孝太」

 お前、いつから……こんなに痩せたんだ。

「なんじゃあ?」

 ふうー、と長く長く息を吐き出してから顔を上げた孝太の顔を見て、一瞬、言葉に詰まった。

「だっ……大丈夫か?」

 どうした、孝太。

 緊張でもしているのか、柄にもなく。なんておちょくってやりたかったけど、顔面蒼白で、それでもわずかに微笑む孝太にはおちょくることができるわけがなかった。

 真夏の炎天下で一試合まるっとひとりで投げ抜いてもケロッとしていて、疲れた様子は微塵もなく、翌日も朝からマウンドに涼しい顔で立つ。そんな孝太がだ。まだ二回までしか投げていないのにへばっている姿を見たのは、きっと、初めてのことだった。

 4歳からのこの長い付き合いの中で、初めて見る孝太の姿だった。

「大丈夫って、なんじゃぁ?」

 きょとんとして見つめてくる孝太に、俺はそれ以上突っ込むことが出来なかった。

「いや。先は長げえからな。水分、ちゃんと摂っておいた方がええ」

 だから、代わりにスポーツドリンクを手渡した。

 いつからだ。こんなに体の線が細くなってしまったのは。なんでこんなに痩せたんだ。今年の夏は特に暑かったから。夏バテの影響が秋になって出てきている……とか。いや、待て待て。ちょっとあり得ないくらい痩せてしまった気がするのは、俺の気のせいだろうか。

 悶々と葛藤しながら孝太の隣に浅く腰掛け、仲間が安打で出塁するのを漠然と眺め、目は試合展開を追いかけながら、頭ではひたすらに孝太のことばかり考えた。

 孝太が投じる球の威力も精度も何ひとつ落ちていない。でも、ぱっと見ただけで分かるくらい腕はひと回り細くなり、肩幅も狭くなった。昼休みも毎日一緒にご飯を食べているけど、弁当は残さず食べているし、部活帰りには大好物のえび飯やラーメンを食うのもしょっちゅうだ。

 毎日飽きるほど一緒に居たはずなのに、どうして俺は気付かなかったんだ。

「千隼」

「えっ」

「え、じゃねえ。行くぞ」

「行くって、どこに?」

「はぁー? 守備じゃ! 三回表じゃろうが」

 しっかりせえ! と孝太にグローブで肩をボンと叩かれて、現実に引き戻された。ハッとして顔をグラウンドに向けると、ナインが各ポジションへ全速力で駆けて行くところだった。二回裏の攻撃は出塁はしたけれど、得点には及ばなかったようだった。

 九月下旬の秋の優しい日差しの中に、孝太が駆けて行く。背番号1がやたらに輝いて見えた。眩しくて眩しくて、なぜだかふっと消えてしまいそうなほどに眩しくて、俺はキャッチャーマスクを小脇に抱え、慌ててその背番号を追い掛けて、ベンチを飛び出した。

「孝太ぁ!」

 俺の声に弾かれたように振り向いて、孝太が僅かばかりに微笑む。俺はほっと胸をなで下ろした。

「なんじゃあ、情けねえ顔して! しっかりせえ、千隼ぁ!」

 その小さい頃から変わらない優しい笑い方が眩しくて、光の中にすうっと溶けて消えてしまいそうで、不安で、胸騒ぎを覚えた。

 でも、その初戦は6対0で白倉商業の圧勝。俺の胸騒ぎなんて吹き飛ばすほど、孝太の投球は絶好調で、二回戦、三回戦、とコマを進めて行くにつれて、変化球の精度は上がる一方だった。

 まるでその身を焦がすかのように孝太は一気に成長を遂げ、まるで何かに追われているかのように、自分の限界を越えようと、生き急いでいるかのように見える瞬間が何度かあったような、そんな気がする。
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