ホテル・ラ・ソルーナ
第二夜:叶えられなかった夢の続き④
孝太のナックルボールが注目を浴び始めるまで、そう時間はかからなかった。
秋季大会準々決勝の頃には、地元新聞で記事になった。すると、ネットで拡散されて今度は高校野球専門の雑誌の記者から密着取材の依頼が入るようになった。
あれは、誰もが納得だったし、あのボールを実際に目で確かめれば誰もが唸った。誰がどの角度から見ても魔球だった。
リトルリーグに入団した4歳の時からずっと、本当にずっと、俺は孝太の球をミットで受け続けて来た。だから、孝太の投球の癖も弱点も、苦手なコースも得意球も、誰よりも知っているつもりだ。でも、このナックルボールだけは扱いに悩む。この全身を使って全力で止めるしか方法がないのだ。後ろに逃さないようにする、それだけで精いっぱいだ。
どこに飛んで来るか予測ができない。打者はもちろん、味方の俺も惑わされるし、投じている本人もどこへ飛んでいくか予想がつかない魔球なのだ。
結局、秋季大会は全試合、孝太が投げ抜いて白倉商業が優勝した。14日間に及ぶ激闘は、10月上旬のそれはそれは清々しい、今にもパリンと割れて粉々になって降って来そうなほど青く澄んだ秋晴れの日に、幕を下ろした。
その時にはもう、病魔は孝太の身体の深いところまで蝕んでいた。
岡山が生んだ奇跡のサウスポー鳴瀬に密着。そんな見出しで某有名高校野球マガジンに、春の選抜優勝候補校の一校として、白倉商業の左腕エースの孝太が特集で載った。孝太はプロからも注目されるほど成長し、本当に有名になっていた。
そして、シーズンが一区切りつき、11月も半ばに差し掛かった頃だ。
「お? なんじゃぁこれ。血、か?」
投球練習中にボールに血が付着していることに気付き、自分かと思ったけれど、確かめてみればその出血は孝太の爪と指の隙間からのものだったり、ほんの少量の出血だというのに、どうしてかなかなか血が止まらなかったり。そんな事が立て続けに起こるようになった。
「タイム! タイム! 孝太ぁ。鼻血が出とる!」
「えっ……うお、ほんまじゃ」
なんて、しょっちゅう鼻血を流すものだから、練習が中断することが増えた。そして、その鼻血が思った以上になかなか止まらないのだから、さすがに戸惑った。部活帰りにマクドに寄ってハンバーガーを食べている時でも、コンビニでアイスを選んでいる時でも、どんな時でも突然、容赦なく鼻血が流れるようになった。
いつ、どこで出来たのか分からない原因不明の痣は、ひとつ治りかけると新しいのがひとつ増えるし。秋季大会の時よりもまたひと回り痩せた孝太が、部活中に息切れするようになった頃、とうとう見ていられなくなった。
おかしいだろ、こんなの。明らかにおかしいだろうが。
「のう、孝太!」
投球練習を一方的に中断させた俺は、ボールを握り締めてマウンドへ向かった。
「お前、どこか悪いんじゃねえんか?」
そのひと言を口にすることに、結構緊張した。
幼馴染みで、親友で、まるで双子みたいに育った孝太に気を遣うなんてこと、今まで一度だってなかったのに。たったひとつ、それだけを聞くだけのことに、ものすごく気を遣った。というより、労力を使った。知らないふりをするのは簡単だったと思う。でも、見て見ぬふりをしていられるようなレベルじゃなかった。
「でえれえ高校生」とあれほどまでに県を沸かせた孝太の魔球は、秋季大会を境にたった一ヵ月そこそこで、一気に、まるで急降下する自身の変化球のようにキレも威力を失い、気付けば精度はガタガタのズタボロだった。
「具合、悪いのか?」
俺の問いかけに、孝太は肯定も否定もしなかった。代わりに逆に質問が返って来た。ということは、孝太も自覚はしていたのだと思う。
「どうして、そう思うんじゃ?」
まるで小さい子供がかくれんぼでもして、なかなか見つけてもらえなくて、不安になって自ら鬼の前に出て行こうか悩んでいるときに、ようやく発見してもらえたかのように、ほっと胸をなでおろすような安堵の表情を浮かべて、孝太がそう聞いてきた。
言いにくかったけど、こんなこと誤魔化したところで何も得がないから、ストレートに言った。
「球が。どれもこれも全部、最悪じゃ。これじゃリトルリーグ時代の孝太の球の方がマシじゃ。くらいのレベルじゃ」
「そうか」
そうして納得したようにうなずく時でさえ、孝太は根っからのエースで、冷静そのものだった。
「千隼。すまんが、ちいと見て欲しいんじゃが」
ゆったりとした口調で言うと、孝太は他の部員たちの様子をうかがいながら、グローブで口元を隠すようにおおい、口腔内を見るように俺に言った。
孝太の口の中は血まみれだった。
「な、なんじゃ……孝太、お前」
「千隼」
騒ぐな、とでも言いたげに、孝太が俺の肩に長い左腕を回して、抱き寄せる。そして、耳元でコソコソと小声で言った。
「ここ最近、こうして血が出るんじゃ。一球一球に力が入らん。じゃから、いつも以上に歯を食いしばる。投球練習が終わる頃には、こうして血まみれというわけじゃ」
「い……いつからじゃ……毎日なんか?」
小声で返すと、孝太は「ほぼほぼな」と小さく、でも、しっかりとうなずいた。
「のう、千隼。俺なぁ……疲れて仕方ねえんじゃ」
驚きのあまり、俺は言葉を失い、瞬きの仕方さえ忘れてしまった。
疲れた。なんてそんなひと言が孝太の口から飛び出したことが信じられなかった。どんなにキツイ練習メニューだろうとも、延長戦を投げ抜こうとも、そのひと言だけは、聞いたことがなかった。痛い、とか、しんどい、とかなら何度か聞いたことがある。でも、「疲れた」は俺たちが共に歩んできたこの野球人生で初めてのひと言だった。
「例え、春の選抜の県代表に白商が選ばれたとしても」
返す言葉も見当たらず、魂を抜かれた人のように呆然と立ち尽くすだけの俺に、孝太は真っ直ぐに曇りなき瞳で、そして、こんな時でさえポーカーフェイスで見つめていた。
「自分が甲子園のマウンドに立つ未来が、全く、想像できんのじゃ」
泣くわけでも、嘘でもいいから笑うというわけでもなく。晴れるわけでも、雨が降るわけでもない。そんな曖昧な表情を浮かべたあと、孝太は口を真一文字に固く結んで、それ以上なにも言わなかった。
突然の原因不明の発熱、身に覚えのない痣、止まらない謎の渇いた咳、頻発する鼻血に止まりにくい血。50メートルも走れば息が上がってしまうようになった孝太は、次第に筋肉も落ちていった。
季節はまた一歩先を急ぐように過ぎ去り、あっという間に十二月。たった一ヶ月の間に孝太はまたひと回り体の線が細くなった。そして、それは十二月も半ばに差し掛かった日。日本列島を大寒波が襲い、倉敷の町もほんのりと薄化粧をしたしたように雪がちらついた、寒い寒い日だった。
朝6時30分。底冷えするような冷気が充満した早朝の屋内投球練習場に、キャッチボールの音が響く。俺と孝太は他の部員たちが来る7時の30分前にこうして、他愛もない話をしながら肩をならすのが、365日の毎朝のルーティンだった。といっても、一度も約束をしたことはないのだけれど。
「年明けには選抜出場校の発表じゃ。月日が過ぎるのは早えのう」
と、俺が孝太にボールを投げる。
「そうじゃのう。山陽新幹線みてえに、でぇれー早えのう」
緩く弧を描いて飛んで行ったボールを、孝太がグローブでキャッチする。お互いの吐く息が寒さで白くけぶる。ここ最近の中で今日はわりと顔色が良い孝太のボールが大きな半楕円形を描いて、俺の元に返って来た。
晴れの日も、雨の日も風の日も、お盆も正月も俺たちには関係ない。朝6時半から7時までの30分という長くも短くもないこの時間は、俺にとってはかけがえのない、大切な時間だった。
日々の練習とはまた違う、幼馴染みの関係に戻ってキャッチボールが出来る唯一の時間だった。投手でも捕手でも、バッテリーでもなく高校の同級生でもない。そういう垣根を全て取っ払って、この30分だけは栗原千隼と鳴瀬孝太の唯一の関係でいれた。
「ああ! 山陽新幹線な! くー、懐かしいのう。孝太ぁ、お前あの時のこと、まだ覚えとるか?」
「覚えとる、覚えとる」
こくこくとうなずいて、孝太が可笑しそうに笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
「ほんまに懐かしいのう。 俺たち、捜索願い出されたんじゃ」
「じゃじゃ! 俺も千隼もまだ4歳だったよなぁ」
俺はあの30分が大好きだった。
ただ、だらだらと緩いキャッチボールをしながら、べらべらと本当にどうでもいい会話をする。朝飯の話、好きな歌手の話、昨日の夜の味噌汁が異常に薄かったとか。本当にどうでもいい話だ。
孝太はどう思っていたのかは分からないけど、俺にとっては大切で、本当にかけがえのない宝物のような時間だった。
「のう、千隼」
孝太からのボールをキャッチして「うん?」と返事を返す。孝太は一拍置いてから、左手の人差し指をピンと立てて、にっと微笑んだ。
「ちいと、一球だけ、受けてくれんか?」
「はぁ? まだ肩もようできとらんのにか? いきなり投げたら肩壊すぞ」
「一球だけじゃ、な。一球だけ」
わがままとまではいかないにしろ、こんなふうにそんなことを懇願する孝太もまた初めてだった。
「……仕方ねえのう。一球だけじゃぞ」
孝太にボールを返して、俺は防具も身に着けずに、無防備なジャージ姿のまま、ベースの後ろにしゃがみ、ミットを構えた。孝太が嬉しそうに瞳をくるくると輝かせ小走りでマウンドに向かって行く。なぜだかその背中を見ていると胸がいっぱいになって、ごくっと唾を飲み込んだ。
「鳴瀬孝太、渾身のナックルじゃあ! しかと受け止めえい」
どんなに時間が少ないときでも、しっかりと肩を温めて準備を怠らない孝太にしては、めずらしかった。
「おぉ、来い」
とミットを構える。構えておきながら、俺は説明できない不安に胸が押しつぶされそうだった。胸騒ぎがして、気味が悪かった。
いつものように足を高く上げ、190センチ以上の高さから振り下ろされる手から投じられた一球は、チェンジアップのように抜けて、ふわりと舞う蝶々のようにやや不規則にのんびりと俺のミットに届いた。
鳴瀬孝太の投球を受けとめたのは、それが最後だった。
お世辞を言うことさえできないほど、酷い最悪の一球だった。ひとつとして誉めることができる要素のない、史上最低のボールだった。あまりの精度の低さに戸惑っていると、孝太に聞かれた。
「どうじゃ? 正直に言うてくれてかまわん」
「……おえん。ダメにも程がある。今までで一番最悪じゃ」
だよなあ、と孝太はほっとしたように微笑んだ。最悪だと酷評されているというのに、まるで背負っている大荷物をようやく下ろすことが出来て安堵する旅人のような。そんな表情だった。
「っちゅうことで、じゃ。俺は今日からしばらくの間、休部じゃ。後は頼むぞ、千隼」
「なんじゃあそりゃ、あほうか」
と立ち上がり、マウンドの孝太に投げ返そうとしてボールを握る指先にぐっと力を込めた、次の瞬間だった。
「俺、今日、入院するんじゃ」
「は?」
全身から血の気が引くように一気に指先が冷たくなって、握っていたはずのボールは足元に落ちて数センチ前へ転がり、ぴたりと動きを止めた。
「俺なぁ、急性骨髄性白血病なんじゃって」
「は……なに……」
「すまんのう。千隼ぁ」
寒さで赤くなった鼻の頭を指先で擦った後、孝太は両肩をすくめて青白い顔でへへっと苦笑いした。孝太が何を言っているのか、一瞬では理解できなかった。でも、大変なことが起こってしまったのだということは、分かった。でも、心が、感情が、全く追い付かないのだ。
「おい、孝太。お前……なに言うとるんじゃ」
そんな、まるで。
猫ふんじゃったんだって、みたいに。
そんな、まるで……他人事みたいに。
その日から、本当に、白倉商業野球部のグラウンドに、鳴瀬孝太の姿はなくなった。何の前触れもなく、忽然と。まるで、神隠しにでも遭ったかのように。
入院と同時に、孝太は直ぐに治療を開始しなければならない状態まで進行していた。急性骨髄性白血病は進行が早く、ちょうど自覚症状が出たのが8月だとすると、そこから12月まで放置してしまったのが、さらに症状を進行させてしまった原因だったらしいと、面会に行った時、孝太から聞いた。
年が明けてすぐ、寛解導入療法という治療が開始された。まずは抗がん剤で白血病細胞を大きく減らし、顕微鏡で見えなくなる状態を目指した。でも、体力が落ちていた孝太は合併症を引き起こしてしまい、一時、面会も謝絶された。
2月になるとやっと少しだけ容体が安定した。造血幹細胞移植という治療を行うことになった。でも、それも賭けのようなものだった。病状が悪いまま移植した場合の成功率は50パーセント。それでも孝太は望みがあるならと移植を受ける決断をした。
口内炎、嘔吐、下痢、発熱、咳、息苦しさ。次から次へと症状を変えて襲って来る副作用に耐え続ける孝太の体は、面会に行くたびにやつれていく一方だった。面会に足を運んでも孝太はビニールカーテンの向こうで力なく微笑んでいた。青白い顔で、女みたいに細くなった左手をゆらゆらと揺れる柳の木のように振っていた。
マウンドで規格外のオーラを放ち輝いていた鳴瀬孝太はもう、どこにも見当たらなかった。それでもよかった。面会に行けば寝ていて、ラインを送れば遅れても返信があって、今日も孝太は生きていると分かればほっとした。孝太が生きていてくれさえすれば、他は望まなかった。
2月の半ばになると、移植の予後が良くなかった孝太は再び合併症を起こし、とうとう無菌室へ入った。それでも生きることを諦めず、病と闘って、あの日ようやく無菌室を出ることができたというのに。
孝太は小さい頃の夢を叶えようとするかのように生き急いで、超特急で、俺を置いてひとりで逝ってしまった。
秋季大会準々決勝の頃には、地元新聞で記事になった。すると、ネットで拡散されて今度は高校野球専門の雑誌の記者から密着取材の依頼が入るようになった。
あれは、誰もが納得だったし、あのボールを実際に目で確かめれば誰もが唸った。誰がどの角度から見ても魔球だった。
リトルリーグに入団した4歳の時からずっと、本当にずっと、俺は孝太の球をミットで受け続けて来た。だから、孝太の投球の癖も弱点も、苦手なコースも得意球も、誰よりも知っているつもりだ。でも、このナックルボールだけは扱いに悩む。この全身を使って全力で止めるしか方法がないのだ。後ろに逃さないようにする、それだけで精いっぱいだ。
どこに飛んで来るか予測ができない。打者はもちろん、味方の俺も惑わされるし、投じている本人もどこへ飛んでいくか予想がつかない魔球なのだ。
結局、秋季大会は全試合、孝太が投げ抜いて白倉商業が優勝した。14日間に及ぶ激闘は、10月上旬のそれはそれは清々しい、今にもパリンと割れて粉々になって降って来そうなほど青く澄んだ秋晴れの日に、幕を下ろした。
その時にはもう、病魔は孝太の身体の深いところまで蝕んでいた。
岡山が生んだ奇跡のサウスポー鳴瀬に密着。そんな見出しで某有名高校野球マガジンに、春の選抜優勝候補校の一校として、白倉商業の左腕エースの孝太が特集で載った。孝太はプロからも注目されるほど成長し、本当に有名になっていた。
そして、シーズンが一区切りつき、11月も半ばに差し掛かった頃だ。
「お? なんじゃぁこれ。血、か?」
投球練習中にボールに血が付着していることに気付き、自分かと思ったけれど、確かめてみればその出血は孝太の爪と指の隙間からのものだったり、ほんの少量の出血だというのに、どうしてかなかなか血が止まらなかったり。そんな事が立て続けに起こるようになった。
「タイム! タイム! 孝太ぁ。鼻血が出とる!」
「えっ……うお、ほんまじゃ」
なんて、しょっちゅう鼻血を流すものだから、練習が中断することが増えた。そして、その鼻血が思った以上になかなか止まらないのだから、さすがに戸惑った。部活帰りにマクドに寄ってハンバーガーを食べている時でも、コンビニでアイスを選んでいる時でも、どんな時でも突然、容赦なく鼻血が流れるようになった。
いつ、どこで出来たのか分からない原因不明の痣は、ひとつ治りかけると新しいのがひとつ増えるし。秋季大会の時よりもまたひと回り痩せた孝太が、部活中に息切れするようになった頃、とうとう見ていられなくなった。
おかしいだろ、こんなの。明らかにおかしいだろうが。
「のう、孝太!」
投球練習を一方的に中断させた俺は、ボールを握り締めてマウンドへ向かった。
「お前、どこか悪いんじゃねえんか?」
そのひと言を口にすることに、結構緊張した。
幼馴染みで、親友で、まるで双子みたいに育った孝太に気を遣うなんてこと、今まで一度だってなかったのに。たったひとつ、それだけを聞くだけのことに、ものすごく気を遣った。というより、労力を使った。知らないふりをするのは簡単だったと思う。でも、見て見ぬふりをしていられるようなレベルじゃなかった。
「でえれえ高校生」とあれほどまでに県を沸かせた孝太の魔球は、秋季大会を境にたった一ヵ月そこそこで、一気に、まるで急降下する自身の変化球のようにキレも威力を失い、気付けば精度はガタガタのズタボロだった。
「具合、悪いのか?」
俺の問いかけに、孝太は肯定も否定もしなかった。代わりに逆に質問が返って来た。ということは、孝太も自覚はしていたのだと思う。
「どうして、そう思うんじゃ?」
まるで小さい子供がかくれんぼでもして、なかなか見つけてもらえなくて、不安になって自ら鬼の前に出て行こうか悩んでいるときに、ようやく発見してもらえたかのように、ほっと胸をなでおろすような安堵の表情を浮かべて、孝太がそう聞いてきた。
言いにくかったけど、こんなこと誤魔化したところで何も得がないから、ストレートに言った。
「球が。どれもこれも全部、最悪じゃ。これじゃリトルリーグ時代の孝太の球の方がマシじゃ。くらいのレベルじゃ」
「そうか」
そうして納得したようにうなずく時でさえ、孝太は根っからのエースで、冷静そのものだった。
「千隼。すまんが、ちいと見て欲しいんじゃが」
ゆったりとした口調で言うと、孝太は他の部員たちの様子をうかがいながら、グローブで口元を隠すようにおおい、口腔内を見るように俺に言った。
孝太の口の中は血まみれだった。
「な、なんじゃ……孝太、お前」
「千隼」
騒ぐな、とでも言いたげに、孝太が俺の肩に長い左腕を回して、抱き寄せる。そして、耳元でコソコソと小声で言った。
「ここ最近、こうして血が出るんじゃ。一球一球に力が入らん。じゃから、いつも以上に歯を食いしばる。投球練習が終わる頃には、こうして血まみれというわけじゃ」
「い……いつからじゃ……毎日なんか?」
小声で返すと、孝太は「ほぼほぼな」と小さく、でも、しっかりとうなずいた。
「のう、千隼。俺なぁ……疲れて仕方ねえんじゃ」
驚きのあまり、俺は言葉を失い、瞬きの仕方さえ忘れてしまった。
疲れた。なんてそんなひと言が孝太の口から飛び出したことが信じられなかった。どんなにキツイ練習メニューだろうとも、延長戦を投げ抜こうとも、そのひと言だけは、聞いたことがなかった。痛い、とか、しんどい、とかなら何度か聞いたことがある。でも、「疲れた」は俺たちが共に歩んできたこの野球人生で初めてのひと言だった。
「例え、春の選抜の県代表に白商が選ばれたとしても」
返す言葉も見当たらず、魂を抜かれた人のように呆然と立ち尽くすだけの俺に、孝太は真っ直ぐに曇りなき瞳で、そして、こんな時でさえポーカーフェイスで見つめていた。
「自分が甲子園のマウンドに立つ未来が、全く、想像できんのじゃ」
泣くわけでも、嘘でもいいから笑うというわけでもなく。晴れるわけでも、雨が降るわけでもない。そんな曖昧な表情を浮かべたあと、孝太は口を真一文字に固く結んで、それ以上なにも言わなかった。
突然の原因不明の発熱、身に覚えのない痣、止まらない謎の渇いた咳、頻発する鼻血に止まりにくい血。50メートルも走れば息が上がってしまうようになった孝太は、次第に筋肉も落ちていった。
季節はまた一歩先を急ぐように過ぎ去り、あっという間に十二月。たった一ヶ月の間に孝太はまたひと回り体の線が細くなった。そして、それは十二月も半ばに差し掛かった日。日本列島を大寒波が襲い、倉敷の町もほんのりと薄化粧をしたしたように雪がちらついた、寒い寒い日だった。
朝6時30分。底冷えするような冷気が充満した早朝の屋内投球練習場に、キャッチボールの音が響く。俺と孝太は他の部員たちが来る7時の30分前にこうして、他愛もない話をしながら肩をならすのが、365日の毎朝のルーティンだった。といっても、一度も約束をしたことはないのだけれど。
「年明けには選抜出場校の発表じゃ。月日が過ぎるのは早えのう」
と、俺が孝太にボールを投げる。
「そうじゃのう。山陽新幹線みてえに、でぇれー早えのう」
緩く弧を描いて飛んで行ったボールを、孝太がグローブでキャッチする。お互いの吐く息が寒さで白くけぶる。ここ最近の中で今日はわりと顔色が良い孝太のボールが大きな半楕円形を描いて、俺の元に返って来た。
晴れの日も、雨の日も風の日も、お盆も正月も俺たちには関係ない。朝6時半から7時までの30分という長くも短くもないこの時間は、俺にとってはかけがえのない、大切な時間だった。
日々の練習とはまた違う、幼馴染みの関係に戻ってキャッチボールが出来る唯一の時間だった。投手でも捕手でも、バッテリーでもなく高校の同級生でもない。そういう垣根を全て取っ払って、この30分だけは栗原千隼と鳴瀬孝太の唯一の関係でいれた。
「ああ! 山陽新幹線な! くー、懐かしいのう。孝太ぁ、お前あの時のこと、まだ覚えとるか?」
「覚えとる、覚えとる」
こくこくとうなずいて、孝太が可笑しそうに笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
「ほんまに懐かしいのう。 俺たち、捜索願い出されたんじゃ」
「じゃじゃ! 俺も千隼もまだ4歳だったよなぁ」
俺はあの30分が大好きだった。
ただ、だらだらと緩いキャッチボールをしながら、べらべらと本当にどうでもいい会話をする。朝飯の話、好きな歌手の話、昨日の夜の味噌汁が異常に薄かったとか。本当にどうでもいい話だ。
孝太はどう思っていたのかは分からないけど、俺にとっては大切で、本当にかけがえのない宝物のような時間だった。
「のう、千隼」
孝太からのボールをキャッチして「うん?」と返事を返す。孝太は一拍置いてから、左手の人差し指をピンと立てて、にっと微笑んだ。
「ちいと、一球だけ、受けてくれんか?」
「はぁ? まだ肩もようできとらんのにか? いきなり投げたら肩壊すぞ」
「一球だけじゃ、な。一球だけ」
わがままとまではいかないにしろ、こんなふうにそんなことを懇願する孝太もまた初めてだった。
「……仕方ねえのう。一球だけじゃぞ」
孝太にボールを返して、俺は防具も身に着けずに、無防備なジャージ姿のまま、ベースの後ろにしゃがみ、ミットを構えた。孝太が嬉しそうに瞳をくるくると輝かせ小走りでマウンドに向かって行く。なぜだかその背中を見ていると胸がいっぱいになって、ごくっと唾を飲み込んだ。
「鳴瀬孝太、渾身のナックルじゃあ! しかと受け止めえい」
どんなに時間が少ないときでも、しっかりと肩を温めて準備を怠らない孝太にしては、めずらしかった。
「おぉ、来い」
とミットを構える。構えておきながら、俺は説明できない不安に胸が押しつぶされそうだった。胸騒ぎがして、気味が悪かった。
いつものように足を高く上げ、190センチ以上の高さから振り下ろされる手から投じられた一球は、チェンジアップのように抜けて、ふわりと舞う蝶々のようにやや不規則にのんびりと俺のミットに届いた。
鳴瀬孝太の投球を受けとめたのは、それが最後だった。
お世辞を言うことさえできないほど、酷い最悪の一球だった。ひとつとして誉めることができる要素のない、史上最低のボールだった。あまりの精度の低さに戸惑っていると、孝太に聞かれた。
「どうじゃ? 正直に言うてくれてかまわん」
「……おえん。ダメにも程がある。今までで一番最悪じゃ」
だよなあ、と孝太はほっとしたように微笑んだ。最悪だと酷評されているというのに、まるで背負っている大荷物をようやく下ろすことが出来て安堵する旅人のような。そんな表情だった。
「っちゅうことで、じゃ。俺は今日からしばらくの間、休部じゃ。後は頼むぞ、千隼」
「なんじゃあそりゃ、あほうか」
と立ち上がり、マウンドの孝太に投げ返そうとしてボールを握る指先にぐっと力を込めた、次の瞬間だった。
「俺、今日、入院するんじゃ」
「は?」
全身から血の気が引くように一気に指先が冷たくなって、握っていたはずのボールは足元に落ちて数センチ前へ転がり、ぴたりと動きを止めた。
「俺なぁ、急性骨髄性白血病なんじゃって」
「は……なに……」
「すまんのう。千隼ぁ」
寒さで赤くなった鼻の頭を指先で擦った後、孝太は両肩をすくめて青白い顔でへへっと苦笑いした。孝太が何を言っているのか、一瞬では理解できなかった。でも、大変なことが起こってしまったのだということは、分かった。でも、心が、感情が、全く追い付かないのだ。
「おい、孝太。お前……なに言うとるんじゃ」
そんな、まるで。
猫ふんじゃったんだって、みたいに。
そんな、まるで……他人事みたいに。
その日から、本当に、白倉商業野球部のグラウンドに、鳴瀬孝太の姿はなくなった。何の前触れもなく、忽然と。まるで、神隠しにでも遭ったかのように。
入院と同時に、孝太は直ぐに治療を開始しなければならない状態まで進行していた。急性骨髄性白血病は進行が早く、ちょうど自覚症状が出たのが8月だとすると、そこから12月まで放置してしまったのが、さらに症状を進行させてしまった原因だったらしいと、面会に行った時、孝太から聞いた。
年が明けてすぐ、寛解導入療法という治療が開始された。まずは抗がん剤で白血病細胞を大きく減らし、顕微鏡で見えなくなる状態を目指した。でも、体力が落ちていた孝太は合併症を引き起こしてしまい、一時、面会も謝絶された。
2月になるとやっと少しだけ容体が安定した。造血幹細胞移植という治療を行うことになった。でも、それも賭けのようなものだった。病状が悪いまま移植した場合の成功率は50パーセント。それでも孝太は望みがあるならと移植を受ける決断をした。
口内炎、嘔吐、下痢、発熱、咳、息苦しさ。次から次へと症状を変えて襲って来る副作用に耐え続ける孝太の体は、面会に行くたびにやつれていく一方だった。面会に足を運んでも孝太はビニールカーテンの向こうで力なく微笑んでいた。青白い顔で、女みたいに細くなった左手をゆらゆらと揺れる柳の木のように振っていた。
マウンドで規格外のオーラを放ち輝いていた鳴瀬孝太はもう、どこにも見当たらなかった。それでもよかった。面会に行けば寝ていて、ラインを送れば遅れても返信があって、今日も孝太は生きていると分かればほっとした。孝太が生きていてくれさえすれば、他は望まなかった。
2月の半ばになると、移植の予後が良くなかった孝太は再び合併症を起こし、とうとう無菌室へ入った。それでも生きることを諦めず、病と闘って、あの日ようやく無菌室を出ることができたというのに。
孝太は小さい頃の夢を叶えようとするかのように生き急いで、超特急で、俺を置いてひとりで逝ってしまった。