ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き⑩

あれは確か、まだ小学三年生の夏だったと思う。

 練習試合といえども、孝太が初めて先発投手としてマウンドに上がった、暑い暑い日だった。俺はといえばまだ一度も試合に出たことがなくて、いつものようにベンチ横のブルペンでリリーフ投手のボールを受けながら、その試合の行方を見守っていた。

 一番打者を三振、二番打者はセカンドゴロに三番打者を内野フライでひとつずつ着実に抑えた孝太の様子に異変が起きたのは、二回表の守備が始まって間もなくのことだった。

 いつも飄々としている孝太もさすがに緊張していたのか、暴投とまではいかないけれど、投じた一球が地面にワンバウンドしてイレギュラーしてしまい、それをキャッチャーが捕り損ねてバックネットまで追いかけている隙にセカンドランナーがホームに返って来て、相手チームに先制点が入った直後からだ。その瞬間から、孝太の投球は乱れ始めた。

 連続のボールに四球、デッドボールを連発し出塁を許し、気付けばノーアウト満塁の大ピンチを迎えていた。すると、監督が主審に選手の交代を告げた。俺はその状況をてっきり孝太がマウンドから下ろされて、リリーフ投手と交代するものだと思い込んでいた。でも、違った。

「千隼!」

「は……はいっ」

 キャッチャーマスクを取って呆然と突っ立っていた俺を呼ぶ声が聞こえて、反射的に返事をした。ベンチから俺を呼んでいたのは監督だった。

「行けえ、キャッチャー交代じゃあ」

「え」

 まさかこんな究極の場面で、よりによって自分が呼ばれるとは一ミリも予想できず、外したマスクを地面に落として固まる俺のもとに、ピッチングコーチが駆け寄って来た。

「こらぁ、千隼ぁ! ぼうっとしとる場合か! しゃっきりせえ!」

 ほら、とコーチはマスクを拾うと、それでも固まる俺の左手にしっかりと握らせた。これはチャンスじゃ、千隼、そう言って。

「千隼の相棒が大ピンチのようじゃ、救って来い」

 そして、太陽にも負けない渋くてかっこいい笑顔で、俺の初陣を後押ししてくれた。

「ええな、ピンチはチャンスじゃ。思いっきりやってみなさい。負けたってええんじゃ。負けて這い上がって強うなればええ。お前らは絶対に強うなる」

 ほれ、と大きな手のひらで背中を強く押されて、俺はマスクをぎゅうっと握って駆け出した。

「ノーアウト満塁、またクリーンナップからじゃ。千隼、頼んだぞ」

 ひとつ年上のキャッチャー、凌汰《りょうた》くんがすれ違いざまに俺の肩にグータッチをしてベンチへ下がって行った。俺は返事もせずただしっかりと頷いた。いつも練習で見ているはずの景色なのに、キャッチャーのポジションに立って見渡した試合の景色は異様にまぶしくて、感動的で、胸がいっぱいになった。

 初めてだったのだ。

 練習試合といえど試合で孝太とバッテリーを組むのは、初めてだった。俺は高鳴って仕方ない胸に落ち着くように言い聞かせながらマスクをかぶり、定位置に腰を下ろそうとして、でも止めた。

 ……待て。孝太の様子がおかしい。

「どうした……?」

 俺は再びマスクをはぎ取り、目を細めてマウンドを見つめた。

 マウンドの向こうに広がる空はため息をつきたくなるほど清く青い。太陽は真上に高々と昇り、見える景色全てが眩しく光り輝いていた。

 マウンド上の小さな投手をぽつんと取り残して。

「なんでそんな顔しとるんじゃ」

 おかしい。孝太の様子がおかしすぎる。無表情なのはいつものことだ。でも、どうしてこの世の終わりみたいに顔面蒼白になっているのか。孝太の周りにだけ重く不穏な空気がねっとりと纏わりついているように見えた。

「あの、すいません」

 俺は主審に「投手のスパイクの紐が緩んでいるから伝えたい」と言い、マウンドの孝太の所へダッシュで駆け寄った。駆け寄って間近で孝太の顔を確認した瞬間に、正直戸惑った。一瞬、喉に食べ物が詰まるように言葉が詰まって、何からどうやって声を掛ければいいのか見当がつかなかった。

「孝太!」

 俺の声に孝太はぱちくりと瞬きを返してきた。その瞳を見て愕然としてしまった。あの、この世の全ての宝石をかき集めたように生き生きとした瞳は、全ての光を失ったかのように暗く、人気のない真夜中の狭い路地をさ迷っているかのように、キョロキョロと泳いでいた。

「孝太……お前」

 ちゃんと目が合っているのに、目が合わない。そんな感覚だった。

「孝太、スパイクの紐、結び直すフリせえ。しゃがんで、結び直すフリするんじゃ」

「え……」

 もちろん、スパイクの紐は解けてなんかいないし、きつく結ばれている。

「ええから、時間稼ぎじゃ」

「え、うん」

 孝太は何処を見ているのか分からないような目付きのまましゃがみ込んで靴ひもを結ぶ仕草をした。靴ひもをつまむ指先がぷるぷると小刻みに震えていた。輝きを失い盲目になってしまったような目付きに、震えが止まらない指先。孝太は今、冷静さを見失って自分でもコントロールが効かないほど動揺しているのだと理解した。

「ピッチャー、急いで!」

 主審から急かすように注意される。その声にさえ孝太は背中をビクつかせる。だめだ。だめだ、だめだ。このまま続投してもきっとストライクはひとつも決まらない。そう直感した。

 どんなにキツイ練習メニューをこなしても弱音ひとつ吐かず、陰口を叩かれても感情をぐっと呑み込んで、いかなる時も冷静な孝太がこうなってしまうということは、よほど困惑しているのだ。

「孝太ぁっ!」

 俺は孝太の正面に片膝をつくと、オドオドと瞳を泳がせ動揺している孝太の左肩を、キャッチャーミットで強く叩いた。

「シャッキリせえ! 俺が、全部、必ず全部、死んでも止めてやる!」

 次の瞬間だった。右に、左に、また右に……キョロキョロと揺れていた瞳が真ん中で止まり、

「……えっ」

 孝太はゆっくり大きく瞬きをして、ようやくその瞳に俺の顔を映した。

「ようし! それじゃ、その目じゃ!」

 そうだ。孝太、その目だ。その、まるで万華鏡のように七変化してくるくると輝く、その目だ。未来の夢を見つめて、希望に満ちている。そんなキラキラの琥珀糖みたいな目をしているのがお前なんだ。孝太。

「好きなように、思いっきり、いつもみたいに全力で投げればええんじゃ! フォアボール出したくらいで死んだりしねえよ」

 俺は孝太の左脇に腕を差し込み、絡めて、一気に引っ張り上げた。

「大暴投したらええ! 全部、俺が捕ってやる! 下にゴロンゴロン
転がしたらええ! 全部、俺が止めてやる! 絶対、全部、俺が止めてやる」

 孝太の為なら何だって出来る気がしたし、どんなことだってしてやろうと思った。

「約束じゃ! 絶対、後ろに逃がさん!」

 どうして、この鳴瀬孝太という人物にこうまで心奪われるのか、自分でも本当によく分からなかった。

「じゃから、孝太は好きなように、自由に投げてくれたらそれでええんじゃ!」

 その不思議な色の瞳が輝きを失わずにいてくれるのなら、なんでもしようと思えた。鳴瀬孝太がマウンドに立ち続ける為なら、俺が踏み台になってもいい、犠牲になってもいいとさえ思っていた。

「ええな! 俺に遠慮なんかしてみろ。絶交じゃ!」

 俺がずいっとミットを突き出すと、孝太はこくりとしっかり頷いて、キャラメル色のグローブで俺のミットをひとつ叩いた。

 そこから完全に持ち直した孝太は連続三振を取り、ノーアウト満塁の大ピンチを切り抜けた。すると、味方の打線も奮起し回ごとに着実に得点を重ねた。そして、50球という投球制限と共に孝太と一緒に俺もフィールドからベンチへ下がった。結局その試合は倉敷ナックルズの圧勝で幕を閉じた。

 試合終了後、クールダウンしていた俺と孝太の元へピッチングコーチが来て、こう言った。

「再来週、岡山ファイターズと練習試合が決まったんじゃ。先発はお前たちバッテリーでいくからしっかり準備するように、と監督から伝言じゃ。今日はよう頑張ったなあ。ええコンビじゃった」

 よっしゃあ! やべえ! あそこは願いが叶う場所じゃ! 願えば叶う、願え橋じゃ! 俺たちは有頂天だった。俺たちふたりなら何も怖くなくて、ふたりなら何でも超えて行ける気がして、最強のふたりなんだと思っていた。俺と孝太が居ればどんな強豪にも勝てると思っていた。ところが現実はそう甘くはなくて、浮かれポンチの俺は自惚れもいいところだった。

 翌々週、天気は大快晴。無風で最高のコンディションだった。倉敷ナックルズに入団して3年が経ち、初めて先発バッテリーを組んだ試合、それはもう逆に気持ちが良いほどズタボロだった。清々しいほどの完敗。

 投球制限の50球まで、そう時間は要さなかった。めった打ちに遭い公開処刑もいいとこだった。どうにかして抑えよう、挽回しようと奮起すればするほど、仕組まれているかのように空回った。孝太の調子がイマイチだったというわけじゃない。むしろ絶好調だった。コントロールも変化も完璧だった。それなのに、どのコースにどんな球を要求しても面白いくらいドッカンドッカン打たれまくった。

 それでも監督は投球制限の50球を孝太が投げ抜くまで、どんなに点差が開いても、俺たちバッテリーを交代させたりしなかった。ベンチへ下げられた後、俺は自分の不甲斐なさと調子に乗って思い上がっていたことが悔しくて、恥ずかしくて、イライラして、歯を食いしばって声を殺して泣いた。

 でも、孝太は違った。天晴なほどコテンパンに打ち込まれ6失点もしたのに、悔しさに震える俺の隣に座って、顔色ひとつ変えず、ただじっとゲームの続きを見つめていた。琥珀色の綺麗な瞳で、ただ、じっと。

「なんじゃ、あいつ」

 そんな孝太を良く思わないチームメイトもいて、ベンチの片隅で控えメンバーたちがコソコソと陰口を叩いていた。コソコソと言ってもわざと聞こえるように言っていた。

「あそこまでめった打ちに遭うたゆうのに、悔しくないんか」

「千隼は泣くくらい悔しがっとるのにな」

「頭、おかしいんとちゃうか」

「笑わんし、泣かんし、怒らんし。感情が欠落しとるんじゃ」

「そうじゃった、そうじゃった。宇宙人じゃったわ」

 いつもの俺ならここで一発、文句のひとつでもかましてやるところなんだけど、不甲斐なさの悔しいやら情けないやらで、そんな余裕は持ち合わせていなかった。

「調子に乗っとるから痛い目に遭うんじゃ」

 孝太のことを悪く言われるのは癇に障って頭に来たけれど、本当に聞き流すことで精一杯だった。顔を上げることさえ出来ず、ただ自分の足元を見つめて奥歯を噛んで、必死に耐えていた。

 結局、その試合は7対0で完敗に終わった。試合後、みんなで手分けしてグラウンド整備や片付けをしている中、俺と孝太は監督に呼ばれた。

「どうじゃ。悔しくてたまらんか?」

 お前らはもう試合には出せん、なんて叱られるんじゃないかと確信さえあっただけに、監督が想定外のやわらかい口調でそう聞いて来るものだから、せっかく引っ込んだ涙が再びあふれて視界を滲ませた。

 「上には上がおる、ゆうことじゃ。今日はええ勉強したなあ、千隼も孝太も。これがお前たちが大好きな野球じゃ。どんなにええバッテリーがおっても、バッテリーの力だけじゃ上には行けん。9人がひとつになって力を合わせんと、野球はできんのじゃ」

 喉の奥が燃えるように熱くなり、せり上がってくる感覚を必死に飲み込んだ。

「千隼。孝太」

 帽子のつばを優しく弾かれて顔を上げると、監督が呆れたように、でも、びっくりするほど優しい顔で微笑んでいた。

「確かに、お前たちはすごい。でえれえふたりじゃ。ええバッテリーに、きっとなる」

 ちらりと隣の様子を窺うと、孝太が耳の付け根まで真っ赤に染めて、真一文字に結んだ唇の端を震わせていた。握った拳もわなわなと震えている。それなのにその表情は一切変えずに無表情で震えている孝太を見ていられず、すぐさま視線を監督へ戻した。

「倉敷じゃ最高のバッテリーかもしれん。じゃけど、岡山県じゃ普通じゃ。全国に行ってみろ、今のお前たちはビリじゃ、ビリ」

 ただ隣に立って居るだけで孝太から悔しいという感情がひしひしと伝わってくるようだった。本当は泣きたいのに必死に堪えているのだと、その空気だけで十分伝わってきた。

「全国じゃお前たちは全然通用しないんじゃ。話にならん。弱い弱い。もっともっとでえれえ選手ばかりおる。じゃから練習するんじゃ。励め、ええな」

 それとな、と監督は俺と孝太の頭を同時に大きな手で包み込むように優しくぽんぽんと弾いた。

「野球はどんなにバッテリーが良くても勝てん。バッテリーだけが上手くても勝てんのじゃ。何の為にお前らの周りに7人がおるんか、よう考えなさい。野球はふたりじゃ勝てん。9人おるから勝てるんじゃ」

 今ならあの時、監督が言っていた言葉ひとつひとつが身に沁みて分かる。当時もそれなりに理解していたけれど、今は心から頷ける。

 あの頃の俺は孝太がいれば最強だと思っていたから、何も怖くなかったし迷いもなかった。俺と孝太のバッテリーがこの世でいちばん最強なんだとさえ思っていた。きっと孝太も同じだったと思う。そんな俺たちに監督は世の中そう甘くはないこと、仲間を信じることの大切さも教えてくれたのだ。

 解散後、俺たちはどろんこのユニフォーム姿のまま、願え橋に向かった。

 季節は春、4月。時間は16時半頃だったと記憶している。朝から雲一つない大快晴だった空はすっかり夕焼け色で、山肌を熟れた果実のように朱色に染めていた。完熟マンゴーのような濃い夕焼け色が無性に綺麗で、印象的だった。

 到着して15分ほどした頃だったと思う。ふたり並んで草むらに座って、でもひと言も交わさず列車が通過するのを待っていた時だった。

「……ん?」

 いつもの在来線が近付いて来るカタンコトン、ガタンゴトンとは明らかに違う音に、俺は膝を抱き締めてうつむいていた顔を少し上げた。遠く、遠くから近付いて来る重低音と空気を切り裂くような高い音。ゴオー。そのあとはヒュィィーン。そして、キーィィン。

「えっ……なんか、ちゃうなぁ」

 孝太もいつもとは違うことに気付き、弾かれたように顔を上げた。孝太と目が合う。目を合わせながら耳を澄ませれば、その音は一気に近くなった。キュィィィーン。新幹線だ。

「久し振りの新幹線じゃなあ、孝太!」

「うん! 今日は散々じゃったけど、ついとるなあ!」

 俺たちはまるでカエルがジャンプするように同時に立ち上がり、いつものようにフェンスに指を絡ませしがみついた。

「ええな! 通過する瞬間じゃからな!」

 こくっと孝太が頷いた次の瞬間、朱く染まる山間から飛び出すようにその姿を現した列車が山陽新幹線のぞみだと気付いた俺たちは、興奮のあまり手を握っていた。

「見ろ、孝太! のぞみじゃ!」

「かっこええなあ!」

 胸が高鳴った。この願え橋には何度も足を運んだけれど、のぞみに遭遇したのは初めてだった。速い。さすが時速約300キロの新幹線だ。遠くの夕焼けの炎を切り裂いて、純白の車体が光の矢のように迫って来る。その鋭い鼻先に、一瞬で身も心も奪われた。

「すぅ……げえー……」

 一秒だって見逃せないと思った。乾いた眼球に風が沁みるのに構わず、その加速を網膜と鼓膜に焼き付けた。

「千隼ぁっ!」

 繋いでいた手を孝太にぐんと引っ張られてハッと我に返る。

「あ! おえん!」

 見惚れてる場合じゃなかった。願うことを忘れてしまうところだった。俺は胸いっぱいに空気を吸い込みながら孝太の手を握り返した。そして、新幹線が目前まで迫った瞬間に、腹の底から、叫んだ。

 俺は、孝太と、宇宙一のバッテリーになるぅぅ、うう……ええっ? と。

 隣の相棒ときたら野球とは全く関係ない突飛な願いを叫ぶものだから、語尾はぐだぐだ、最終的にクエスチョンを付けてしまった。

 猛烈な突風に体が震えた。空気と風を切り裂くシューッ、重く低いゴオォォォ。モーター音やらレール音にかき消されそうだったけれど、俺の耳ははっきりと孝太の声と嗚咽を捉えていた。

「お前、なに言うんじゃ……泣いとるんか……孝太」

 目の前を通過する流線形があまりに滑らかで神々しい。磨き上げられた青いラインが発光しながら視界を斜めに横切っていく。それはまるで、膝から泣き崩れる孝太の姿を眩ませようとするようなスピードだった。

「あああぁーっ……!」

 空気を震わせる重低音が足元から響き通過する風圧に内臓が浮き上がる。そんな全身の血が湧き立つような感覚の中、俺は隣で泣き崩れた孝太に、気の利いた言葉ひとつ掛けてやることもできずにただ立ちすくんだ。

 どんな時も表情に出さず常に冷静な孝太が、大きな声を上げ、全身で泣く姿を見たのはこの時が初めてだった。

「千隼ぁ……ちは……ちはやああっ!」

 よほど悔しかったのだと思う。普段は自制心の中で生きているような孝太は、頭の線が一本プツリと切れたみたいに、俺の名前を何度も何度も繰り返し叫びながら、慟哭していた。

 どんな声を掛けたらいいのか分からず、どうしてやればいいのかさえ思いつかず、地べたに座り込み膝を抱き締めて泣き続ける孝太の隣に座り、何もせず時が経つのを待った。

「千隼。ずばんがった、泣いだりじで」

 ようやく落ち着いた頃、あれほどまで朱く燃えていた山間は赤紫色になり、日が暮れ始めていた。

「いや、まあ……孝太がこんな泣き虫じゃとは思わんかったわ。ええんじゃ、泣きてえ時は思いっきり泣いた方がええ」

 そんなことより、と俺は気になっていたことを尋ねた。

「お前さ、さっき、なんであんなことお願いしとったんじゃ?」

「え?」

「え、じゃねえ。新幹線になりてえんか、お前は」

 すると、孝太はずびっと鼻をすすったあと、人差し指で鼻の頭を掻いて照れくさそうに、でもしっかりと頷いた。

「なりてえ。俺、大きゅうなったら、新幹線になりてえんじゃ」

 そして、いよいよ日が暮れてうす暗くなり始めて日陰になった線路を、涙が残る潤んだキラキラの目で見つめた。

「新幹線の運転士ってことか?」

 その横顔に聞くと、孝太は肩をすくめてくすぐったそうに笑いながら、首を左右に振った。

「ううん。新幹線じゃ。新幹線になりてえんじゃ」

「はああっ? なれるわけねえだろうが」

「でも、なりてえんじゃ」

 俺はとうとう呆れてしまって、孝太の肩に腕を回して下から顔を覗き込んだ。

「正気か?」

 だって、何度聞いても答えは同じで、運転士でもなく、車掌でもなく、整備士でもない、新幹線そのものになりたいのだと、孝太が言うのだ。試合でめった打ちに遭ったことが悔しいのにそれを我慢し過ぎたから、とうとうおかしくなってしまったのかもしれないと心配になった。

 でも何度聞いても「うん、なりてえんじゃ」とうなずく孝太の目は真っ赤に充血しているのに、やっぱり不思議な色にくるくると迷いなど一切なく輝いているのだ。

「いやいや、待て待て。ええか、俺たちは中学を卒業したら、白倉商業野球部に入るんじゃ、そこでもバッテリー組んで、いずれ甲子園に行くんじゃ。そんで、お前はきっと、プロ野球選手に――」

「そんなん、なれんでもええんじゃ」

 食い気味にそう言って、首を左右にぶんぶんと振った孝太は、どこか清々しささえ感じるほどの表情だった。

「俺はな、千隼と野球ができればそれでええ。甲子園に行けなくても、プロ野球選手になれなくてもええんじゃ」

「はあ? なに言うて――」

「甲子園に行けたとしても、プロ野球選手になったとしても、千隼が一緒じゃなきゃ何の意味もねえんじゃ。千隼と一緒がええ。高校生になるのも、大人になるのも、じいちゃんになるのも」

 千隼と一緒がええんじゃ。だから、俺は新幹線になりてえんじゃ。

 そんなことを至って真剣な顔で、まるで雨上がりの空を映したように、凛として澄み切った眼差しで淡々と言うものだから、「そうか」とたった3文字を言い返すことで精一杯だった。あれほど泣いたからなのか、孝太は体中にため込んでいた毒が抜けたみたいに、とびっきりの笑顔で言った。

「今日、負けて良かったよなあ! また一緒に頑張ればええんじゃよなあ!」

 ああ、そうか。きっと、孝太はいつかきっと、でえれえ投手になるんじゃなあ。その時は、漠然とそう思えて胸が燃えるように熱くなった。

「ああそうじゃ! 一緒に頑張ればええんじゃ!」

 その帰り道、俺たちはジュースを買う予定だったお小遣いを握り締めて、倉敷駅に立ち寄り片道切符を購入した。

「うーん……意外に高えなぁ。全国って言うたら、東京じゃよなあ。新幹線は無理じゃ。どこまでにする?」

「ええと、そうじゃなあ……まずは岡山でいちばんにならんといけねえからなあ」

 本当は新幹線の切符が欲しいところだったけれど、持っていた金額で買えたのは結局、倉敷駅から岡山駅までの在来線の片道切符170円を2枚だった。俺たちはそれを互いに交換した。きっと今よりすごいバッテリーになって、どんなことがあってもお互いに信頼し合って、この先の道を一緒に歩んで行こうと約束して、切符を交換した。

 たった170円の切符だったけれど、俺にとっては一生の宝物になった。

「ええか、千隼。これは一枚ずつ持っておくんじゃ」

 と孝太が言った。これは人生に一度だけ使える切符なのだと。でも、たった一度しか使えないSOSの切符なのだと。

「期限はなし。無期限じゃ」

「エス、オー、エスぅ? 例えば? どんな時に有効なんじゃ?」

 聞いた俺に、孝太はめずらしくおしゃべりだった。人生を左右するような最大のピンチに直面した時に使うのだと孝太は言った。この先、ものすごく困ってしまって、ひとりじゃどうにもできなくなった時、挫折しそうになった時に使うのだと。そして、この切符を受け取ったらその時は、何があろうと最優先して相手のことを助けなければいけないのだと。この切符を受け取ったら、相手の頼みごとは必ず聞かなきゃいけないのだと。

「これは人生最大のピンチを救ってくれる切符なんじゃ」

「なるほど。ええのう。最強の切符じゃ!」

 どんなに高価なものも、この切符には敵わないと思った。この切符を失くさずに持ってさえいれば何も怖くないような気にさえなった。この切符があれば、いつかふたりで本当に全国でも通用するバッテリーになれるような気がした。

 それは中学になっても変わらなかった。もっと自信になった。俺たちなら絶対に全国で通用するバッテリーになれるんだと、どうしてあんなに信じ切れたのだろう。どうして疑いもしなかったのだろう。

 まさか、こんなに早く居なくなってしまうなんて、これっぽっちも考えたことなんてなかった。

 でも、突然に、あっけなく。まるで、いつの間にか季節が移ろいゆくかのように。まるで……そこにひとりだけ置いて行かれたような虚しい突然の別れだった。本当に突然、孝太はいなくなってしまった。

 あのたった一件の不在着信が最期になるなんて、誰が思っただろう。

 俺の日常から、忽然と、孝太がいなくなってしまった。

 
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