ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き⑨

5歳の夏だった。磨かれたガラスのように清潔な青空を、のろのろと漂い流れて行く雲の隙間から、まばゆいばかりに太陽が降り注ぐ暑い日だった。その日、俺は運命の出会いをした。「宇宙人」と呼ばれる少年と出会ったのだ。

 俺たちは外見も性格も全てがまるで正反対だった。

 俺が夏なら孝太は冬。俺が黒なら孝太は白。まあ、本当に面白いくらい真逆だった。

 短気でぶっきらぼうで感情をすぐ顔や態度に出す俺と、冷静で穏やかで優しくて辛抱強い孝太。どうでも良いことはべらべらとしゃべるくせに肝心なことになると言葉にできない俺と、無駄口はたたかず大切なことは適材適所でしっかり確実に言葉にして伝える孝太。

 でも、孝太は多くを語るようなやつでもなかった。

 5つ質問を投げればやっとひとつ、運が良ければふたつ答えが返って来た。

 周囲からは何を考えているのかちょっと分かりにくい人物だったのだろうと思う。誤解されやすかったのだと思う。

 だけど、俺は知っている。

 5つ質問を投げてもひとつしか答えない代わりに、行動で10返してくるようなやつだった。鳴瀬孝太とはそういう人間だった。





「なあ、千隼。もっと野球上手くなりたくねえか?」

「なりてえ!」

「そうかあ。なら、リトルリーグに入団してみんか?」

「……それ、なんじゃ?」

 母さんの小料理屋の常連客の亀爺(かめじい)の紹介で、倉敷のリトルリーグに入団することになったのが5歳の夏だった。

「倉敷ナックルズっていうんじゃ。わしの知り合いがそこの監督をしとるんだがな」

 亀爺は倉敷で3本指に入る酒蔵、亀山(かめやま)酒造の蔵元だ。母さんが店の仕込み中に、開店前の店先で「今日もうまい酒を飲むためだ」としょっちゅうキャッチボールに付き合ってくれた、大好きな爺さんだった。

 とにかく日本酒をこよなく愛した爺さんだった。母さんの料理をえらく気に入っていて、この日本酒には和佳ちゃんの料理が合うんだと週に5日は足を運ぶ大常連さんだった。俺が小学校に上がった春、桜が満開の季節に心不全で亡くなってしまったけれど、俺は亀爺が大好きだった。

「千隼は肩が強いし、遠くまで声が良う通る。キャッチャーのセンスがあるぞな。やっぱり千隼は父ちゃんの血を継いでるんじゃなあ」

 亀爺はキャッチボールをしながらよく父さんの話を教えてくれた。

「千隼の父ちゃんはええキャッチャーだった。甲子園という大舞台でも堂々としとって、ええリードしとった。2回戦で敗退したけど、ええ試合したんじゃ」

 父親を早くに亡くした俺にとって、野球の道へ導いてくれた亀爺は特別な存在だった。亀爺との約束は結局、亀爺が亡くなってしまったから果たせなかったけれど、いつか叶えられたらと思う。

「ほんまか? 亀爺、俺、父ちゃんみたいなキャッチャーになれるんかなあ」

「そうだなあ。ちゃんとした指導者の下で練習を頑張りゃあ、千隼は父ちゃんを越えるキャッチャーになれるかもしれんな」

「……亀爺。俺、そのナントカっていうチームに入りたい。どうしたらええ?」

「ようし分かった。今度の日曜日に亀爺と見学に行くか。その代わり、高校生になったら亀爺のこと、甲子園に連れて行ってくれよ」

「分かった! 俺が亀爺を甲子園に連れて行ってやるぞな」

 倉敷ナックルズに正式に入団した日のことは、何歳になっても鮮明に、まるで昨日の出来事であるかのように覚えている。

 見上げれば吸い込まれるような群青色の空に、湧き立つような入道雲が綿菓子のように盛り上がり、その真っ白な輪郭が青空との境目をスッパリと切り取っていた。街路樹の深緑は黒ずんで見えるほど濃く、じりじりと焼けるような熱気が陽炎になって、蝉時雨は暑さをさらに加速させていた。

 ランニング、ストレッチ、筋トレ、キャッチボール、ティーボール。様々な年代が集まる中でも、同年代で同じような背丈に体格のチームメイトと体を動かすなんて初めてで、全てが新鮮でわくわくした。亀爺とのキャッチボールも楽しいけれど、チームでの本格的な練習は規格外に楽しかった。

「よーし、次はふたり一組になって、キャッチボール」

 入団二日目でまだ右も左も分からずもたもたしている俺に、

「ねえ! 千隼くん! うちと組も!」

 こんがりと日に焼けたショートヘアの女子が声を掛けてきた。

「俺でええんか?」

「ええもなんも。千隼くん、ポジション、キャッチャーなんじゃよね?」

 女といえど身長は俺より頭半分高いし、大きな目と気の強そうなキリッとした顔立ちといい、その自信に満ち溢れた物言いといい、堂々としたオーラだった。

「うち、笑麻(えま)。ポジションはピッチャー。よろしゅうね」

 笑麻はきっと、えええー、女なのにピッチャーなんてすげえなあ! なんて感じで俺が驚く反応を期待していたに違いない。フフンと顎を上げ、得意げに笑って、じっと俺を見てきた。

「あ……あぁ、うん」

 でも、そんなことよりも俺は笑麻越しに発見した、もやしのようにひょろひょろでチビの後姿に目を奪われてしまった。

「のう! 千隼くん! 聞いとるん?」

 期待していたような反応が返ってこなかったことに不服な様子で、笑麻は下唇をつんと突き出して頬を膨らませ、俺の顔を下から覗き込むようにしてきて、俺はそれでハッと我に返った。

「あ……あのさ、あいつはキャッチボールしないんか? なんであの端っこでタオル振ってばかりおるん?」

 笑麻の肩越しで、ひとりフェンスに向かって黙々とシャドーピッチングしているチビもやしを指さして尋ねた。前日もそうだった。ランニング、ストレッチなどの基礎練習を終えると彼はひとり外れて、フェンスに向かってタオルを振り続ける。もしくはグラウンドを走り込む。その別メニューを終えるとようやくこちらの練習に合流するのだった。

 笑麻は「ええ?」と面倒くさそうに振り向いて、どこか面白くなさそうに答えた。

「ああ……孝太のこと?」

「こうた、ゆうんか。あいつ」

 鳴瀬孝太という人物に異様なほど惹かれ、興味を持ったのはその時だった。

「孝太のやつ、うちらと同じ4月に入団したんよ。じゃけどな、体小さいでしょ。体力ないし、上達も遅うてさ。うちらとは別メニューなんよ。4月からずっとあの調子じゃ」

「4月から? ずっと?」

「うん。弱っちいんよ。うち、女じゃけど、孝太より肩強いし、孝太より遠くに投げられる。なのに、監督もコーチも孝太はピッチャーの素質があるんじゃ言うて、いつも目ぇかけとるんよ。えこひいきじゃ」

「……へえ」

 笑麻から色々と話を聞いてみれば、俺も笑麻も孝太も同学年だった。身長115センチの笑麻より8センチも背が低い孝太は、食も細くひょろひょろしていて、入団した4月の頃はランニングにさえついてこれず、体力作りから始めなければならない状態だったらしい。そんな中、入団から1カ月が経った5月のゴールデンウィーク中の練習日に、ポジションを決める為のテストみたいなものをしたそうだ。

 「その時にな、監督が孝太はピッチャーじゃって。あんな弱っちいのに、うちにはよう分からんけど。それからは監督もコーチも孝太孝太ってさ」

 今になってみれば、あの頃の監督とコーチの考えも気持ちも、手に取るように分かる気がする。あの頃から確かに孝太は他のみんなとは違っていたように思う。基礎練習と体力強化練習、シャドーピッチングが中心の日々で絶対しんどいはずなのに、孝太は表情ひとつ変えず寡黙に野球と、そして自分と向き合っていた。

 あの頃から、疲れた、もう無理、嫌だ、やめたい、なんていう発言は一度も聞いたことがなかった。

「チビでもやしのくせに、生意気なんじゃ」

 フンと鼻を鳴らして面白くなさそうにして、笑麻は孝太の後姿にぷいっと背を向けて言った。

「あいつ、宇宙人らしいんよ。変な目の色しとるんじゃ。全然しゃべらんし。不気味でたまらん」

「宇宙人?」

「うん! みんなそう言うとるよ。千隼くんも気を付けた方がええ。孝太には近づかん方がええと思う」

「なんでじゃ?」

「目が合うたらなあ、魂を抜かれてしまうらしい。監督もコーチも魂抜かれてしもうたんじゃ、きっと」

 笑麻がえらい真面目な顔で必死に訴えるように話すものだから、笑い飛ばすタイミングを完全に見失ってしまったし、あえてそれ以上突っ込むこともしなかった。でも、確かに、俺はこのあとまんまと魂を抜かれてしまったんだと思う。

「あっ! ごめん!」

 笑麻とキャッチボールしていた時だった。慣れないやわらかいボールでのキャッチボールで、感覚をつかめずに苦戦していたのだ。俺が投げたボールは笑麻が精一杯に伸ばしたグローブを越えて、フェンスの方へ飛んで行ってしまった。

「ああもう!」

 とボールを追い掛けようとしてくるっと回れ右した笑麻が3歩駆けて立ち止まり、ゆっくり振り向く。

「千隼くん!」 

 超絶不満そうに表情を歪めて、笑麻がフェンスの方を指さした。

「うち、行きたくないんじゃけど。だって、宇宙人おるんじゃもん」

 確かにボールはパンパンに乾いた土の上をてんてけと小さく飛び跳ねたあと、ころころと転がって、そして孝太のスパイクの踵にぶつかったところでようやく動きを止めた。

「ええよ、分かった。俺が言って来る」

「気ぃつけなよ。目ぇ見たらおえんよ」

 んなわけあるかあ! と心の中で思いっきり突っ込みを入れて、俺は孝太のところへ駆け寄った。

「ごめん、邪魔して」

 すると、孝太は返事をするわけでもなく、タオルをつかんでいる左手とは逆の右手で足元のボールを拾い、口を真一文字に結んだままボールを差し出して来た。その瞬間だった。全身に言葉では言い表せないビリビリとした電流のような感覚が走って動けなくなった。

 その不思議な色の目と目が合った瞬間、俺は瞬きの仕方も呼吸の仕方も忘れて、まるで雷にでも打たれたかのようにそこに立ち尽くした。まだ5年しか生きていなかったけれど、その5年という歳月の中で、確実にいちばんの衝撃だった。

 孝太が眩しかったのか、逆光がきつかったのか。どちらとも言えなかったけれど、そのまばゆさに俺はとっさに目を細めたことを今でも覚えている。

 男なのか女なのか判別に悩むほど中性的に整った端正で涼やかな目鼻立ちの孝太に、やんちゃでデリカシーの欠片もない俺はこう聞いた。

「痛くねえんか?」

 孝太はボールを差し出したままじっと俺を見つめていた。表情ひとつ変えず、ただじっと、俺の次の反応を待つように、孝太は目を逸らさなかった。

「すっげえなあ!」

 俺は当時から本当にデリカシーも気遣いもなくて、孝太の顔を、というよりその瞳をジロジロと覗き込んだ。

「うおぉー。でえれえ綺麗じゃあー」

 ほれぼれとしたあの感覚と瞬間を、俺は一生忘れることはないと思う。

 まるで瀬戸内海の水面が燦然と降り注ぐ光に磨き立てられたように輝くその瞳に、一瞬でも気を抜いたら本当に吸い込まれてしまいそうだった。

 なんて美しいのだろう。深緑色、茶色、金色、琥珀色。ころころと変化する万華鏡のように独特な色合いの瞳は、俺の心を鷲掴みにした。

「綺麗じゃけど、お前それ、痛くないんか?」

 ヘーゼルアイ。孝太の瞳はそう呼ばれる珍しい色だった。

「だってお前、目の中に宝石なんか入れて、痛くないんか?」

 細っこい右手からボールを受け取りながら首を傾げて尋ねると、孝太はわずかに口を開いて驚いたような顔をした後、見逃してしまいそうなほどの一瞬、泣きそうな顔になった。でも、白い歯を見せてにっと微笑んだ。

「痛くないよ」

 今にも消え入りそうで頼りなく、注意深く耳を澄ませないと聞き逃してしまうように細々とした、でも、真綿で包み込むような優しい声だった。でも、孝太はすぐに無表情に戻り、周囲の様子を気にするようにみんなの方に半分背中を向けて、俺に早く戻るように言った。

「俺と話しとると、きみも宇宙人じゃ言われるよ」

「え! けど、俺たちみんな宇宙人じゃねえんか?」

 間髪容れずにそう言った俺を、孝太は首をこてんと傾げて不思議そうに瞬きを繰り返したあと、ぽつりとつぶやくように言った。

「いや……地球人でしょ、俺たち」

 なるほどな! と俺はミットにボールをスパンと投げ入れて笑った。

「そっかあ! ここは地球じゃった! まあどっちでもええよ。俺、地球人でも宇宙人でもどっちでもええ!」

 なんだかどうでもいいことに無性に笑えて、俺ががはがは笑うとつられたように孝太はクククッと肩を上下させて「へんなやつ!」と笑ってきた。

「なにー! お前に言われたくないんじゃあ」

「お前じゃないよ。俺には孝太という名前があるんじゃ」

「そうか、じゃあ、孝太。俺は千隼じゃ。栗原千隼。よろしくな!」

「……ちはや」

 それが初めて孝太と交わした会話だった。ごくごく、普通だった。どこにでも転がっていそうでありふれた、平凡な出会い方だった。それでも、俺にとって孝太との出会いは人生を左右するくらい大きな出来事だった。初めて声を交わした時から、孝太は俺の特別な存在だった。

 そして、孝太の瞳の色が母親譲りのヘーゼルアイだと知ったのは、中学一年の春だった。同じクラスになった女子たちが、鳴瀬くんの目はヘーゼルアイじゃわ、橋本環奈ちゃんと同じじゃ、うらやましい、綺麗、なんてきゃあきゃあ騒いでいるのを聞いて知った。

 だから、俺は小学校を卒業するまで孝太の目にはふたつ、めずらしい色の宝石が入っているんだとずっと信じていた。小さい子供がサンタクロースを信じるのと同じように、ずっと純粋に信じていた。

 俺と孝太はいつも一緒に行動した。ニコイチだった。ずっと一緒だった。

 保育園は別々だったけれど、学区自体は同じだったから小学校からは一緒で、土日祝日は倉敷ナックルズの練習や練習試合、遠征なんかでも常に一緒だった。

 練習が始まる1時間前にはグラウンドで待ち合わせ、ふたりきりでキャッチボールをするのがお決まりになったのはその時からだ。雨が降れば河川敷の大橋の下でキャッチボールをしたり、語り合った。語り合うといっても野球の話なんてひとつもしなかったし、特別何か大切な話をするわけでもなかった。

 ただとにかく、くだらない話題をひたすらに語り合った。

「孝太ぁ、今日の朝飯なんじゃった?」

「目玉焼き。千隼は?」

「うおぉ、同じじゃあ! 俺、今日はソースで食うた」

「俺はしょうゆマヨじゃ」

「おー、それもええなぁ! なんじゃまた腹が減ってきた」

 目玉焼きに何の調味料を掛けて食べたか。うどん派か蕎麦派か。好きなユーチューバーは誰か。当時どはまりしていたハイキューという漫画の話。きのこの山とたけのこの里どっちが好きか。じゃがりこはサラダ味派かチーズ味派か。

 本当にどうでもいい内容の会話をしながら、肩に負担が掛かからないように30分だけと時間を決めて、キャッチボールをした。その30分という時間を、俺たちは大切に使った。

 あの頃はまだ幼かったし自覚なんてものはなかったんだろうけど、幼いなりに信頼関係を築いていたのだと思う。キャッチボールという方法が当時の俺たちなりの最高のコミュニケーションを取る方法だったのだ。

「じゃあまた土曜じゃな。8時だぞ、ええな。寝坊すんなよ、孝太」
 
「うん、分かっとるよ。千隼こそ寝坊したらおえんぞ」

 毎週土日と祝日の練習日が待ち遠しくて仕方なかった。晴れて欲しくて毎日週間天気予報を確認しては一喜一憂し、寝る前は布団の中でただただ青空を願った。雨は平日にまとめて降るように、土日と祝日は全部晴れますようにと。

 早く孝太に会いたくて、他の誰でもない鳴瀬孝太のボールをこのミットで受けたくて、平日はソワソワと生活した。

 リトルリーグはプロ野球と同じ硬球を使うため、年齢や投球数に制限がある。最初はティーボールのやわらかいゴム製のボールでの練習や試合から始まり、徐々に硬球に携わるようになっていった。

 硬球に慣れてくると楽しくなってきて基礎練習が面倒になっておろそかになりがちな中で、孝太は違った。孝太は絶対に基礎練習もシャドーピッチングも怠らず、寡黙にコツコツと確実にこなしていた。そして、限られた練習時間と球数の中で、孝太は驚くほどのスピードで成長していった。

 これは魔球じゃ。

 それが、俺が捕手として孝太の硬球を初めてミットで受けた瞬間の感想だった。一糸乱れぬブレない投球フォーム。要求したコースにしっかり伸びて来る無回転のボール。ホームベース手前ギリギリで急に変化する一球。その豆もやしのような体型からは想像できない重さと伸びのある変化球。

 当時から孝太が投じる一球一球は、他の誰とも明らかに違っていた。

 さすが甲子園出場選手やプロ野球選手を何人も輩出したリトルリーグチームの指導者たちだと思う。監督もコーチもきっと早々に気付いたのだろう。孝太が他のみんなとは何かが違っていることに。

 チームではいちばん小さくて細い体で、性格は無口で内気。そんな子が将来きっと野球界に何かしらの足跡を残すような素質があることに。そして、自分たちの指導次第で将来が有望な逸材であることも。だから孝太には特別メニューをこなさせ、硬球を投じてもブレないフォーム作りを優先させたに違いない。

 その狙いは的を射ていた。いざ本格的な投球練習が始まるとすでに精度の高い、ブレない投球フォームに仕上がっていた。それでも孝太は満足せず常に貪欲だった。小さな体で弱音ひとつ吐かずに努力していた。とにかく自分に厳しいやつだった。

 そして、そんな孝太は俺にとって特別だった。オンリーワンでもナンバーワンでもなくて、ただシンプルに特別だった。

 でも、俺が人間であるように孝太もまたごく普通の人間だから、そりゃあ落ち込む日だってあるわけで。そんな時は秘密の場所「(ねが)(ばし)」へふたりでこっそり足を運んだ。

 そこへ足を運ぶことになったのは、練習試合の反省会と打ち上げの時の親たちの会話がきっかけだった。それは、チーム行きつけのこぢんまりとした町中華の食堂で、ラーメンを食べ終えた子供たちがちょうどヒマを持て余し始めた頃だった。

「今、撮り鉄ゆうんが流行っとるんじゃって」

「トリテツぅー? なんなんそれ、鶏肉料理かなんか?」

「ちゃうわぁ。鉄道とか列車の写真撮る、鉄道ファンのことじゃ」

「あー! 高梁川高梁川(たかはしがわきょうりょう)がワイドショーで特集されとったわ。マナーが悪いファンが増えとるんじゃと」

「あそこな。若い頃、桜の季節に行ったことあるけど、確かに綺麗じゃもんねえ」

「ええー、誰と行ったん? 旦那さん?」

「そら秘密じゃわ」

「じゃけどあそこ、足場が悪うて危険なスポットもあるらしいしな」

 その日の試合で3番打者のくせに全打席三振に終わったおれはとにかくむしゃくしゃしていて、この反省会を抜けて新幹線でも見に行こうぜと孝太を誘った。窓から見える空は日差しが和らいで、もうすぐ夕暮れが近い15時半を回っていた。

「どうせ大人はこれからどんちゃん騒ぎじゃろう。暗くなる前に家に帰っとればバレねえじゃろ」

 言い出しっぺの俺に、孝太はすんなりと便乗した。

「なるほどな。ええ考えじゃ、乗った!」

 孝太は孝太でいつまでたっても試合でマウンドに上がれず、やきもきしていたに違いない。どうせ大人たちは酒を飲んでどんちゃん騒ぎだ。俺たちは疲れたから先に帰ると告げて、高梁川橋梁へと向かった。

 春は満開の桜、夏は青空と深緑、秋はコスモスに紅葉、冬は雪化粧。高梁川橋梁は四季折々の風景と列車を一緒に撮影することが出来ると、毎年多くのカメラマンが訪れる、知る人ぞ知る人気スポットだ。

 でも、年々鉄道ファンによる撮影マナーの悪さが問題となって、今では撮影禁止となってしまったスポットもちらほらと出ていて、俺たちが発見した場所もきっとそういう誰も来なくなってしまった場所だったのだと思う。

「うわ、なんじゃここは! 最高じゃ! 見てみい、孝太、でえれえことになっとる」

「ほんまじゃー! 燃えとるようじゃなあ!」

 たどり着いたそこは辺り一面夕焼け色に染まっていて、幻想的で、朱色の空と山肌と列車が重なると、まるで夕焼けの空から列車が飛び出してくるかのように見えた。

「よっしゃ、今じゃ! 孝太ぁ!」

「うん!」

 俺たちはその瞬間に錆び付いたフェンスに飛びついて、せえの、で、願いごとを叫んだ。

「俺は孝太とバッテリー組みてえんじゃー!」

「千隼と一緒に試合にでたいんじゃー!」

 その次の日曜日のことだった。俺に一世一代のチャンスが転がって来て、同時に孝太にも大きなチャンスが舞い込んだ。それからだ。高梁川橋梁のあの場所で、列車が通過する瞬間に願いごとを叫ぶと、叶うのではないか。時速300キロで通過する列車が願いごとを乗せて、神様のところまで運んでくれるんだ。きっとそうだ。だから、あそこは願えば叶う「願え橋」だ。

 あの日から、俺と孝太は事あるごとに足繁く「願え橋」に通った。

 練習グラウンドからの帰り道、高梁川に沿って伸びる線路。伯備線の黒田の一踏切を渡り、こぢんまりとした民家の狭いアスファルトの小道を道なりに進むと、年季の入ったカーブミラーがある。

 その裏にあるさらに細く狭い勾配の道を上って行くと、日中でも薄気味悪い、今にも人斬り抜刀斎が刀を振り回して飛び出して来そうな竹藪の道があって、

「うへええぇ……いつ来ても気味が悪いなあー。孝太、転ぶなよ」

「大丈夫じゃ。何度も通っとるんじゃ、慣れたわ。なんじゃ、千隼、ビビッとるんか」

「……まさかぁ! ようし、一気に行くぞ」

 全力でびびり散らしながらふたりでえいっと竹藪の小道を突っ切るとお墓があって、そこを抜ければ一気に視界が開ける。両手いっぱいに広げたような雄大な空と季節や時間帯によって表情を変える山肌。そして、レールとレールのつなぎ目を車輪が踏むカタンコトン、高速の車体が風に擦れるシュー、ゴォー。山にぶつかって跳ね返って来るジョイント音や風切り音に警笛。

 381系、500系、N700系、N700s系、在来線も。高梁川橋梁、そこは列車の音が泣き言も愚痴も目標も、夢も、全部かき消すように吸い取って、もの凄いスピードで遠くへ持ち去ってくれる最高の秘密のスポットだった。

 何十回と願え橋にふたりで足を運んだけれど、あの日ほど悔し泣きした日は後にも先にもなかったと思う。ただひたすらに悔しかった。

 でも、異様なほどに夕焼けが綺麗だったし、そんな時に限ってなかなかお目にかかることが出来なかった山陽新幹線のぞみが見れたし。何より、普段あまり感情を表に出さない孝太が大号泣しながら野球とは全くかけ離れた願いを口にするものだから、鮮烈に記憶に残っている。

 あの日は、まるで空が完熟のトマトジュースを飲んだような、そこに琥珀が溶けだして満たされたような、紅色に世界が染まっていた。俺はあの日のことをこれからもずっと、一生忘れないのだと思う。




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