隣に座る許可
第一章 本番五分前
01 本番五分前
第1章 本番五分前
タイムキーパーが「五分前」を切った。背中に貼り付いた汗が、Tシャツの繊維を一枚分だけ重くする。
モニターの右下でスポンサー名のフォントが揺れて見えた。揺れているのは自分の目のせいだと思って目頭を押す。揺れは止まらない。一文字、違っている。
直せる。PC版を開いてPDFに手を入れ、プリントを差し替え、スタッフに配れば、たぶん誰にも気づかれない。無断でやるほうが早いときも、現場にはある。二十七歳の僕は、早さよりも順番を覚えつつある。
でも彼女は今、袖でマイクの位置を確認している。IDストラップが胸骨の上で静かに揺れる。彼女は距離を測る人だ。許可のある言葉しか使わない。
一歩だけ止まり、呼吸を四つ数えた。
「一点、確認です」
彼女が顔を上げる。目だけがこちらに向く。
「台本のスポンサー表記、誤字が一か所。このまま出せば、先方名の表記ミスで全てが台無しになる。直しても――いいですか?」
彼女は頷き、すぐに言った。「ありがとう。修正履歴を『提案』で残してください。最終判断は私がします」
いつもどおりの最小限の文量。けれど、その短さが胸の奥を軽くする。勝手じゃない、と身体が理解する。
ノートPCを開き、誤った一文字を削って正しい表記を差し込む。コメント欄には「正式表記、先方資料で再確認済」と書く。ディレクターが横から覗き込み、「巻きたいんだけど」と言った。
「提案を通してから反映します。速度は落としません」
声の温度を下げて返す。彼女が親指を軽く立て、目線で「ありがとう」と言った。
三分前。袖の空気が少し冷たくなる。彼女がラベリアマイクのケーブルをなぞったとき、衣装の布が拾う擦過音でメーターが跳ねた。
「――触れても大丈夫ですか。マイク、少しだけ上げます」
彼女は視線だけで「どうぞ」と答える。指先と衣服の間に空気を一枚はさみ、肌には触れない。クリップの角度を変え、ケーブルのテンションを逃がす。ノイズが消える。
一分前。客席のざわめきが遠い雨音みたいに均される。彼女は胸の前でマイクを握り直し、舞台袖の先を見た。
「行ってきます」
小さく頷く。ディレクターが指を回し、ステージの照明が立ち上がる。彼女の第一声は思ったより柔らかかった。硬質な壁に、丸い波紋が広がるみたいに届いていく。
タイムキーパーが「五分前」を切った。背中に貼り付いた汗が、Tシャツの繊維を一枚分だけ重くする。
モニターの右下でスポンサー名のフォントが揺れて見えた。揺れているのは自分の目のせいだと思って目頭を押す。揺れは止まらない。一文字、違っている。
直せる。PC版を開いてPDFに手を入れ、プリントを差し替え、スタッフに配れば、たぶん誰にも気づかれない。無断でやるほうが早いときも、現場にはある。二十七歳の僕は、早さよりも順番を覚えつつある。
でも彼女は今、袖でマイクの位置を確認している。IDストラップが胸骨の上で静かに揺れる。彼女は距離を測る人だ。許可のある言葉しか使わない。
一歩だけ止まり、呼吸を四つ数えた。
「一点、確認です」
彼女が顔を上げる。目だけがこちらに向く。
「台本のスポンサー表記、誤字が一か所。このまま出せば、先方名の表記ミスで全てが台無しになる。直しても――いいですか?」
彼女は頷き、すぐに言った。「ありがとう。修正履歴を『提案』で残してください。最終判断は私がします」
いつもどおりの最小限の文量。けれど、その短さが胸の奥を軽くする。勝手じゃない、と身体が理解する。
ノートPCを開き、誤った一文字を削って正しい表記を差し込む。コメント欄には「正式表記、先方資料で再確認済」と書く。ディレクターが横から覗き込み、「巻きたいんだけど」と言った。
「提案を通してから反映します。速度は落としません」
声の温度を下げて返す。彼女が親指を軽く立て、目線で「ありがとう」と言った。
三分前。袖の空気が少し冷たくなる。彼女がラベリアマイクのケーブルをなぞったとき、衣装の布が拾う擦過音でメーターが跳ねた。
「――触れても大丈夫ですか。マイク、少しだけ上げます」
彼女は視線だけで「どうぞ」と答える。指先と衣服の間に空気を一枚はさみ、肌には触れない。クリップの角度を変え、ケーブルのテンションを逃がす。ノイズが消える。
一分前。客席のざわめきが遠い雨音みたいに均される。彼女は胸の前でマイクを握り直し、舞台袖の先を見た。
「行ってきます」
小さく頷く。ディレクターが指を回し、ステージの照明が立ち上がる。彼女の第一声は思ったより柔らかかった。硬質な壁に、丸い波紋が広がるみたいに届いていく。