隣に座る許可
第二章 許可と速度
02 許可と速度
第2章 許可と速度
本番は滑らかに進んだ。質問は三問の予定だったが、持ち時間が押しはじめ、舞台監督から「二問に落とす」合図が入る。彼女はインカム越しに短く「OK」と返し、僕は台本の該当箇所を開いて「提案→承認」を緑に変えた。工程は一つ増えるのに、速度は落ちない。許可を通す手順のほうが、結局は早い――ここ数年で、ようやく身に沁みた事実だ。
スライドの差し替えも同じだった。登壇者の一人が「一枚だけ順番を変えたい」と袖で囁く。僕は即答せず、彼女に視線で合図してから、登壇者へ向き直る。
「変更の提案、受けました。司会からの承認が出たら反映します」
十秒後、彼女が小さく頷く。僕はオペレーターへ手短に伝え、スクリーンの番号を一つ送る。会場の空気は乱れない。許可は、場を守る。
質疑の一つ目が終わる。会場スタッフから「時間、五分巻きたい」とチャットが飛ぶ。僕は紙の進行表に鉛筆で斜線を引き、彼女にだけ見える角度で掲げる。
「次、導入短めで入ります」
彼女は視線だけで「了解」と返し、言葉数を二割だけ削る。音響のフェーダーが正しく下がり、照明の色温度が夜景より少し暖かいところへ落ちる。決め手はいつも、合図の短さだ。
終演の拍手が緩やかに引いていく。幕が半分降りたところで、僕は袖のベルトポーチからガムテープとタイラップを取り出し、ケーブルのあいだの遊びをまとめ直す。ディレクターが近寄ってきて小声で言う。
「よく巻いた。……早かったな」
「手順、飛ばしてないので」
声色は柔らかく返す。飛ばさないのに早い――それが今日いちばん証明したかったことだ。
ホール裏のベンチに、彼女が腰掛ける。胸元のマイクを外し、深呼吸を一つ。僕は折りたたみベンチの脚を指で触れる。わずかな緩み。
「締め直してもいいですか」
「お願いします」
施設スタッフからレンチを借り、ボルトの頭を軽く当てて半回転だけ締める。金属の小さな音がして、脚が床に落ち着いた。
「ありがとう」
彼女が言う。「細かいところまで、よく見てくれる」
返事の代わりに、レンチをポケットに戻す。手が少し震えているのに気づいて、掌を握ったり開いたりする。緊張の震えか、嬉しさの震えか、判別がつかない。
片付けに移る前、進行表の裏にメモを書き足す。
「提案→承認→実行(短く)」
ペン先が止まる。自分の字が、今日に限っていつもよりまっすぐに並んで見えた。
控室へ戻る途中、事務局のホワイトボードに明日の案件が貼り出されているのが目に入る。
『再開発ビル 中庭オープン 備品:ベンチ×1、掲示物』
ベンチ。文字だけで、座面の冷たさや木目の方向が思い浮かぶ。座るためのもの。でも、置き方で隣の距離は変わる。そんな当たり前のことを、今日はいつもより強く考えていた。
彼女が立ち上がる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです。機材、戻してきます」
互いに一礼して、別の動線を歩く。仕事の終わり方まで、きちんと整っているのが嬉しい。僕はケーブルリールを肩に掛け、倉庫へ向かった。許可と速度は両立する――その手応えを、肩の重さが確かめてくれる。
本番は滑らかに進んだ。質問は三問の予定だったが、持ち時間が押しはじめ、舞台監督から「二問に落とす」合図が入る。彼女はインカム越しに短く「OK」と返し、僕は台本の該当箇所を開いて「提案→承認」を緑に変えた。工程は一つ増えるのに、速度は落ちない。許可を通す手順のほうが、結局は早い――ここ数年で、ようやく身に沁みた事実だ。
スライドの差し替えも同じだった。登壇者の一人が「一枚だけ順番を変えたい」と袖で囁く。僕は即答せず、彼女に視線で合図してから、登壇者へ向き直る。
「変更の提案、受けました。司会からの承認が出たら反映します」
十秒後、彼女が小さく頷く。僕はオペレーターへ手短に伝え、スクリーンの番号を一つ送る。会場の空気は乱れない。許可は、場を守る。
質疑の一つ目が終わる。会場スタッフから「時間、五分巻きたい」とチャットが飛ぶ。僕は紙の進行表に鉛筆で斜線を引き、彼女にだけ見える角度で掲げる。
「次、導入短めで入ります」
彼女は視線だけで「了解」と返し、言葉数を二割だけ削る。音響のフェーダーが正しく下がり、照明の色温度が夜景より少し暖かいところへ落ちる。決め手はいつも、合図の短さだ。
終演の拍手が緩やかに引いていく。幕が半分降りたところで、僕は袖のベルトポーチからガムテープとタイラップを取り出し、ケーブルのあいだの遊びをまとめ直す。ディレクターが近寄ってきて小声で言う。
「よく巻いた。……早かったな」
「手順、飛ばしてないので」
声色は柔らかく返す。飛ばさないのに早い――それが今日いちばん証明したかったことだ。
ホール裏のベンチに、彼女が腰掛ける。胸元のマイクを外し、深呼吸を一つ。僕は折りたたみベンチの脚を指で触れる。わずかな緩み。
「締め直してもいいですか」
「お願いします」
施設スタッフからレンチを借り、ボルトの頭を軽く当てて半回転だけ締める。金属の小さな音がして、脚が床に落ち着いた。
「ありがとう」
彼女が言う。「細かいところまで、よく見てくれる」
返事の代わりに、レンチをポケットに戻す。手が少し震えているのに気づいて、掌を握ったり開いたりする。緊張の震えか、嬉しさの震えか、判別がつかない。
片付けに移る前、進行表の裏にメモを書き足す。
「提案→承認→実行(短く)」
ペン先が止まる。自分の字が、今日に限っていつもよりまっすぐに並んで見えた。
控室へ戻る途中、事務局のホワイトボードに明日の案件が貼り出されているのが目に入る。
『再開発ビル 中庭オープン 備品:ベンチ×1、掲示物』
ベンチ。文字だけで、座面の冷たさや木目の方向が思い浮かぶ。座るためのもの。でも、置き方で隣の距離は変わる。そんな当たり前のことを、今日はいつもより強く考えていた。
彼女が立ち上がる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです。機材、戻してきます」
互いに一礼して、別の動線を歩く。仕事の終わり方まで、きちんと整っているのが嬉しい。僕はケーブルリールを肩に掛け、倉庫へ向かった。許可と速度は両立する――その手応えを、肩の重さが確かめてくれる。