【完結】こっち向いて!少尉さん ー 君は僕の甘い人 ー

25 悪者はやっつけます! 少尉さん

「それ以上近づくな! 動けばこの小僧の頭をぶち抜く!」
 男はアンのこめかみに銃口を向け、レイルダーに向かって叫んだ。二人の距離は二十メートルほどある。
「そうだろう? お前達、統一王国の軍は尊い理想を掲げている。だから、貧しい民衆の味方なんだろう? 王国を標榜(ひょうぼう)しているくせになぁ。だったらここで、この小僧を犠牲にしたらまずいよなぁ?」
「確かにそうだな」
 レイルダーは言った。その静かな声が、かえってアンをぞっと震わせる。彼は怒り狂っている。自分を戒《いまし》めている男よりも彼の方が怖かった。
「おお! こんなに震えて! かわいそうに!」
 アンの震えを感じた男はせせら笑った。
「さぁ、色男! 小僧を殺されたくなかったら、俺の見ている前で、馬を下りて川に入れ! 向こう岸まで泳ぎ渡れたら、自分の運に感謝するんだな」
「……わかった」
 レイルダーはそう言って、馬から滑り降りた。
「おっと。もちろん銃は鞍に引っ掛けておけよ」
「……」
 レイルダーは鞍の上に銃身を置くと、アンの瞳を見つめながらじりじりと後ろに下がった。革靴がぬかるみにはまり、そしてすぐに膝まで水に浸かっていく。

 少尉さん!

 アンは歯を食いしばって彼を呼ぶのを堪えた。
 あんなに威勢よく宣言したのに、結局彼の邪魔になってしまった。名前を呼んでもし彼が振り返ったら確実に撃たれてしまうだろう。自分のせいで、これ以上彼を危険に晒したくない。

 何か、何か私にできることを探さなくちゃ……!

 アンは自分がしがみついている馬に向かって念じた。
 立派な雄馬だが、疲れ切っている。
 当然だ。一晩中走り続けた上、戦闘に巻き込まれてしまったのだ。馬は早く背中の荷物──男を下ろしたがっていた。彼を嫌っているのだ。
 その間にもレイルダーは川の中へと入っていく。足の長い彼の太ももの辺りまで水が(おか)していた。
「おお! なかなか気持ちがよさそうじゃないか。寒中水泳というわけだ。さあ向こう岸まで泳いでいけよ」
 男はだらだら汗をかいていたが、引きつったように笑うと、アンに向けていた銃口を、対岸の方に目をやったレイルダーに向けた。
 最初から殺すつもりだったのだ。

 今だ!

「お願い!」
 アンが軍馬に向かって囁いたその瞬間。
「うあああああ!」
 突然後ろ足で立ち上がった馬に、銃を構えるために手綱を離していた男は、たまらず背中から転がり落ちる。
 ピストルを握った手が虚しく宙を掻き、アンの耳元で破裂音が響いた。
 思わず力が入って引き金を引いてしまったのだろう、弾丸は薄い明方の空に向かって放たれたようだ。
 発射の衝撃でアンの耳が一瞬つきんと痛み、同時に駆け出した馬から振り落とされて、アンも河原の藪の中に転がった。
「あいたっ!」
 丈夫な茎を持つ藪の塊のおかげで地面に激突は避けられたが、それでもあちこちぶつけた上に、鋭い茎に引っかかれる。
「いたた……!」
 なんとか立ちあがろうと、もがくアンの目の前を疾風が駆け抜けた。
「え?」
 体を低くしたレイルダーが、転がった男に飛びかかっていく。悲鳴が上がって、黒いものが飛んでいった。男が持っていた拳銃だ。レイルダーが男の腕を蹴りあげたのだ。
 続いて嫌な鈍い音が連続して続く。
「離してよ! もう!」
 アンがからみつく薮を振り切って駆けつけた時、レイルダーは顔面が血だらけになった男を尚も殴りつけていた。
「この下衆野郎! 昔、俺がつけた傷を忘れたか!」
 そう言って、レイルダーは男の頬にへばりついた髪をむしる。すると半分ほどちぎれた耳たぶが現れた。ぎざぎざになっているが、血が流れていないから今の傷ではないようだ。
「よう! 久しぶりに見たぞ! かっこいい耳だよなぁ、おい!」
「助けて! 助けてくれ! 殺さないでくれ!」
「そう言って命乞いをした人間を、お前が助けたことが一度でもあったか! お前たち一族はいつもそうだ。え! ラジム!」
「……え?」
 アンはその名を聞いて呆然となった。
 ラジムというのは、この戦をはじめた辺境公爵の名だ。彼は領地内の城に立てこもって、自軍を指揮しているのではなかったのか?
「お前の父親が俺たちを捨て駒にした! 俺の父も兄も、味方に見捨てられて死んだ! 俺はお前の一族を許さない。義のないものに勝利はない!」
 ごきりと鈍い音がした。踏み潰された(すね)の骨が砕ける音だ。耳を覆いたくなるような悲鳴が上がる。
「ぎゃああああ! 痛い! ゆ、許してくれ! 助けてくれ!」
 ラジムは這いずり回って惨めに叫んだ。その胸ぐらをレイルダーが引きずり上げ、放り投げたかと思うと長い足が回転し、ものすごい蹴撃が男を再び地面に叩きつける。石にでもぶつけたのだろう、歯が何本か折れたようだ。
「嫌だね。たった今、お前は、俺にとって一番許せないことをした」
「ひいい! そ、それはなんだ!? 金ならやる! 馬車の座席の下に金塊が入っている! それをやるから!」
 口からだらだらと唾液と血を流しながら、男は歯切れ悪く叫んだ。
「俺のアンが金などに変えられるか!」
 渾身(こんしん)の拳が男の貧弱な顎をとらえ、そのままラジムは二メートルほど吹っ飛んだ。衝撃がよほど酷かったのだろう、ラジムはもう起き上がれず、うめき声を上げながら泣きじゃくっている。
「まだだ! こんなものでお前の罪は消えない」
 レイルダーはずぶ濡れの長靴から細身のナイフを取り出した。
「両耳をお揃いにしてやる。なんなら耳を全部切り取ってみるか!」
「ひ……!」
 冷えた目で見据えられ、血と涙と(よだれ)で汚れた男の顔が恐怖で引きつる。もはや声すらも出ないようだった。
「少尉さん!」
 飛び出したアンは、レイルダーの腰にしがみついた。
「少尉さん、もうやめて!」
「アン! 下がっていろ!」
「嫌です!」
 アンは今さっきレイルダーが言った言葉を繰り返した。
「その人はもうぼろぼろだわ! これ以上殴ったら死んでしまう!」
「死ねばいいのさ」
 レイルダーが冷酷に笑った。
「こいつは戦況が不利と見て、仲間を見捨てて西北の国に逃げようとしていたんだ! まだ戦っている家臣もいるというのに、今も昔も卑怯な血筋なんだ!」
「それなら、その人達にこの人を罰してもらいましょう!」
「その上、アンにも手を出した! それだけでも万死に値する!」
 泥のついた靴のつま先がラジムの掌を踏みつけた。再びどこかの骨が折れる音がする。
「ぐげえええ!」
 カエルが踏み潰されたような声を発し、ラジムは気を失った。ズボンが濡れているのは失禁しているのだろう。
 レイルダーはその胸ぐらをつかんで乱暴にゆすった。
「起きろ! このクソ野郎! 眠ったまま楽に殺してはやらんぞ!」
 アンが大好きな美しい瞳は、オオカミのようにぎらつき、整った口元は憎悪に歪んでいる。
 いつも眠そうで、熱のない話し方をする彼に、ここまで残酷な面があったのだ。
 今の話から察するに、この二人には深い因縁があるようだったが、今はそんなことはどうでもいい。

 この人を痛めつける以上に、少尉さん自身が傷ついてる!

 こんな苦しそうなレイルダーを、アンはそれ以上見ていられなかった。
「少尉さん、レイルダー少尉さん! こっちむいて! 少尉さん! 私を見て!」
 アンが絶叫する。
 その声でやっとレイルダーは顔を上げた。
「……アン! 怪我は!?」
 完全に沈黙したラジムを放ってアンの前にレイルダーが駆け寄り、外套の上からあちこち触って確かめる。
「私は平気です。どっちかといえば、私が馬に頼んで、その人を転がしたんです! だからもう……」
 アンは、わっとレイルダーにしがみついた。
「怒らないで!」
 血だらけの男の拳をひっつかんで胸の中に抱きしめる。
「これ以上少尉さんが手を汚すことはないわ! お願い、落ち着いてください! 私なんでもするから!」
 涙がすごい勢いでぼろぼろ飛び出してくるが、構わなかった。意外にもアンは滅多に泣かないが、レイルダーを抑えられるなら、みっともなく泣くくらいなんでもない。
「……アン!」
「お願いです! 少尉さんに何かあれば、私生きてられない!」
 それはアンの心からの叫びだった。

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