【香る物語】香りの檻
プロローグ
香りの記憶……

今でも覚えている。
夢の中で何度も繰り返す、忘れたい記憶。

写真を眺めるように、断片的な記憶しか残っていないけれど。あれは、いったい何歳の頃だったのだろうか?

泣きじゃくる幼い私を抱きしめている、知らないおばさん。震えながら涙をこぼし、唇の端に赤い血をにじませているお母さん。制服を着た男の人たちが、酒にまみれた小汚い男を押さえつけている。

ただ、この男の顔だけは、靄に覆われたようにぼんやりとしていた。

でもあの臭いだけは、今でも鼻の奥に焼きついている。

酒とタバコ、安っぽいコロンと体臭が混じり合った、吐き気と頭痛を誘うほど不快な臭い。

大人になってからも同じものを嗅ぐたびに、胃の奥で何かが込み上げるような感覚がして、口の中に嫌な苦味がいつまでも残った。

鼻の奥にこびりついたあの夜の獣のような残り香は、いまだに消えない。


……ただ、もう一つだけ覚えている香りがある。あの夜とは違う、やさしい香り。

小学生のときのこと。熱を出して眠っていた夜、誰かが私の額に冷たい手を当ててくれた。

目を開けられないまま、そっと鼻を蕩(とろ)かしたのは、森とお日様が混ざったような、清らかな香り。

柑橘類のようなやわらかい甘さと、干した後の布団のようなぬくもり。それが全身をやさしく包み込んでいった。

その香りがあったから、私は安心して眠ることができた。今もあの香りだけは、怖くない。

……あの夜、そっと手を当ててくれたのは、いったい誰だったのだろうか?




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