【香る物語】香りの檻
物音ひとつしない静かな寝室。半分引かれたカーテンの隙間からは、もう星や月のやわらかい光は見えない。

頭にかかっていた靄が晴れてきた。どうやら魔法の媚薬の効果が切れたみたい。

私の隣には、ぐっすり眠っている彼。起こさないようにベッドから降り、床に散らばった服をかき集めた。素早く着替え、最後にもう一度彼の寝顔を眺める。筋の通った鼻、うっすら見える目のクマ。すべてが愛おしい。

後悔は……していない。
愛する人と一つになれたこと。
でも、これで終わり……

ドアの音を立てないように閉め、彼の部屋から去った。

マンションの入り口を出て、街灯から少し離れたところでタクシーを待つ。少しでも夜の闇に溶け込むようにと。

数時間前、ここを通ったときより、空気がしっとりと湿気を含んでいる。だからなのか、雨の匂いがする。夜空は黒い雲に覆われ、月も星も見当たらない。今の私の心を表しているかのように。

春先の夜気はコートを着ていても、体の芯から冷える。首元の隙間から入る冷気が素肌を無情に刺す。

思わず両腕を抱き寄せ、コートの上から自分の腕をさする。思い出すのは、彼のぬくもり。やさしく、しかし情熱的に彼に触れられたところが、一瞬にして熱くなる。

あの人の視線、吐息や額にうっすら浮かぶ汗。肌が重なるたびに生じる熱と湿り気。

確かにそこには蜜のように甘い時間があった。

でも彼は、私を見ていなかった。

一度も『穂乃香』とささやかれなかった。唯一発せられた名前ーーそれは『蘭』。

わかっていたとはいえ、胸が苦しくなる。
だからこれでやっと忘れて前に進めるよね?

ふと頬に、ポツリと感じた水滴。どうやら雨が降ってきた。暗がりに一点の明かり。ヘッドライトが、近づいてくる。

タクシーに乗り込み、マンションに目を向けそっとつぶやく。

「さようなら」




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