ガキ大将と猫 2 (溶け合う煙 side story)
1.甘くて苦い日常
職場の最寄り駅に佇むそのカフェは、いつの間にか私、佳代の日常に溶け込み、すっかり居場所のひとつになっていた。響と付き合い始めてから、もう数ヶ月が過ぎている。彼が残業になる夜は決まって、私はこのカフェで彼を待つ。約束というよりも、自然にそうなった習慣だった。
駅へと続く通りに面した店内は、通り側は全面がガラス張りになっていて、一人掛けのソファが等間隔に並んでいる。そこに身を沈め、温かいレモンティーの湯気越しに外を眺めていると、行き交う人々や車の流れがまるで液晶画面の向こうで再生される映像のように感じられた。現実なのに、どこか触れられない世界。
その透明な境界のこちら側で、私は静かに時間を飲み干しながら、響が現れる瞬間だけを待っている。カップの底に残るぬるい最後の一口を口にする頃に彼はいつも現れるはずだった。
……遅いな。まだかなぁ。
「今日も待ち合わせですか?」
カフェの男性スタッフが柔らかい笑みを向けて声をかけてきた。学生のアルバイトなのだろうか、20代前半に見える。
「いつも居座ってすみません!そろそろ来るはずなんですが…。」
慌てて席を立って頭を下げるとググっと椅子の足が床に擦れて音がなった。
「あ、違うんです!長居せずとっとと帰れとかの催促ではなくて…。あのぉ、コレ、良かったら召し上がってください。」
男性スタッフはトレイに載せているお皿を手に取り私の前にある小さなテーブルに置いた。テーブルにお皿を置くために少し屈んでいるはずなのにしっかり背筋を伸ばして立っている私よりもはるかに背が高かった。白のワイシャツの袖をめくり、バリスタをイメージさせる黒の前掛け姿が彼のスタイルの良さを際立たせていた。
「スコーンですか?」
お皿の上には温められたスコーンの横にホイップクリームが添えられた状態で置かれていた。
「はい、アールグレイのスコーンなんですが、僕、オーダーミスで温めてしまって…。このままだと固くなるだけなので良かったら召し上がってください。」
自分のミスを恥じているのか、やや早口で勢いよく彼は言った。
「あの…、でも…、私がいただいてしまって良いんですか?」
佳代はキョロキョロと他にスコーンを受け取るのにもっと最適なお客がいるのではないかと辺りを見回してみる。
小さな子どもでもあれば譲りたいと思ったが、この時間のこのカフェに子どもを連れた客は誰1人いなかった。
「あの…、僕はあなたに食べてもらいたいんですがダメですか?」
少し照れた顔を見せる彼。
「全然ダメじゃないです!!逆に申し訳なくて…。じゃあ、お言葉に甘えていただきます。」
小さく頭を下げると、彼はほっとしたように笑った。
「よかった。……あ、僕、山田っていいます。」
突然の名乗りに、一瞬きょとんとしてしまった。
「いつもいらっしゃるから、勝手に顔見知りみたいな気持ちになってしまって…。」
山田はそう言って、照れくさそうに後頭部をかいた。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。」
そう言われると、私も名乗らないのも不自然…よね?
「私、佳代です。山城佳代です。」
すると彼は少しだけ目を細めて、
「佳代さん。覚えておきますね。」
と、やわらかく嬉しそうに繰り返した。
「いつも待ってる方、羨ましいですね。」
ふと山田が言う。
「え?」
「こんなふうに、誰かに待ってもらえるなんて…。」
一瞬だけ視線が絡むが、彼越しに見えるガラス張りの奥に響きの姿を見つけて心が弾む。
いつもなら直ぐにお店に入ってくるのに…。
響は、店の入り口ではなく駅の方を見ていた。
まるで誰かを待っているように。
次の瞬間、彼の顔がぱっと大きくほころぶ。
見慣れているはずのその笑顔が、胸の奥をきゅっと締めつけるほど、無防備で、嬉しそうで。
突然、響はしゃがみ込んだ。
――え?だれ?
小さな女の子が駆け寄り、そのまま勢いよく飛びつく。
響は驚く様子もなく、軽々と片腕で抱き上げた。
くるりと小さく体を揺らし、女の子はきゃっと笑う。
その光景だけでも十分に眩しかったのに。
数秒後――。
改札のほうから髪の長い女性がまっすぐ歩み寄ってきた。迷いのない足取り。響は女の子を抱いたまま、その女性へと視線を向ける。
そして。
女性は、まるでそこが当たり前の居場所であるかのように、響の胸へ顔をうずめた。
響は何のためらいもなく、その長い髪をそっと撫でる。
やさしく。まるでいつも私を撫でるような慣れた手つきで…。
あの微笑みは、自分に向けられるものだと思っていた。
あの優しい手は、自分だけのものだと。
なのに。
窓ガラスに映る自分の顔が、わずかに青ざめていることに気づく。
ドクンと跳ねる鼓動が、やけに大きい。
「…大丈夫?」
山田くんのその一言で現実に引き戻される。
私の顔色に気づいたのか山田くんが心配そうに声をかけてくれたのだが、こくりと頷くことしかできなかった。
外の世界は変わらず明るく、駅へ向かう人波も、子どもの笑い声も、すべてがいつも通りなのに――
私の胸の中だけが、静かに崩れていく。
「まさか…相手、既婚者?」
隣でひどく乾いた声がこぼれた。
自宅の様子からして独身であることは確かだった。離婚歴があると職場でそんな話は聞いたことがない。もちろん本人からも…。
「…違う。結婚してない。」
言葉にしてみても、不安は消えなかった。
体が固まった窓の向こうから視線を外せない…。
響は小さな女の子を抱いたまま、長い髪の女性の肩をそっと引き寄せている。
そのとき――
ふいに、響がこちらを向いた。
確かに、目が合った。
逸らさなかったのは、彼のほうだ。
胸が跳ねる。
何か言葉を探すような、ほんの一瞬の静止。
けれど次の瞬間、彼は何事もなかったかのように女性と並び、駅の方向へ歩き出してしまった。
私の存在を、置き去りにして。
「……いっちゃった」
唇から、かすれた音が落ちる。
どういうこと?
私の頭の中は真っ白に塗りつぶされ胸が締め付けられる感覚と共に指先から体温を失っていくのがわかった。足は床に縫い付けられそのまま動けずにいた。
そんな私の様子に気づいたのか、山田くんがそっと声をかけてくる。
「……スコーン食べて落ち着こう。ほら、座って。いま、飲み物持ってくるよ。もちろんサービス!」
明るく笑って、スタッフ専用カウンターの入口からビバレッジコーナーへと消えていく。その気遣いが、かえって胸にしみた。
……私は、見てはいけないものを見てしまったの?
ガラス越しの光景が、何度も頭の中で繰り返される。
女の子の笑顔。
女性が顔をうずめた胸元。
響の、あの優しい手。
そのとき、スマートフォンが震えた。
現実に引き戻されるように画面を見る。
『ごめん、今日は会えなくなった。』
たった一行。
理由もない。
絵文字もない。
画面の文字が、やけに冷たく見える。
指先が震えて、返信欄を開いたまま動かない。
窓の外は相変わらず賑やかで、さっきまでそこにいたはずの彼の姿はもう見えない。
甘いはずのスコーンの匂いが、なぜか遠く感じた。
駅へと続く通りに面した店内は、通り側は全面がガラス張りになっていて、一人掛けのソファが等間隔に並んでいる。そこに身を沈め、温かいレモンティーの湯気越しに外を眺めていると、行き交う人々や車の流れがまるで液晶画面の向こうで再生される映像のように感じられた。現実なのに、どこか触れられない世界。
その透明な境界のこちら側で、私は静かに時間を飲み干しながら、響が現れる瞬間だけを待っている。カップの底に残るぬるい最後の一口を口にする頃に彼はいつも現れるはずだった。
……遅いな。まだかなぁ。
「今日も待ち合わせですか?」
カフェの男性スタッフが柔らかい笑みを向けて声をかけてきた。学生のアルバイトなのだろうか、20代前半に見える。
「いつも居座ってすみません!そろそろ来るはずなんですが…。」
慌てて席を立って頭を下げるとググっと椅子の足が床に擦れて音がなった。
「あ、違うんです!長居せずとっとと帰れとかの催促ではなくて…。あのぉ、コレ、良かったら召し上がってください。」
男性スタッフはトレイに載せているお皿を手に取り私の前にある小さなテーブルに置いた。テーブルにお皿を置くために少し屈んでいるはずなのにしっかり背筋を伸ばして立っている私よりもはるかに背が高かった。白のワイシャツの袖をめくり、バリスタをイメージさせる黒の前掛け姿が彼のスタイルの良さを際立たせていた。
「スコーンですか?」
お皿の上には温められたスコーンの横にホイップクリームが添えられた状態で置かれていた。
「はい、アールグレイのスコーンなんですが、僕、オーダーミスで温めてしまって…。このままだと固くなるだけなので良かったら召し上がってください。」
自分のミスを恥じているのか、やや早口で勢いよく彼は言った。
「あの…、でも…、私がいただいてしまって良いんですか?」
佳代はキョロキョロと他にスコーンを受け取るのにもっと最適なお客がいるのではないかと辺りを見回してみる。
小さな子どもでもあれば譲りたいと思ったが、この時間のこのカフェに子どもを連れた客は誰1人いなかった。
「あの…、僕はあなたに食べてもらいたいんですがダメですか?」
少し照れた顔を見せる彼。
「全然ダメじゃないです!!逆に申し訳なくて…。じゃあ、お言葉に甘えていただきます。」
小さく頭を下げると、彼はほっとしたように笑った。
「よかった。……あ、僕、山田っていいます。」
突然の名乗りに、一瞬きょとんとしてしまった。
「いつもいらっしゃるから、勝手に顔見知りみたいな気持ちになってしまって…。」
山田はそう言って、照れくさそうに後頭部をかいた。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。」
そう言われると、私も名乗らないのも不自然…よね?
「私、佳代です。山城佳代です。」
すると彼は少しだけ目を細めて、
「佳代さん。覚えておきますね。」
と、やわらかく嬉しそうに繰り返した。
「いつも待ってる方、羨ましいですね。」
ふと山田が言う。
「え?」
「こんなふうに、誰かに待ってもらえるなんて…。」
一瞬だけ視線が絡むが、彼越しに見えるガラス張りの奥に響きの姿を見つけて心が弾む。
いつもなら直ぐにお店に入ってくるのに…。
響は、店の入り口ではなく駅の方を見ていた。
まるで誰かを待っているように。
次の瞬間、彼の顔がぱっと大きくほころぶ。
見慣れているはずのその笑顔が、胸の奥をきゅっと締めつけるほど、無防備で、嬉しそうで。
突然、響はしゃがみ込んだ。
――え?だれ?
小さな女の子が駆け寄り、そのまま勢いよく飛びつく。
響は驚く様子もなく、軽々と片腕で抱き上げた。
くるりと小さく体を揺らし、女の子はきゃっと笑う。
その光景だけでも十分に眩しかったのに。
数秒後――。
改札のほうから髪の長い女性がまっすぐ歩み寄ってきた。迷いのない足取り。響は女の子を抱いたまま、その女性へと視線を向ける。
そして。
女性は、まるでそこが当たり前の居場所であるかのように、響の胸へ顔をうずめた。
響は何のためらいもなく、その長い髪をそっと撫でる。
やさしく。まるでいつも私を撫でるような慣れた手つきで…。
あの微笑みは、自分に向けられるものだと思っていた。
あの優しい手は、自分だけのものだと。
なのに。
窓ガラスに映る自分の顔が、わずかに青ざめていることに気づく。
ドクンと跳ねる鼓動が、やけに大きい。
「…大丈夫?」
山田くんのその一言で現実に引き戻される。
私の顔色に気づいたのか山田くんが心配そうに声をかけてくれたのだが、こくりと頷くことしかできなかった。
外の世界は変わらず明るく、駅へ向かう人波も、子どもの笑い声も、すべてがいつも通りなのに――
私の胸の中だけが、静かに崩れていく。
「まさか…相手、既婚者?」
隣でひどく乾いた声がこぼれた。
自宅の様子からして独身であることは確かだった。離婚歴があると職場でそんな話は聞いたことがない。もちろん本人からも…。
「…違う。結婚してない。」
言葉にしてみても、不安は消えなかった。
体が固まった窓の向こうから視線を外せない…。
響は小さな女の子を抱いたまま、長い髪の女性の肩をそっと引き寄せている。
そのとき――
ふいに、響がこちらを向いた。
確かに、目が合った。
逸らさなかったのは、彼のほうだ。
胸が跳ねる。
何か言葉を探すような、ほんの一瞬の静止。
けれど次の瞬間、彼は何事もなかったかのように女性と並び、駅の方向へ歩き出してしまった。
私の存在を、置き去りにして。
「……いっちゃった」
唇から、かすれた音が落ちる。
どういうこと?
私の頭の中は真っ白に塗りつぶされ胸が締め付けられる感覚と共に指先から体温を失っていくのがわかった。足は床に縫い付けられそのまま動けずにいた。
そんな私の様子に気づいたのか、山田くんがそっと声をかけてくる。
「……スコーン食べて落ち着こう。ほら、座って。いま、飲み物持ってくるよ。もちろんサービス!」
明るく笑って、スタッフ専用カウンターの入口からビバレッジコーナーへと消えていく。その気遣いが、かえって胸にしみた。
……私は、見てはいけないものを見てしまったの?
ガラス越しの光景が、何度も頭の中で繰り返される。
女の子の笑顔。
女性が顔をうずめた胸元。
響の、あの優しい手。
そのとき、スマートフォンが震えた。
現実に引き戻されるように画面を見る。
『ごめん、今日は会えなくなった。』
たった一行。
理由もない。
絵文字もない。
画面の文字が、やけに冷たく見える。
指先が震えて、返信欄を開いたまま動かない。
窓の外は相変わらず賑やかで、さっきまでそこにいたはずの彼の姿はもう見えない。
甘いはずのスコーンの匂いが、なぜか遠く感じた。
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