ガキ大将と猫 2 (溶け合う煙 side story)

2. 話の向こうと、廊下の影

――はっきりとは見えなかったけれど、綺麗系な人だったなぁ……。

昨夜の光景が、何度も脳裏に浮かんだ。
長い髪。迷いのない足取り。響の胸に顔をうずめた、その自然な仕草。

そして、それを受け止めた彼の腕。

幼いと言われがちな自分の顔立ちを、ふと思い出す。
並んだら、きっと対照的だ。
落ち着いた雰囲気の彼女と、どこか未完成な自分。

思い出すたび、胸の奥に黒いものがじわりと広がる。
嫉妬、と呼ぶにはあまりにも重たくて、
不安、と片づけるにはあまりにも苦しい。

息を吸うたび、締めつけられるようだった。

デスクのパソコンを開く。
ファイルをクリックする。
数秒眺めて、閉じる。

また別のファイルを開いて、閉じる。

――私、何しようとしてたんだっけ。

カーソルだけが虚しく点滅する。
頭の中は昨夜で止まったまま、仕事の言葉がひとつも入ってこない。

よりによって、こんな日に限って…。

共有スケジュールを開くと響は取引先へ直行直帰。
今日は会社には来ない…。

姿も見えない…。
声も聞けない…。

問いただすことも、何もできないまま、時間だけが無機質に進んでいく。

キーボードの上で止まった指先が、わずかに震えているのに気づいた。

――私、どうしたいの?

答えは出ない。

ただ、昨夜見たあの光景だけが、何度も何度も、胸の奥をざらつかせていた。

ふと時計を見ると15時が近い。
気分転換に飲み物を取りに給湯室の冷蔵庫へと向かおうとした時だった。

『山田  真大(まひろ)

とスマホのディスプレイに表示され、静かに震え出した。

「もしもし…。」

コソコソと小さな声で電話に出ながらマグカップをもって給湯室へと向かう。

昨日、カフェを出るとき――

山田くんに呼び止められ、半ば強引に連絡先を交換した。
「何かあったら、ね」なんて、軽い口調で。
あのときは、ただの気遣いだと思っていた。

スマートフォンが震え、表示された名前に一瞬だけ躊躇するけれど、指は素直に通話ボタンを押していた。

「今、学校帰り?」

受話口から届いた声は、どこか探るようで、それでいて変わらず明るい。

ああ、やっぱり。

私は小さく息を吐いた。

「ううん、違う。仕事中。」

少しだけ間を置いてから、続ける。

「私、よく学生に間違われるけど……こう見えて社会人。とっくに二十歳過ぎてるの。」

言いながら、自分でも可笑しくなる。
何度目だろう、この説明。

電話の向こうが、不意に静かになる。

一拍。
それから、もう一拍。

――驚いてる?

目に浮かぶのは、あの人懐っこい笑顔。
きっと今、目を丸くしているに違いない。

やがて、一呼吸おいたあとで、山田くんの声が返ってきた。

『ごめんなさい、年上だったんですね。てっきり年下かと…。それより昨日、あんなことがあったから心配で…。あっ、仕事中でしたよね?電話切った方がいいです?』

「少しなら大丈夫。今、休憩しに給湯室来たから…。」

『僕、あれからずっと佳代ちゃ……佳代さんのことが気になっていて……。あのままバイト早退して、自宅まで送れば良かったって後悔してました。』

言い直した呼び方に、わずかな動揺がにじむ。
年上だと知ったせいだろうか、少しだけぎこちない気がした。だけど、胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「心配だから送るって言ってくれたのを断ったのは私だし……。こうやって心配してくれて電話してくれたんだし、すごい感謝だよ。ありがとう。」

本心だった。
あの夜、ぐらついていた足元を、そっと支えてくれたのは確かだから。

一瞬の沈黙。

それから、低く、まっすぐな声。

『――それは、相手が佳代さんだから……。』

言葉の余韻が、給湯室の静けさに溶ける。

不意に、心臓が強く打った。

――どういう意味?

問い返す前に、

コホンッ。

給湯室の入り口の向こうから、わざとらしい咳払いが響く。

私は思わず背筋を伸ばし、通話口を手で覆った。

「取り敢えず大丈夫だから。ありがとう。」

急いで伝えると山田くんの返事も待たずに通話を終わらせた。

給湯室の出入り口には扉がなく廊下とそのまま繋がっている。

ーー私が電話してたから入りづらかったのかな?

ポットの横に置かれた先ほど空っぽだったマグカップからは湯気が立ちのぼっていた。

誰がいるのか気になり出入り口からひょこっと顔を出すと…。

廊下の壁にもたれかかる影が目に入った。

腕を組み、わずかに顎を引いたその姿勢。
見慣れたスーツのライン。
そして、はっきりとわかる、不機嫌な横顔。

――響。

視線が合う。

空気が、一瞬で張りつめる。

いつから、そこにいたのだろう。
どこまで、聞いていたのだろう。

私の意識は、すべて目の前の彼に奪われていた。
不機嫌そうに細められた目が、まっすぐこちらを射抜く。

「電話から男の声が漏れてたけど。」

冷たい声に体が強張る。

いや、私が構える必要なてない!私の知らない女性を抱きしめていたのは響の方だ。浮気を疑われるのは私ではなくて彼の方ではないかっ!

「そうね、相手が男の人だったからね。」

少し意地悪く強い口調で言い返してやった。

強気なその態度が気に入らなかったのか響は眉間に少し皺を寄せた。

「俺に言えない相手?」

「別に。」

自分のことは棚に上げてちょっと電話の相手が男だからってなんで私が質問攻めに合わなくちゃいけないのっ!

あんなに優しい目で彼女の髪を撫でる姿を思い出し余計に腹が立ってきた。

「なんでここにいるのよ。取引先に直行直帰だったんじゃないの?」

声が、思ったより強く出た。

響は壁にもたれたまま、ふっと息を吐く。

「忘れ物。会社戻ったら佳代の姿が見えたから、こっち来たんだよ。……昨日は突然会えなくなったし。」

腕をほどき、一歩近づく。

「ちゃんと顔見て謝りたかったし……お前に触れたかったし。」

低く落ちる声。

次の瞬間、ゆっくりと伸びてきた手が、私の頬に触れた。
指先が熱い。

逃げようとするより早く、顎をそっと持ち上げられ、彼のほうへ顔を向けさせられる。

至近距離で、あの微笑み。

心臓が、跳ねる。

「きっ、昨日のこと、そんなんで誤魔化されないんだからねっ! 目があったんだからわかるでしょ! 私ちゃんと見てたんだからっ!」

言葉が一気にあふれ出す。

響は一瞬、視線を天井へ逃がした。

「あぁ、あれね……。」

気まずそうな沈黙。

その曖昧さに、胸がぎゅっと縮む。

「――えっ。お前、なんちゅー顔してんだよ……。」

「ひっ、響のせいだもん!」

感情が抑えきれない。
嫉妬と怒りで眉間に皺が寄る。
それでも――

誰にも、取られたくない。

その思いだけが、はっきりしている。

「……おまえ、ちゃんと俺のこと好きだったんだ。その顔、めちゃくちゃ嬉しいんだけど。」

視界が滲んで涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。

「好きに決まってるじゃん!」

叫ぶように言ってしまってから、しまったと思う。

けれど響は、目を見開いたあと、ふっと笑った。
からかうような声なのに、どこか本気で。

「可愛すぎるから……マジ勘弁して。」

そう言うと、彼は私の手首をそっと引いき誰もいない給湯室の中へするりと入る。

響の手が、頬から首筋へと移る。
指先は優しいのに、逃げ場はない。

「佳代。」

名前を呼ばれた、その瞬間、唇が重なった。

短く、でも確かに熱を帯びたキス。

さっきまで渦巻いていた黒い感情が、
溶けるように、甘く崩れていく。

それでも――

昨日の光景は、まだ消えていない。

私は、彼のスーツの裾をキュッと掴みながら、ゆっくりと身体を離した。
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