月明かりの下で、あなたに恋をした

第2話


美術館で葛城さんと別れた夜から、3日が経った。

月曜の朝。いつもの通勤電車の中で、私はポケットの中の名刺にそっと触れた。指先に伝わる紙の感触が、あの夜を思い出させる。

『陽月社 児童書編集部 葛城律』

何度この名前を見ただろう。スマホの連絡先には、彼の名前が登録されている。でも、まだ連絡できていない。

メールの下書きが、5通も溜まっていた。どれも、送信ボタンを押せないまま。

何を書けばいいのかわからない。『作品を見てください』とストレートに書くべきなのか。それとも、もっと軽い挨拶から始めるべきなのか。

そもそも、段ボール箱を開ける勇気が、まだ出ない。

けれど……あの人に会いたい。その気持ちだけは、電車の振動にも掻き消されないほど、確かに存在していた。



会社に着くと、デスクに戸田課長からの付箋が貼られていた。

『柊、10時に打ち合わせ。新規案件』

新しい仕事。また「はい」と言うだけの私。

ため息をついて、私はデスクに座った。

「おはよう、彩葉」

真帆が明るく声をかけてきた。

「週末どうだった? なんか顔つきが違うんだよね。いい意味で」

「別に、何もないよ」

「嘘。絶対何かあったでしょ」

真帆は鋭い。私は迷ったが、話すことにした。

「……人に、会ったの」

「人?」

真帆の目が輝く。

「もしかして、男性?」

私は頷いた。

「それ、詳しく聞かせて!」

真帆が身を乗り出す。

私は、あの夜のことを簡単に話した。橘マリの展示のこと。葛城さんが絵本の編集者だったこと。作品について語り合ったこと。

ただし、自分が美大出身であることや、絵本を作っていたことは伏せた。まだ、それを話す勇気はなかった。

「で、彩葉はその人のこと、気になってるんでしょ?」

真帆がニヤリと笑う。
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