月明かりの下で、あなたに恋をした
第2話
美術館で葛城さんと別れた夜から、3日が経った。
月曜の朝。いつもの通勤電車の中で、私はポケットの中の名刺にそっと触れた。指先に伝わる紙の感触が、あの夜を思い出させる。
『陽月社 児童書編集部 葛城律』
何度この名前を見ただろう。スマホの連絡先には、彼の名前が登録されている。でも、まだ連絡できていない。
メールの下書きが、5通も溜まっていた。どれも、送信ボタンを押せないまま。
何を書けばいいのかわからない。『作品を見てください』とストレートに書くべきなのか。それとも、もっと軽い挨拶から始めるべきなのか。
そもそも、段ボール箱を開ける勇気が、まだ出ない。
けれど……あの人に会いたい。その気持ちだけは、電車の振動にも掻き消されないほど、確かに存在していた。
◇
会社に着くと、デスクに戸田課長からの付箋が貼られていた。
『柊、10時に打ち合わせ。新規案件』
新しい仕事。また「はい」と言うだけの私。
ため息をついて、私はデスクに座った。
「おはよう、彩葉」
真帆が明るく声をかけてきた。
「週末どうだった? なんか顔つきが違うんだよね。いい意味で」
「別に、何もないよ」
「嘘。絶対何かあったでしょ」
真帆は鋭い。私は迷ったが、話すことにした。
「……人に、会ったの」
「人?」
真帆の目が輝く。
「もしかして、男性?」
私は頷いた。
「それ、詳しく聞かせて!」
真帆が身を乗り出す。
私は、あの夜のことを簡単に話した。橘マリの展示のこと。葛城さんが絵本の編集者だったこと。作品について語り合ったこと。
ただし、自分が美大出身であることや、絵本を作っていたことは伏せた。まだ、それを話す勇気はなかった。
「で、彩葉はその人のこと、気になってるんでしょ?」
真帆がニヤリと笑う。