辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする
 沙耶が声をかけると、ヒーコがいそいそと近づいてくる。
「やっと食事をする気になった?」
「はい。ハンバーグプレートをお願いします!」
 沙耶の力のこもった返事を聞いて、隣の席で匠真がふっと口角を上げた。
(あ、ちょっと子どもっぽかったかな)
 沙耶は恥ずかしくなって頬を染めた。
「少々お待ちくださいね」
 ヒーコが席を離れ、しばらくして沙耶のハンバーグプレートが運ばれてきた。ほかほかと湯気の上る料理に自然と心が弾む。
「わぁ、おいしそう。いただきます!」
 沙耶は両手を合わせて、フォークとナイフを手に取った。匠真が食べているのを見て気になっていたハンバーグを、小さく切って口に入れる。
「あ」
 沙耶は左手を口に当てて目を細めた。少し柔らかめのハンバーグと、中濃ソースとケチャップを煮詰めたソースは、どこか懐かしい味がする。
(小さい頃、お母さんが作ってくれたハンバーグに似てる……)
 胸がじぃんとして、沙耶が味わいながら食べていたら、匠真が食事を終えて席を立った。
「すまないが、先に失礼するよ。君はどうぞごゆっくり」
 フライドポテトをかじったばかりだった沙耶は、あわてて口をモグモグ動かした。
「ひゃい」
 口を押さえて「はい」と言ったつもりだったが、うまく発音できなかった。
 頬を赤くする沙耶に、匠真は小さく微笑む。彼はレジにいるノリに代金を払い、赤いドアを開けてカフェを出ていった。
(今日はいろんなことがありすぎた)
 沙耶は閉まったドアを見ながら、オニオンコンソメスープをひと口飲んだ。じっくり煮込まれた玉ねぎの甘みとコクが、じんわりと体に染みわたっていく。
 優しい味わいに、沙耶はホッと息を吐いた。
 ほんの数十分前、ひとりでベンチで泣いていたときには、想像もできなかった展開だ。
(でも、仕事が決まってよかった。実家には頼りにくかったから……)
 沙耶は五十五歳になる父・保志(やすし)のほっそりした顔を思い浮かべた。
 母は沙耶が小学五年生のときに病気で亡くなった。それから沙耶と父はふたりで助け合いながら生きてきたが、沙耶が中学二年生になったとき、父は取引先の人に紹介された女性と再婚した。それが今の母・美咲(みさき)である。彼女は夫を亡くしていて、双子の娘がいた。真緒(まお)理緒(りお)という名前のふたりは、当時小学三年生だった。
 沙耶は新しくできた妹たちと一生懸命仲良くなろうとしたが、ふたりは父親を失ったそれまでの寂しさを埋めるかのように、新しくできた父親にべったりになった。
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