辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

優しい出会い

 その日は九月下旬の金曜日だった。
 無機質なオフィスビルから出て、代田(しろた)沙耶は深く息を吐いた。
 空は青く明るく澄んでいるのに、心は晴れない。
 今度こそ! と思って、中途採用面接のためにこのビルに入ったのは、ほんの十数分前のこと。けれど、面接室に入る前に、人事担当者だという四十歳くらいの男性に言われたのだ。
『せっかく来てくれたのに悪いけど、実はついさっき別の人に決まったんですよ。珍しい資格を持っている人だったから、ほかの応募者との面接を待たずに、社長が即決してしまいましてね。本当に申し訳ない』
 すまなそうに頭を下げられては、どうしようもなく、沙耶はそのままオフィスビルを出てきたのだった。
 大学卒業後、就職した食品メーカーが経営悪化で倒産したのは二カ月前。それから再就職活動を続けているが、特別な経験も資格もない二十七歳の沙耶に、再就職市場はなかなか厳しい。
 駅に向かって力なく歩きながらも、どうにか気持ちを立て直そうとする。
(弱気になっちゃダメ。前に進まなきゃ)
 何度か自分に言い聞かせたものの、面接すらしてもらえなかったショックからは、そう簡単に立ち直れない。
(省吾くんの声が聞きたいな……)
 駅に到着して腕時計を見たら、十二時三十五分だった。
 同じ食品会社で働いていた同い年の恋人の松崎(まつざき)省吾(しょうご)は、一カ月前に事務用品メーカーに再就職が決まった。一週間前に『早く仕事が見つかるといいな』とメッセージをくれた彼が恋しくなって、沙耶はスマートフォンを取り出した。
 本当は電話をかけたいけれど、ぐっと我慢をする。壁際に寄って、ランチタイムのはずの省吾にメッセージを打ち込んだ。
【お仕事お疲れさま。さっき中途採用面接に行ったら、直前に来てた人に決まったって言われちゃった。即決してもらえるなんて、その人すごいよねぇ。私も早く仕事が決まるようにがんばるね】
 少し待ったが、既読にならない。
 沙耶は改札を通ってスマホをバッグに戻し、エスカレーターに乗った。ホームに着いて歩いていたら、バッグの中で小さな電子音がした。
(省吾くん、返事をくれたんだ!)
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