文学女子は、春に溶ける
最終章

桜舞う表紙

雫原は、浅田に原稿完成の連絡を入れ、取りに来てくれる予定を組むと、張り詰めていた気持ちが抜けて、ふいに髪を触った。乱れた髪は、油ぎっており、少し触れただけでフケが落ちる。

(これは汚い……)

 眉をしかめ、片膝ずつ立ちあがる。
 風呂場で髪とともに体も丁寧に洗い、バスタオルで拭うと新しい風に体が纏われたように、あざやかに心地よかった。真新しい自分の素肌を見下ろし、この肌に触れていた言葉の白く細い体を思い出し、腹をそっと撫で下ろした。

 雪も降らない乾いたある日。空気だけは氷の粒を浮かべたように冴えて凍っていた。
 玄関のベルが鳴る。
 濁りが落ちて、感覚が鋭くなったようで、雫原はすぐに音に気づき、読んでいた本を閉じた。

「浅田さんかな」

 用意していた完成原稿を、保管していた箱の中から取り出し、両腕で抱えて玄関へと向かった。
 ゆっくりと引き戸を半開きにすると、見慣れた笑顔が覗いていた。浅田の低く大きな鼻に冬の陽《ひ》があたってかがやいている。
 
「浅田さん。お久しぶりです」
 
 雫原自身で驚くほど、やさしく穏やかな声が出た。
 浅田は息を呑んで驚いた顔をする。

「先生……。なんだか聖人みたいな声と顔ですね。今まで見たこともないです」
「ああ、そうかな。今はとても気分が穏やかなんです。全世界のひとびとにやさしく接することができそうです。原稿に激しい感情は全部ぶつけてしまって、憑き物が落ちたのかもしれません」
 
 引き戸を完全にひらき、雫原と浅田は笑いあった。
 
「よかったです。お元気になられたんですね」
「まあ……、そうなのかな」

 完成原稿を浅田に両手で手渡す。
 浅田は冒頭を少し読んで、良い笑顔を浮かべた。

「うん……、いい」
「ありがとうございます」

 さらに2、3ページ捲って、首を縦に大きく振った。

「黒髪の美女と出逢って、退廃的な関係に流れ込んでゆく、ただれて激しく落ちてゆく描写が、どんどん研ぎ澄まされている。こんなにうつくしい文章、そして、心躍る展開、僕今まで読んだことないです。細かな修正は必要ですが、概《おおむ》ねはこのままで大丈夫でしょう」
 
 目の前で褒めてもらえるのがむず痒く、雫原は組んだ腕をさらに硬くした。浅田はよく褒めてくれるので、いつものことだったのだが、今日は目のかがやきが違う。大きな黒目が、原稿を読んできらきらと、いきいきとしている。
 自分の文章でひとがそんなふうに変わるさまを見るのは、このうえない快感だった。
 
(そうだ……。俺は、こんな瞬間のために、こんなふうにひとに影響を与えるのを生きがいに、これまで書いてきたんだ)

 目が覚める思いだった。

(書くことは、自分のためにもなる。だがそれだけじゃない。誰かに届けるためにある。それが、たたひとりだけでもいい。それでも、そのためにこのゆびと頭はあるんじゃないか)

 浅田が感涙するのと同時に、雫原は組んでいた腕をほどいた。
 午後に向かう陽光が、今新たに目覚めたばかりのように、彼らを祝福して、澄んだ白に縁取っていた。

 
 冬のつめたさには慣れない。冬の終わりが近づく2月になっても。冷えた空気や粉雪、風にふれると、途端に暖《だん》を求めたくなる。人工的なものではなく、もっと、流れる血までも温めるような、そう、人肌を。あのひとの__。
 組んでいた腕から顔をあげる。講義終わりのチャイムが教室中に響いていた。
 講義中にうつになってしまい、眠っていれば治るかと顔を伏せていたのだが、ねむりの気配は訪れず、ただまぶたの裏のくらやみを追うばかりで時間を潰した。
 詩子に声をかけられても、うわべだけの返事ばかりかえしてしまう。その度心配されたが、今は詩子でさえも遠ざけたかった。自分のくらやみに、ひとを巻き込みたくなかった。そのうち詩子のほうも察してくれたのか、「体調が快復したら、また声かけてね」と言ってくれ、ひとりにしてくれることが多くなった。
 大学で本心を打ち明けられる者は、そばにいなくなった。詩子に雫原のことを相談すればよかったのだろうかと悩んだこともある。だが、できなかった。もともと考え事があれば内側にこもって、ひとりでそれを抱えながら、くらやみが明けるのを待つばかりの性質だ。鬱々とした気持ちは、冬のつめたさでさらに重く湿ってゆく。
 授業を休んで公園でぼうっとすることもあった。勉強がすきで、新しいことを知るのがすきだったはずなのに、それにも身が入らない。教壇に立つひとの声が、ざわざわとした雑音にしか聞こえなかった。

(落ちてゆく……。どんどん、どんどん)

 公園のベンチに座りながら夜を待つ。夕闇が朱と藍色をつれて、氷の空気をはらみ、頬をやわらかく撫でている。

「行くか……」

 腰をあげると、自分のからだが驚くほど軽いことが実感できる。後を引くけだるさが何もないのだ。このまま冬の空気にとけて消えてしまうのではないか。
 公園を出て、そのまま住宅街を進み、道路に面した歩道をあるく。スカートとハイソックスの間にふれる空気がつめたくて、細かく差すような鈍い痛みがあった。きっと帰ったら赤くなっているだろう。早く風呂に入って、体をあたためたい。気持ちに突き動かされ、脚は早く動く。
 真横を流れる景色のかたわらに、ぼうっとひかるものが見えた。
 振り返る。
 ちいさな本屋があった。個人経営の店だろうか。窓硝子や壁は褪せて、少し茶がかっている。
 落ちてゆく陽に撫でられて、壁や屋根に茜が透明にいろどられている。
 深い青の屋根瓦が印象的だった。これも雨や雪で経年劣化していて、ところどころ剥げていた。
 立ち止まり、店からこぼれる淡い橙のひかりをしずかにみつめる。クリスマスにかがやく色々な店を見ても、興味を持たなかったのに、何故か今日はひどく、この書店に惹かれた。
 まだ恋仲になる手前だったとき、雫原と共に入った古書店を想起し、いつの間にか店に入っていた。
 初老の男性店主が気の良い態度で挨拶してくれ、安心して店の中を見ることができた。  
 コーナーを物色していると、官能小説のコーナーが奥の方にあったので、そっと体を寄せるように足を運ぶ。
 それほど数は多くなく、厳選して並べているようだった。見知った作家の名前がいくつかある。

(このお店の店主さんも、官能小説をたしなむのかしら)

 しずかな疑問を抱くが、発光するように存在感を放っている名前をみつけ、意識がそれだけに集中する。
それは、雫原の新刊だった。雫原と別れてから、HPや雑誌で彼の動向を追うことも辛くなり、しなくなった。だから、雫原の新刊が出るという情報を得なかったのだ。
 
(ついこの間、新刊が出たばかりなのに……)

 刊行ペースの早さに驚く。それほどに、今彼の筆が早くなっているということなのだろうか。
 出版業界の人間ではないので、事情はわからないが、それでも新たな物語を雫原が紡いでいたという事実が目の前にある。

(私がうじうじ悩んで落ち込んでいた間も、先生はしっかり書いていたんだ)

 新刊のカバーは、淡紫に白い桜の花弁が数枚散っている、和風でシンプルなものだった。多くを描いていないので、カバーから内容は推測できなかった。中を読まなければあらすじさえわからない。
 言葉は一冊手にとって、胸の前に両手で持ち上げる。
 質感はマットでつやがなく、金でタイトルと名前が箔押しされている。
 雫原の小説は、他の作家の官能小説よりも、淫らな絵のついたものが少なく、シンプルなものが多かった。最近は絵のついたものも複数出してはいたが、言葉は絵のない本のほうが、中身もすきだった。
 この本は、言葉のすきな本のにおいがする。直感でそう思った。

(この本を買って読んでしまえば、また雫原先生のことを思い出してしまう。買ってしまっていいの? いいえ、持っているのが辛かったり、内容が気に入らなければ、捨ててしまってもいいんだわ。大事なのは、今自分がどうしたいかよ)

 曇りを振り払うように顔を振ると、黒髪が背中や首の周りでさらさらと揺れる。くらやみに沈んでばかりであった今までの気持ちも、取っ払うように決意を固めた。
 手に取った一冊を店主の座るレジへと持っていく。丁寧にブックカバーをかけてもらい、ショルダーバッグにしまって店を去る。
 バッグの紐を両手で握りしめ、風を切りながら走ると、冷たい空気は風に変わり、身を切るようだった。
 自分がしたことがよかったのかさえわからない。それでも今は、ただただ雫原の本が読みたかった。
 帰宅すると、窓の外は紺色に染まり、月あかりが煌々とさしていた。
 久しぶりに走ったせいか、まだ息が荒かったので、胸元に手を置いて鎮める。呼吸が整ってくると、ショルダーバッグから本を取り出した。
 バッグは床に置き、ベッドにそっと腰を下ろす。
 手に持った本がほんのりと熱を帯びているような気がした。実際は駆けた言葉の体が火照っているからなのだろうが、その熱が本に移っているように感じる。それほどに、この本は言葉にとって特別だった。
 表紙をひらき、見返しを捲るゆびさきはいつの間にか震えていた。
 こめかみにも、汗が滲む。
 目は見開き、まつげの先も震えているのがわかった。
 
(私……、緊張しているの?)

 自分で自分のことがよくわからない。走っているときは闇雲だったからか。これほどまでの緊張に気づかなかった。
 今はぴんと張り詰めた糸が心のなかにあり、それに琴の弦を一音一音、そっとつまびくような緊張感がある。
 少しでもゆびさきが間違えて他の音を弾けば、それだけで自分の中がガラガラと崩れ落ちてしまいそうだ。
 1ページ目をゆっくりと捲り、本を読み始めた。そして、自分でも驚くことが起きた。
 目が文章を追うことが、ゆびがページを捲ることが、止められなかった。それほどまでに、雫原の新刊小説は面白かった。
 彼の既刊も心に吸い付くような文章だったが、より読みやすく、研ぎ澄まされている。
 そして内容も、目の前に情景がさらに生々しく立ち現れるようだ。登場人物たちの息遣いや、肌の呼吸までも伝わってくる。言葉は本にふれたゆびさきやてのひらが、まるで生き物を抱えているようにほのかにあたたかくなってゆくのを感じていた。
 そしてあることに気づき、目を瞠って硬直した。

 
(これ……、私の話だわ)

 ゆびさきに力がわずかにこもる。
 雫原の新作は、このような内容だった。
 主人公は小説家で、阿笠青磁《あがさせいじ》という。
 歴史小説を主に書いている人気男性作家。27歳。常に着物をまとい、鎌倉に住み、孤独を感じつつもひとりで小説を書いて世に出すことに使命感と生きがいを感じている。
ヒロインは、宮川琴葉《みやかわことは》という。さらりとした腰まである黒髪に、雪のように白い肌。白雪姫が髪を伸ばして現代に降り立ったら、こんな感じといった描写がされている。文学部の大学3年生で、現在21歳。
 孤独な魂がつがいをみつけたように、ふたりは秋に恋に落ち、冬に互いの生活を思って別れる。だが__。
 言葉と雫原の出逢いから、恋愛関係に発展するところ、そして退廃的なセックスを繰り返し、別れるところまで、リアルに描写されていた。セックスシーンは、この身に触れた雫原の肌の温度や、湿った吐息まで今この場で再現されているかのようだった。

(雫原先生……)

 思わず言葉は、本から片手を離して鎖骨をそっと触る。小説の中で青磁が琴葉にくちづけた箇所を、自分もくちづけられたことがあるのを、思いだし、喉が切なく乾いた。
 想いを振り切り、読み進めてゆく。今までの言葉の読む速度よりも、さらに早く、そして集中していた。
 眉を寄せると、真剣な気持ちが表へとにじみ出てきて、背筋をしゃんと伸ばした。先を揃えた長い黒髪が、かすかに背でゆれる。
 
__その後、別れた青磁と琴葉はふたたび再会する。それは、青磁の新刊のサイン会でだった。そこでふたりは抱き合い、お互いの非を詫びて、くちづけを交わし、その夜にふたたび熱く結ばれるのだ。

 青磁は、琴葉に言う。
 「きみと出逢い、きみと別れ、気付けたものがある。きみだけが、私の最愛だったのだと」__ 

 言葉は最後のページを読み終えると、うつむいて、そっと本を閉じた。
 本をふとももの上に置く。桜舞う表紙に、なみだの透明なしずくがほとり、ほとりと落ちて丸さを保つ。
 これは、雫原の願いが体現された小説だった。
 言葉とふたたび出逢い、結ばれることを、彼は望んでいるのだ。
 想いは小説という、彼が最も得意とする形で言葉の元へと届いた。
 
(他の読者さんが読めば、とてもおもしろくて、官能をそそられる小説。そして、私が読めば、これは、私しか気付けない、彼からの手紙だ)

 丸い頬にはらはらとなみだが流れ落ちる。止めることはできなかった。
 青磁の最後の台詞は、雫原の声で再生され、彼からのメッセージのようにこの身に響いていた。
 なみだで視界はかすみ、夜が深まっても、言葉は本を太ももの上に置いたまま、その場から動くことが出来なかった。

 
 翌週の月曜日、雫原の小説をバッグの中に入れ、元気に学校へと登校した。
 ひさびさに晴れやかな気持ちだった。青にうすく白い雲がかかった空や、澄んだつめたい2月の空気、学内の枯れた木々や、凍って霜の降りた土ですらも、かがやいて見える。みんな、春に命を放つの待っている。そのための冬だったのだ。
 
「あれ? 言葉?」

 詩子が、学生ホールから出てきたところだった。橙のジャンパーをミントグリーンのセーターの上に着て、Gパンの上を覆うような、縁がボアで出来た、濃いブラウンのロングブーツを履いている。
 言葉をみつけ、こちらに駆け寄ってくる。おろしたウェーブがかったボブが、肩先でゆれている。
 
「詩子。おひさしぶり」

 言葉はかるく口角をあげて、悠然とした態度だった。

「ひさしぶりって、こないだ会ったばっかじゃん」
「ええ、でも、なんだかひさしぶりに詩子と会えたような気がするの」

 詩子は腕を組み、片脚を前へ長く伸ばすと、言葉を下から上へしみじみみつめた。
 
「確かに、なんかあんた憑き物が落ちたような感じになってる。ほっぺもあかるくなったし。透明な膜が増したっていうか。綺麗になった」

 言葉はあかるい笑みを浮かべた。
 詩子は驚いた顔をして、言葉へさらに近づくと、黒髪をひとふさゆびでつまみ、愛おしげにゆびの腹でひと撫でした。

「よかったじゃん。前はもっと内へこもっちゃって、このまま穴倉から出てこないんじゃないかって不安だったもん。なんか、良いことあったんだね」
「やりたいこと、会いたいひとができたのよ」

 肩からさげた鞄を、そっと撫でた。中に入れた本が、生き物のように確かな重さと存在感を放っている。
 もう、彼への想いに迷いはなかった。ただ目の前に、今までなかった白い道が見えていた。
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