文学女子は、春に溶ける

3月31日

雫原と会うと決めたものの、どうやってふたたび彼と巡り会おうか、そればかり考えていた。

(いきなり家に訪ねてゆくのはなぁ……。一度別れてしまっているのに、迷惑だわ。連絡をふたたび取ろうにも、私のほうから雫原先生の連絡先を消してしまったし)

 言葉は学習机に片ひじをつき、片頬をてのひらで支えると、はあ、とひとつため息をついた。

「やっぱり、連絡先を消すのはやり過ぎだったかな」

 憂う眉は寄り、また暗い方へと考えそうになるのを、首を振って修正する。もう暗く穴倉へ引きこもるのはやめにしたのだ。
 これからは、目の前に続く白い道を追うことにしたのだ。雑草も木も花も、これから生やす。どんな色にも染められる。
 なんとなくスマートフォンをいじってみる。今は、この人工的なひかりに逃げるのが楽だった。検索するか迷ったが、勢いで「雫原蔵之介」の名前を指で打つ。
 白い画面に、黒くはっきりとした文字で表示された男の名前が、目の前に迫るようだった。 
 しばし名前の威力に圧倒され、背を固くする。表示された名前の下に、公式ホームページがあったので、そこにゆびを伸ばし押してみた。
 
「サイン会……?」

 雫原の新刊「浅い桜の海で、言葉を無くし」のサイン会がひらかれるという情報が掲載されていた。
 先日、言葉が読んだ小説だった。
 日時は来月の3月31日。3月の終わり。冬が終わって、ようやく春めく季節だ。
 桜も満開だろう。寒い冬を生き延びた者たちが、祝福の淡紅の中を歩くとき。
 言葉はまぶたをきつく閉じ、ふたたび見開く。決意は固まった。
 うすく開けた窓から、昼の風が吹く。窓の外は薄青が広がり、澄んだ空気がどこまでも続いている。
 細かな氷のつぶが混じったようなつめたい風が、言葉の白い頬を通り過ぎ、そのまま黒髪を撫でてまっすぐになびかせてゆく。
 言葉は黒い瞳を眇め、この先に続く冬の終わりを思いながら、風の来た方角をみつめていた。
 
 
 大型書店、入国屋《いりくにや》の9階、イベントスペースは、雫原蔵之介のサイン会に来たひとびとの列が階段の下にまで続いていた。そのため、ひといきれで温かさが増している。3月31日。春になり、外は桜があふれていて、温かくなってきたというのに、日によって未だに冬の名残の肌寒さを感じることはある。ひとの温度というのは不思議なもので、血が通ったひとびとがひとつところに集まると、そこに湿った生暖かさが混じり、暖を感じることができる。
 雫原は衝立の奥、控室で読者の息遣いを感じながら、落ち着かない気持ちで過ごしていた。
 まぶたをきつく閉じ、用意されたパイプ椅子の上で脚を少し広げ、上体をかがめて指を膝の上で組んでいた。
 端からみたらイライラしているようにも見える態度だった。 
 普段ひととあまり触れ合わない雫原にとって、サイン会は異空間に来たような感覚になる。それでも、自分の著書を読んでくれた読者と会えるのは、かけがえのないうれしさがある。なのに、今日はうれしさだけではない、複雑な感情がこの身を巡っていた。
 かたわらに立ち、準備をする浅田が心配そうに見下ろしている気配を感じる。

「先生、大丈夫ですか? お具合が悪いのであれば少し休んでから始めることもできますので」
「女は来ていませんか」
「え?」
「いや、なんでもない。気にしないでください」
「女性読者ですか……」

 浅田は衝立の向こうへと歩いてゆき、しばらくして戻ってきた。
 雫原は軽く顔をあげる。

「来ていませんね。やっぱり男性読者ばかりですね。男性向け作品ですからねぇ」
「そうですか……。そうですよね……」

 ふたたび顔を落とし、さらに深くうつむく。組んだ指はたよりなげに力を失い、ただ合わさっているだけになった。

「そんな気を落とさないでください。新刊は売れたんですから。かつてない売れ行きですよ。雫原作品の中でも。僕は『浅い桜の海で、言葉を無くし』は、雫原蔵之介の代表作になると思っています。編集部でも最近はこの本の話で持ちきりです。大成功ですよ。まだ発行したばかりでこれほどなのだから、これからどんどん版を伸ばすでしょう。これほどの売れ行きなのに、女性読者がひとりも来ていないのを憂うのは少しわかります。でも、先生の市場は男性向けですから、届くべきひとに届いているのだから、不安がる必要はないですよ」

 前方を見ながらあかるく話す浅田を、肩のはざまから見上げる。
 目の下に鈍い痛みを感じていた。


(届くべきひと……)

 
 言葉の白い顔が、脳裏をよぎった。そのまま振り払わなければいけないのに、しばらく彼女のおもかげは消えてくれなかった。淡い白が、凛とした鼻のさきから額へと流れ、眉で揃えた黒髪までも発光して覆うようだった。
 去年の秋にサイン会を行い、初めて逢った言葉の姿が、あざやかに思い出せた。
 右に流れる黒髪が、照明のひかりに染まり、ひらひらと白い光沢を浮かべて、端から夜のいろに溶けて。雪のように白い肌が、纏った黒いチェスターコートから覗き、よりいっそうしんとした白さ際立ち__。
 枯れた男たちばかりの群れの中で、花が一輪咲いていた。それも紅ではなく、凛りんとした黒き花。 焦点の定かではない夜の黒いひとみ。ふちも黒。瞳孔もくろく、青みがかっている。かすかなひかりも浮かんではいなかったが、雫原と視線がかち合うと、泉の上に、ひとひらの花弁が落ちたような__。
 
(そうだ。この場面を、俺は小説の中で書いた。琴葉の容姿を、俺は言葉の第一印象で描いたのだ)

 今更ながら気付かされ、皮肉な気持ちに、口角があがる。


(当たり前だ。来るわけ無いじゃないか)

 馬鹿な己に対してせせら笑いたい。
 たとえ読んでいたとしても、一度別れた男の前に顔を出すはずがない。何を期待していたのだろうか。

(俺は、本当に気持ちが悪い男だな)

 片手で顔をおさえ、くらやみの中に顔を隠した。
 もうやめよう。こんなことは、恋に期待して、恋に傷つけられることは、今日を境に、言葉のことを思い出すのはやめる。さっぱりと忘れて、二度と誰も愛することはないだろう。恋愛は、創作の中だけで、自分が体験することはない。もう、二度と。
 割り切った冷静な感情で、暗く切ない想いに蓋をする。
 片手を離し、上体を起こし、前髪を振り払うと、世界は冷めて薄青の膜が張ったように見えた。
 
 サイン会は開始された。さきほどまで停滞していた長蛇の列が、少しずつ前へ、前へと動き始める。
 読者から渡された本に自分のサインを、そして、待っている間に書いてもらったちいさな紙に書かれた読者の名前を、そのまま隣に記入する。
 すらすらと淀みなく、銀のサインペンで書いた字も、読者との軽い会話も、進んでゆく。言葉が来ているかいないかに関係なく、今この場に来てくれた読者は大切なひとびとだった。ひとりひとりとの時間を大切にしてゆくと、次第に脳裏の言葉のおもかげは白い輪郭を描いて消えていった。
 雫原の顔にも笑顔が浮かび、気持ちもあかるくなってくる。
 列が後少しになり、残り2、3人を残して終わろうとしていた。
 ひとり、ふたり、さんにん。
 最後の初老の男性にサインをし終え、そのひとと別れの挨拶をして去るのを待つと、肩の力がどっと抜けた。
 パイプ椅子の背もたれに、大きく背を反らし、まぶたを閉じて天を仰ぐ。眉間に鈍い痛みを感じ、眼鏡を外すと、右手のゆびさきで揉んだ。
 口から細い息を吐いて、気持ちを整える。
 浅田がスタッフと共に片付けの準備をしようとする中、その背中にもう一度「女はいたか」と尋ねようとしてやめた。すでにわかったことを聞いて、再度心を乱してなんになるというのだ。
 
「お疲れ様でした。サポートしてくださってありがとうございました」
「いえいえ、先生もお疲れだと思うので、お茶を飲んでゆっくりなさってください」

 当たり障りの無い会話を選び、この場をとどこおりなく締めようとする。
 設営の後片付けは、毎回スタッフがおこなってくれることが決まっていたので、手伝いたい気持ちもありながら、邪魔になってしまっては申し訳なかった。ひとりで暮らしている分には大丈夫なのだが、雫原は、誰かと協力して物を片付けたりすることが苦手だった。周囲の動きを把握しながら、その中で動くのが不得意だという自覚がある。

(学生時代の文化祭も、役立たずで物をよく壊していたからなぁ……)
 
 淡い思い出に触れながら、帰る準備しようと膝を右手の甲で払って立ち上がる。紺の紬が深い影を持ってかすかに波打った。
 
「先生」

 つめたい空気を裂くような温かな春風が、耳元で撫でるような声が聴こえた。
 透明な中に、芯の通ったアルトだった。
 時が止まる。
 雫原は、この声を知っていた。
 目の前に、言葉が立っていた。 
 あかりを逆光にし、輪郭を白く染めて、こめかみや鼻筋に汗の粒を浮かせている。眉の下あたりで揃えた前髪は、額に幾筋か張り付いていた。息は荒く、走ってきて、急にこの場で止まったことがわかった。
 纏っている衣服は、淡紅色で、春の桜がそこで花を咲かせて沈んだようなフリルネックのチュールワンピースだった。鎖骨で結われた大きなリボンが揺れ、淡い布が重なり、体の輪郭だけが、春霞に溶けたように淡かった。
 黒水晶の瞳は大きく見開き、自分でも何をしているのかわからないという戸惑いと、雫原をみとめて感情が動く水面の揺れがあった。
 振り仰いだそのひとは、雫原が別れた以前よりも、うつくしくなっていた。
 長い黒髪には青い艶が乗り、肌は細やかで透明感が一層増している。まつげはけぶり、花が咲いたように大きな瞳を覆って守っている。眉は薄墨で、平均より太いが、直線的で主張しすぎず顔のバランスを保っていた。
 
「言葉……」
「新刊読みました」

 驚く雫原に、言葉は表情を崩してやわらかく微笑んだ。そして、少し眉を歪めてなみだをひとしずく、その白くなめらかな頬にこぼした。
 そして雫原は思い出した。
 今まさにこの場面は、新刊小説の最後の場面の再現であると。
 
 __その後、別れた青磁と琴葉はふたたび再会する。それは、青磁の新刊のサイン会でだった。そこでふたりは抱き合い、お互いの非を詫びて、くちづけを交わし、その夜にふたたび熱く結ばれるのだ。
 青磁は、琴葉に言う。
 「きみと出逢い、きみと別れ、気付けたものがある。きみだけが、私の最愛だったのだと」__ 

 青磁と琴葉のように、今まさにふたりはサイン会で再会した。あの場面に込めた想いは、届くべきひとに届いたのだった。
 雫原は、くちびるを引き結ぶ。気を抜くと泣いてしまいそうだった。胸の内側から熱い泉が湧くように、言葉への想いがあふれだす。とめどなく、目の前の彼女へと流れていった。
 自分の血は、忘れようとしても、すでに言葉のいろで染まっていた。

「先生が書いていたとおり、また会いに来ました。別れてからもずっと、ずっと先生のことが忘れられなくて、ずっと、ずっと会いたくて……」

 長い下まつげを伝って降りるなみだは発光し、ワンピースの淡紅をうつして春のいろに染まってベージュの床に落ちてゆく。
 どこかやわらかで、どこか凄絶な言葉の笑みは、白く浮き上がってこちらへ迫るようだった。
 雫原は自然にからだが動いていた。勢いよく立ち上がると、パイプ椅子が背後でガシャンと倒れる音がした。

「私も会いたかった」

 浅田を含め、周囲のひとびとが驚いた顔でふたりを見ているが、今は腕の中のぬくもりにしか興味がなかった。
 閉じられた空間で、どこかから流れ込んできた春風が、やわらかな桜のにおいを連れてふたりを包んでいた。
 冬が終わり、春がようやくふたりにも訪れた。
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