文学女子は、春に溶ける
文学女子は、春に溶ける
夕日の色がこんなに優しく肌に触れたのは初めてではないだろうか。
うす紅と紫を混ぜた茜は、金赤色にかがやき、江ノ電の車内に立つ雫原と言葉の、頬や鼻筋を染めている。
腰塚駅を通過すると、七里ヶ浜が見えてきた。夕日に染まる茜の海はどこまでも続き、広大だが穏やかで、金を幾重もその波に重ねながら風と共にアイボリーの砂浜へとしずかに泳いでくる。
大きな眸にその圧倒的な茜を映しながら、言葉はまばたきもせずに雫原の隣に佇んでいた。
ふいに自分の名前を呼ぶささやき声が聴こえた。
はっと振り返ると、雫原がくちもとだけをやわらかく笑ませて、こちらをみつめている。
電車が走ったことで、その顔が逆光になり、輪郭だけが朱にいろどられ、薄墨の影の中にやさしさは隠れてしまう。
言葉は薄く口をひらいたまま雫原をみつめかえしていたが、やがて笑みを浮かべて海のほうへと顔を戻した。
(このひとをすきになって、本当によかったわ)
しっとりとそう思った。ひとをすきになることで、不安定になってしまっていた前の自分とは考えられないくらい、落ち着いた穏やかな想いだった。
目の前の海がさわさわと揺れた。
うっすらと瞳全体にあたたかな水膜が張り、まなじりになみだがふれる。
ふと、左のてのひらがあたたかく包まれる。
見ずともわかった。
雫原に手をつながれたのだ。
そのあたたかさは皮膚を通り越し、血潮となって言葉の全身をあたためた。
鎌倉駅に着き、江ノ電を降りる。手をつないだまま、ことばを交わさず、ただしずかに歩き続けた。向かう先は、雫原の家だった。
雫原は言葉よりも脚が長い、そのため、歩くと自然に彼のほうが早くなるが、速度を彼女に合わせてくれていた。
ふわりと風に乗るように、白にうす紅を混ぜたような空が広がった。一瞬空の色が変わったのかと思ったが、満開の桜が左右にまっすぐ咲き誇っていた。
段葛に来ていたことに気づく。鶴ケ丘八幡宮の参道である若宮大路にあり、二の鳥居から三の鳥居までの、車道より一段高くなっている歩道。
枝と枝を重ねて、そこに霞のように桜の花は、うすくうすく重なっている。
目にふれるように迫るうす紅に、目を奪われ、あゆみを止めそうになっていることに気付いたのは、雫原に少し強く手を引かれたからだった。
さわさわとかすかに湿った風に揺れ、花弁は一枚、二枚とこちらへ降りてくる。
その一枚に時を止める力があるというほどに、何かを放っているが、やがて地に落ち静まってゆく。
扇のように背に広がり、段葛の中空に広がる言葉の黒髪にかざりのように花はふれてゆく。髪はひかりの層を増したように、細い毛先から春に溶けていった。
追っていた一枚が目の前を通り過ぎ、地に落ちたとき、桜から意識は目の前を先導して歩いてくれていた雫原の背に移った。
うす紅の紗幕が一瞬目の前に鈍くかがやき、紺地の着物にそれが溶けて広がる。大きな背中。この背中の肌を、自分の体は知っていた。
ふいに、この広いが少し曲がった背中を抱きしめたくなった。
このひとは、この背中を曲げながら、これまで部屋で孤独に小説を書くことと向き合ってきたんだ。窓からこぼれる月夜や風、鎌倉のあらゆる季節。色々なことに背中を向けながら。
(そして私は、この背中に腕を伸ばし続けた。抱かれているとき、熱い肌を知りながら、このひとの肩甲骨をさわるのがすきだったな……)
言葉の首筋に顔を埋め、鼻先を動かすたびに肩甲骨は出っ歯たり引っ込んだりして動いていた。
言葉はその皮膚に隠された骨を追うように、頑張ってゆびを添わせて__。
熱に浮かされ、ぼんやりとしているうちに、雫原の家に辿り着いた。
石造りの門を過ぎ、玄関へとつながる庭を抜ける。
「きれい……」
見上げれば、薄青い空を透かすような桜ばかりが咲いていた。
花弁は白いひかりとなり、さわさわとしずくをこぼすように頭上でゆれている。
その隙間からこちらへと手を伸ばすように薄青がちらちらと顔をのぞかせているのだ。
ひとひら、白いしずくが鼻先へ落ち、絹のような質感を残して消えてゆく。
「言葉さん、行きますよ」
「あっ……」
ふれるように繋がれていただけだった雫原の手が、強い圧力となり、前へ引っ張ってくる。
紺の袖まで下がり、布が触れて気がつく。
前を向き、玄関へあがると、言葉はそのまま降りていた雫原の袖をそっと摑んだ。
自分でも驚いたのは、ゆびさきがかすかに震えていたことだ。
鍵を開け、戸に手をかけた雫原が、動きを止めて振り返る気配がした。
言葉はうつむき、重心を摑んだ手に込めるようだった。
「先生、すきです」
黒髪の紗幕の間から、吐息に混じらせような、かすれた声を出した。
雫原は動きを止めると、上体をゆっくりと動かしてこちらを見やった。
言葉は顔をあげた。頬を熱いものが伝う。無意識のうちになみだがあふれていた。
すると、濡れた頬にしずかなそよ風が触れ、は、と気づくとなみだよりも熱いものに拭われている。
震える瞳をあげると、そこには、さきほどよりも顔を寄せた雫原の笑みが咲いていた。
「__そして青磁は、琴葉のなみだをそっと右手の親指で拭った。」
「それは……」
ふっと雫原が鼻から息を抜く。
表情のやわらかみが増していた。
雫原の、小説の一文だった。
覚えている。手に取るように、文章が目の前にくっきりと浮かび上がる。新刊のすきなシーンで紡がれていた描写だ。
「……ふふ、粋なことをなさるのだから」
残りのなみだを自らのゆびで拭い、髪を振り払うと、首を伸ばして笑顔を向けた。
自分でも驚くほど、しなやかに筋肉が動いた笑顔だった。春のちょうどよいつめたい空気が、凛と頬に触れる。
これほど空気が爽やかだと感じることが出来たのはいつ以来だろうか。
雫原が、そばにいるからだろうか。
しみじみ逡巡しているあいだに、薄墨の影が落ちてきて、やわらかいあたたかさでくちびるは包まれていた。
背に回された手は、淡雪のようにやさしく、溶け合うような距離感だった。
また一陣の風が吹き、斜めにさらうように桜を乗せて抱き合うふたりの輪郭を撫でてゆく。
久しぶりに訪れた雫原の部屋は、以前よりも澄んだ空気に染まっていた。だが、なつかしいにおいはそのままで、あっという間に官能の深みまで辿り着くことができた。
言葉は、自分の背中に羽が生えたではないかと思った。彼が自分の肩甲骨にその節くれだったゆびを回すたびに、熱く火がついたように何かやわらかいものが吹き出るような感覚がする。
「あァッ……!」
背を反らせると、被った掛け布団がめくれ、生身の身体が彼の上であらわになる。
村雨が降ったように細かな汗が浮かびあがり、のけぞった背を流れてゆく感覚さえも鋭敏になり、より感度をやわらかく増していった。
「言葉さんっ……。言葉さんっ……!」
雫原の尖った鼻の先が、胸に埋まり、くちびるは胸の中央に当たる。彼の吐息も荒くなっており、行為に熱中している事が伝わった。
背に回された腕は強く、汗ごと細い言葉の腰を抱き寄せる。
動かされると、雫原のものを包む言葉の腹は収縮し、さらに強い快楽が身体を突き抜ける。
「あぁっ……あっ……!」
言葉は眸を大きく見開いて快感に耐えようとした。しかし、力を入れると、腰に無駄に力が入ってしまい、深く雫原へと沈むことになる。
「言葉……」
雫原は真剣な顔で言葉から顔を離すと、沈んだ眸で彼女をみつめた。
口を開けたまま、犬のように荒く息を吐く言葉は、彼を見下ろす。泉のように濡れた互いの眸がかち合った。
雫原の眸はどこまでも深く暗い、青を重ねた黒をしている。夜の泉に落ちたような色だった。汗に濡れ、張り付いたウェーブがかった前髪が、つやを帯びて障子を通して鈍いひかりをよこす春に、朧な輪郭を映している。
それをみつめていると、繋がっている箇所がさらに温かく濡れ、つながりが深くなる。
言葉は処女のように、それを気恥ずかしく思って頬を桜色に染めた。
片手でそれを隠そうとし、目をそらそうと努めるが、雫原の手がそっと伸びてそれを制した。
「あっ……」
寄せた手の甲に、なにかの誓いのように雫原がくちづけを落とした。薬指だった。
「先生……」
「左手の薬指には……」
雫原の眸がひかった。
「心臓に直接つながる愛の静脈があると、古代ギリシャの言い伝えがあります」
言葉は一拍置いて、さらに頬を赤く染めた。首をのけぞらせ、額からこぼれる汗を眉で受け止める。
首を汗が伝い、鎖骨を流れて胸の谷間を落ちる。
一度離れた身体を、言葉のほうから雫原のほうへ近寄り、自分と同じように濡れた背中を抱きしめる。すでに自分から膣を引き締めて、彼を離さないように自然に股間に力を込めていた。
中で熱くからみあい、こすれ、互いが互いを高みへと昇らせる。
言葉は、ことばにならないくぐもりで喉を鳴らしていた。
その喉に顔を添わせて、いとおしげに雫原は包み込むように言葉を抱きしめた。
春だというのに、ふたりのあいだだけ夏が流れているようで、でも確かにそこは季節の最初のあたたかみが訪れた春だったのだ。
言葉は春に溶けて、砂浜を撫でる海のように広がっていった。
事が終わり、ふたりは共に掛け布団を腰まで被り、だるく身体を投げ出して、互いの身体を撫でながら、情事の後の気だるいあまさの中をたのしんでいた。
汗はまだ浮き、乾ききっていない肌は湿っている。それすらも官能の後を残していた。
「先生……私、決めたことがあるんです」
「なにを決めたと言うんだ」
言葉の白い腕を撫でていた雫原は、かすかに驚いた顔で彼女を見やった。
言葉は春の風のようなやわらかな笑みを浮かべた。
「私、先生のような官能小説を書く作家さんを支えるために、編集者を目指そうと思うの。男性目線だけじゃない、官能小説を好んでたくさん読んできた私だから、伝えられる改善点や作ることを目指せる作品ができると思うの。やってみたいのよ」
紫がかった言葉の眸には力が宿り、磨いた黒曜石のようにきらきらとかがやいていた。確信した夢をすきなひとに語ると、こんなにも生命力が身体から湧き上がることを初めて知った。
最初こそ驚いていたが、雫原は次第にくちびるを閉じて、まぶたを伏せて微笑んだ。そして言葉の腕を撫でていた手を、そっと彼女の頭へと動かし、ゆらゆらと魚の尾が流れるように撫でてくれる。
「声のトーンが少しクリアになっている……。あなたの決意は固いのですね」
「はい……!」
「私も……」
乱れた言葉の後ろ髪にゆびを入れ、整えるように耳に添わせて流しながら、雫原は切れ長の目元をやわらげる。
「私のことも、いつか担当してください」
「先生……」
どちらともつかず身を寄せ合うと、くちづけを交わした。さらりとしていて粘つかないが、後を引くようなあまいその味は言葉にとってしばらく忘れられないものとなった。
(完)
うす紅と紫を混ぜた茜は、金赤色にかがやき、江ノ電の車内に立つ雫原と言葉の、頬や鼻筋を染めている。
腰塚駅を通過すると、七里ヶ浜が見えてきた。夕日に染まる茜の海はどこまでも続き、広大だが穏やかで、金を幾重もその波に重ねながら風と共にアイボリーの砂浜へとしずかに泳いでくる。
大きな眸にその圧倒的な茜を映しながら、言葉はまばたきもせずに雫原の隣に佇んでいた。
ふいに自分の名前を呼ぶささやき声が聴こえた。
はっと振り返ると、雫原がくちもとだけをやわらかく笑ませて、こちらをみつめている。
電車が走ったことで、その顔が逆光になり、輪郭だけが朱にいろどられ、薄墨の影の中にやさしさは隠れてしまう。
言葉は薄く口をひらいたまま雫原をみつめかえしていたが、やがて笑みを浮かべて海のほうへと顔を戻した。
(このひとをすきになって、本当によかったわ)
しっとりとそう思った。ひとをすきになることで、不安定になってしまっていた前の自分とは考えられないくらい、落ち着いた穏やかな想いだった。
目の前の海がさわさわと揺れた。
うっすらと瞳全体にあたたかな水膜が張り、まなじりになみだがふれる。
ふと、左のてのひらがあたたかく包まれる。
見ずともわかった。
雫原に手をつながれたのだ。
そのあたたかさは皮膚を通り越し、血潮となって言葉の全身をあたためた。
鎌倉駅に着き、江ノ電を降りる。手をつないだまま、ことばを交わさず、ただしずかに歩き続けた。向かう先は、雫原の家だった。
雫原は言葉よりも脚が長い、そのため、歩くと自然に彼のほうが早くなるが、速度を彼女に合わせてくれていた。
ふわりと風に乗るように、白にうす紅を混ぜたような空が広がった。一瞬空の色が変わったのかと思ったが、満開の桜が左右にまっすぐ咲き誇っていた。
段葛に来ていたことに気づく。鶴ケ丘八幡宮の参道である若宮大路にあり、二の鳥居から三の鳥居までの、車道より一段高くなっている歩道。
枝と枝を重ねて、そこに霞のように桜の花は、うすくうすく重なっている。
目にふれるように迫るうす紅に、目を奪われ、あゆみを止めそうになっていることに気付いたのは、雫原に少し強く手を引かれたからだった。
さわさわとかすかに湿った風に揺れ、花弁は一枚、二枚とこちらへ降りてくる。
その一枚に時を止める力があるというほどに、何かを放っているが、やがて地に落ち静まってゆく。
扇のように背に広がり、段葛の中空に広がる言葉の黒髪にかざりのように花はふれてゆく。髪はひかりの層を増したように、細い毛先から春に溶けていった。
追っていた一枚が目の前を通り過ぎ、地に落ちたとき、桜から意識は目の前を先導して歩いてくれていた雫原の背に移った。
うす紅の紗幕が一瞬目の前に鈍くかがやき、紺地の着物にそれが溶けて広がる。大きな背中。この背中の肌を、自分の体は知っていた。
ふいに、この広いが少し曲がった背中を抱きしめたくなった。
このひとは、この背中を曲げながら、これまで部屋で孤独に小説を書くことと向き合ってきたんだ。窓からこぼれる月夜や風、鎌倉のあらゆる季節。色々なことに背中を向けながら。
(そして私は、この背中に腕を伸ばし続けた。抱かれているとき、熱い肌を知りながら、このひとの肩甲骨をさわるのがすきだったな……)
言葉の首筋に顔を埋め、鼻先を動かすたびに肩甲骨は出っ歯たり引っ込んだりして動いていた。
言葉はその皮膚に隠された骨を追うように、頑張ってゆびを添わせて__。
熱に浮かされ、ぼんやりとしているうちに、雫原の家に辿り着いた。
石造りの門を過ぎ、玄関へとつながる庭を抜ける。
「きれい……」
見上げれば、薄青い空を透かすような桜ばかりが咲いていた。
花弁は白いひかりとなり、さわさわとしずくをこぼすように頭上でゆれている。
その隙間からこちらへと手を伸ばすように薄青がちらちらと顔をのぞかせているのだ。
ひとひら、白いしずくが鼻先へ落ち、絹のような質感を残して消えてゆく。
「言葉さん、行きますよ」
「あっ……」
ふれるように繋がれていただけだった雫原の手が、強い圧力となり、前へ引っ張ってくる。
紺の袖まで下がり、布が触れて気がつく。
前を向き、玄関へあがると、言葉はそのまま降りていた雫原の袖をそっと摑んだ。
自分でも驚いたのは、ゆびさきがかすかに震えていたことだ。
鍵を開け、戸に手をかけた雫原が、動きを止めて振り返る気配がした。
言葉はうつむき、重心を摑んだ手に込めるようだった。
「先生、すきです」
黒髪の紗幕の間から、吐息に混じらせような、かすれた声を出した。
雫原は動きを止めると、上体をゆっくりと動かしてこちらを見やった。
言葉は顔をあげた。頬を熱いものが伝う。無意識のうちになみだがあふれていた。
すると、濡れた頬にしずかなそよ風が触れ、は、と気づくとなみだよりも熱いものに拭われている。
震える瞳をあげると、そこには、さきほどよりも顔を寄せた雫原の笑みが咲いていた。
「__そして青磁は、琴葉のなみだをそっと右手の親指で拭った。」
「それは……」
ふっと雫原が鼻から息を抜く。
表情のやわらかみが増していた。
雫原の、小説の一文だった。
覚えている。手に取るように、文章が目の前にくっきりと浮かび上がる。新刊のすきなシーンで紡がれていた描写だ。
「……ふふ、粋なことをなさるのだから」
残りのなみだを自らのゆびで拭い、髪を振り払うと、首を伸ばして笑顔を向けた。
自分でも驚くほど、しなやかに筋肉が動いた笑顔だった。春のちょうどよいつめたい空気が、凛と頬に触れる。
これほど空気が爽やかだと感じることが出来たのはいつ以来だろうか。
雫原が、そばにいるからだろうか。
しみじみ逡巡しているあいだに、薄墨の影が落ちてきて、やわらかいあたたかさでくちびるは包まれていた。
背に回された手は、淡雪のようにやさしく、溶け合うような距離感だった。
また一陣の風が吹き、斜めにさらうように桜を乗せて抱き合うふたりの輪郭を撫でてゆく。
久しぶりに訪れた雫原の部屋は、以前よりも澄んだ空気に染まっていた。だが、なつかしいにおいはそのままで、あっという間に官能の深みまで辿り着くことができた。
言葉は、自分の背中に羽が生えたではないかと思った。彼が自分の肩甲骨にその節くれだったゆびを回すたびに、熱く火がついたように何かやわらかいものが吹き出るような感覚がする。
「あァッ……!」
背を反らせると、被った掛け布団がめくれ、生身の身体が彼の上であらわになる。
村雨が降ったように細かな汗が浮かびあがり、のけぞった背を流れてゆく感覚さえも鋭敏になり、より感度をやわらかく増していった。
「言葉さんっ……。言葉さんっ……!」
雫原の尖った鼻の先が、胸に埋まり、くちびるは胸の中央に当たる。彼の吐息も荒くなっており、行為に熱中している事が伝わった。
背に回された腕は強く、汗ごと細い言葉の腰を抱き寄せる。
動かされると、雫原のものを包む言葉の腹は収縮し、さらに強い快楽が身体を突き抜ける。
「あぁっ……あっ……!」
言葉は眸を大きく見開いて快感に耐えようとした。しかし、力を入れると、腰に無駄に力が入ってしまい、深く雫原へと沈むことになる。
「言葉……」
雫原は真剣な顔で言葉から顔を離すと、沈んだ眸で彼女をみつめた。
口を開けたまま、犬のように荒く息を吐く言葉は、彼を見下ろす。泉のように濡れた互いの眸がかち合った。
雫原の眸はどこまでも深く暗い、青を重ねた黒をしている。夜の泉に落ちたような色だった。汗に濡れ、張り付いたウェーブがかった前髪が、つやを帯びて障子を通して鈍いひかりをよこす春に、朧な輪郭を映している。
それをみつめていると、繋がっている箇所がさらに温かく濡れ、つながりが深くなる。
言葉は処女のように、それを気恥ずかしく思って頬を桜色に染めた。
片手でそれを隠そうとし、目をそらそうと努めるが、雫原の手がそっと伸びてそれを制した。
「あっ……」
寄せた手の甲に、なにかの誓いのように雫原がくちづけを落とした。薬指だった。
「先生……」
「左手の薬指には……」
雫原の眸がひかった。
「心臓に直接つながる愛の静脈があると、古代ギリシャの言い伝えがあります」
言葉は一拍置いて、さらに頬を赤く染めた。首をのけぞらせ、額からこぼれる汗を眉で受け止める。
首を汗が伝い、鎖骨を流れて胸の谷間を落ちる。
一度離れた身体を、言葉のほうから雫原のほうへ近寄り、自分と同じように濡れた背中を抱きしめる。すでに自分から膣を引き締めて、彼を離さないように自然に股間に力を込めていた。
中で熱くからみあい、こすれ、互いが互いを高みへと昇らせる。
言葉は、ことばにならないくぐもりで喉を鳴らしていた。
その喉に顔を添わせて、いとおしげに雫原は包み込むように言葉を抱きしめた。
春だというのに、ふたりのあいだだけ夏が流れているようで、でも確かにそこは季節の最初のあたたかみが訪れた春だったのだ。
言葉は春に溶けて、砂浜を撫でる海のように広がっていった。
事が終わり、ふたりは共に掛け布団を腰まで被り、だるく身体を投げ出して、互いの身体を撫でながら、情事の後の気だるいあまさの中をたのしんでいた。
汗はまだ浮き、乾ききっていない肌は湿っている。それすらも官能の後を残していた。
「先生……私、決めたことがあるんです」
「なにを決めたと言うんだ」
言葉の白い腕を撫でていた雫原は、かすかに驚いた顔で彼女を見やった。
言葉は春の風のようなやわらかな笑みを浮かべた。
「私、先生のような官能小説を書く作家さんを支えるために、編集者を目指そうと思うの。男性目線だけじゃない、官能小説を好んでたくさん読んできた私だから、伝えられる改善点や作ることを目指せる作品ができると思うの。やってみたいのよ」
紫がかった言葉の眸には力が宿り、磨いた黒曜石のようにきらきらとかがやいていた。確信した夢をすきなひとに語ると、こんなにも生命力が身体から湧き上がることを初めて知った。
最初こそ驚いていたが、雫原は次第にくちびるを閉じて、まぶたを伏せて微笑んだ。そして言葉の腕を撫でていた手を、そっと彼女の頭へと動かし、ゆらゆらと魚の尾が流れるように撫でてくれる。
「声のトーンが少しクリアになっている……。あなたの決意は固いのですね」
「はい……!」
「私も……」
乱れた言葉の後ろ髪にゆびを入れ、整えるように耳に添わせて流しながら、雫原は切れ長の目元をやわらげる。
「私のことも、いつか担当してください」
「先生……」
どちらともつかず身を寄せ合うと、くちづけを交わした。さらりとしていて粘つかないが、後を引くようなあまいその味は言葉にとってしばらく忘れられないものとなった。
(完)