この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
プロローグ
この日、私は生まれて初めて一面の雪景色を見た。

肌を真っ赤にしながら。白い息を吐きながら。水気たっぷりの重たい靴で、シャクシャクと雪を踏んでいく。

こんなに外は寒いのに。うちの中はいつもあったかい。いつも明かりが点いている。薄汚れたシンクの前に、スーツを着た父さんが一人で立っている。

少し前なら、私は立ち止まって、何か手伝いたいと、声をかけていた。でも父さんは、必ず、いや大丈夫だと、背を向けたまま、突き返してくる。その背中は、誰が見てもくたびれているのに。

だから私はもう、声をかけない。その背中を横目に、軋み音が鳴る床をそっと踏みながら、六畳一間の自室へと向かう。

そして、私の名前を呼ぶ声が遠くから聞こえると、渋るように、何から何まで用意された食卓に向かう。

それが早く大人になりたい、10歳の少女の日常だった。

「ピンポーン、ピンポーン」

もう外は真っ暗で、誰も出たがらないくらいに、雪がしんしんと降り続いている。

なのに、何度も何度も途切れることなくインターホンを鳴らす音が、私の部屋まで聞こえてくる。

まるで何か急いで伝えたいことがあるみたいに……。

さすがの私も気になって、ちょっと早いけど、食卓に顔を出してみた。すると、父さんは、シンクの前で、また背中を向けていた。誰かが尋ねてきているのに。

「父さん。出ないの?」

父さんは、パッと振り向いた。
初めて、父さんの怖い顔を見た。

「おまっ!何で!」

初めて、父さんの怒鳴り声を聞いた。

父さんは、何をするにも寛容な人だった。
もしかすると、母の愛情を知らぬまま大きくなる私に、ずっと負い目を感じていたのかもしれない。

だから、私は衝撃や恐怖心を飛び越えて、滅多に見ないその姿が、とにかく心配でならなかった。

「……父さん?」

ちょうど、インターホン音が止まった。
この家に、静寂が帰ってくる。

だから、父さんは、もう顔を見せない。

また、背中を見せる。
両手をシンクの縁に突く。

でも、私だって一度見てしまったものは、もう見なかったことにはできない。

だから、じっと立っていた。

すると、父さんの肩が、大きく動いた。
息を吐き出した。

静かに話し出した。

「あのな……父さん、会社辞めたんだ」

そのまた昔、父さんにどんな仕事をしているの?と聞くと、「友達と二人で社長をしている」と教えてくれた。

その二文字は、まだ小さな世界で生きる少女にとって、とても誇らしくかっこよく映っていた。

だから、そんな父さんが、ずっと見るに足らない生活をしているのが、どうしても受け入れられなかったんだと思う。

私は、思わず、強く言ってしまった。

「会社って、父さんがつくったんでしょ?なら辞める必要なんてないじゃん。ただでさえ、こんなボロボロの家に住んでるって言うのにさ……」

父さんは、また、何も言わなくなる。 
そして、もっと、下を向いた。

私だって、本当はこんなこと、言いたかったわけじゃない。思わず、心にもないことを口走ってしまった後悔で、それ以上、何も言えなくなった。

「あの会社にはな、もう父さんの居場所はないんだよ。お前には、苦労かけないようにちゃんと働き口見つけるから」

このとき、私は知らなかった。父さんが友人とやらとつくった会社は、私たちの生活から想像できないほど、大きくなっていたこと。

そして、父さんは一度もその恩恵を受けることなく、会社の名前も、すべて友人のものに変わっていたこと。

だから、この日も私は何事もなく眠りにつき、また何も変わらない朝が、やってくると思っていた。

でも、私は何かに呼び起こされるように、目をぱちっと開く。まだ、部屋には明かりがついてる。

体の向きを変えると、父さんも同じように横たわって眠っている。

いつも父さんは、必ず明かりを消してから、眠るのに。そして、どこか安心感のある寝息が、なぜか今日は聞こえない。

「父さん?」

夜の静けさが途端に怖くなって、揺さぶって起こそうとするけれど、父さんの言葉は一向に返ってこない。

ふと枕元に目をやると、彼が最後にとった行動を明かすように、数えきれないほどの薬の抜け殻が散乱していた。

そこから自分がどうしたか、はっきりとは覚えていない。ただこの世界に一人残される恐怖と戦いながら、「父さんを助けなきゃ」と考えつく限りの大人たちに救いの手を求めた。

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