『沈黙のプリズム ―四人の約束―』
第15章「雨の夜、壊れた沈黙」
夜のオフィスには、人の気配がなかった。
会議の資料を印刷する機械の音だけが、
静かに響いている。
時計の針はすでに22時を回っていた。
外では雨。
ビルのガラスを伝う水滴が、街の灯を滲ませている。
桐山瑠奈は、デスクに広げた書類を前にため息をついた。
予定していたデータの一部が消えていた。
明日のプレゼンに必要な重要ファイル。
ミスを報告するべきか迷ったが、すでに上司は退社している。
(どうしよう……)
電話を取ろうとして、
ふと背後から声がした。
「桐山さん、まだ残ってたんだ」
悠真だった。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めている。
雨に濡れた髪から、しずくが落ちていた。
「一条さん……」
「連絡が入った。ファイル、消えたって」
「はい。バックアップ探してるんですけど、見つからなくて……」
「一緒に探そう」
彼は迷いなく隣の席に座った。
パソコンの画面に並ぶデータを、二人でひとつずつ開いていく。
外の雨音が、
いつの間にか強くなっていた。
「……あの時と同じだな」
不意に、悠真がつぶやいた。
「え?」
「高校のとき、よくこうして二人で残ってたろ。文化祭の準備で」
「……覚えてるんですね」
「忘れられるわけないよ」
モニターの光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
瑠奈は、キーボードを打つ手を止められなくなる。
(――そんな言葉、ずるいよ)
沈黙。
二人の間を、雨音だけが満たしていた。
「……桐山」
「はい?」
「俺、あの頃……ひとつだけ後悔してることがある」
胸の奥が震えた。
「泣いてた理由、聞けなかったこと」
瑠奈の指が止まった。
「……覚えてたんですか」
「当たり前だろ。
あの時、俺……聞くのが怖かった。
理由を知ったら、何かが壊れる気がして」
「壊れたのは、聞かなかったからですよ」
静かな声。
でもその響きは、雨よりも強かった。
悠真が息をのむ。
「桐山……」
「私、ずっと言えなかった。
泣いたのは、あなたのせいです」
彼の瞳が揺れた。
「麗華さんと一緒に笑ってたあなたを見るたびに、
胸が苦しくて、でも嫌いになれなくて……」
瑠奈は両手で顔を覆った。
「好きだったんです。ずっと――ずっと、あなたが」
雨音が、世界のすべての音を飲み込む。
悠真は、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
「……俺も、気づいてた。
でも、怖くて逃げた」
「逃げた?」
「お前を傷つけたくなかった。
優しくすればするほど、俺自身が苦しくなった」
その言葉に、瑠奈の涙が零れた。
彼の肩に落ちるしずくは、雨なのか涙なのか分からなかった。
「もう逃げません」
悠真の声が低く響いた。
「今さらかもしれないけど――
俺はあの時から、お前を忘れたことは一度もない」
「……本当に?」
「本当だ」
次の瞬間、
停電のように世界が一瞬暗くなった。
外の雷鳴が光り、二人の影を重ねる。
息が触れ合う距離。
けれど瑠奈は、わずかに顔をそらした。
「……だめです。
そんなの、今さら信じたらまた壊れます」
「壊れてもいい。
今度は、俺が全部受け止める」
その言葉は、優しくて、残酷だった。
雨は、やむ気配を見せない。
オフィスの灯りの下、二人はただ見つめ合っていた。
“沈黙”が壊れた夜――
それは同時に、
“言葉にできなかった恋”が息を吹き返した瞬間でもあった。
だが、その雨が止むころ、
また別の嵐が始まることを、
まだ誰も知らなかった。
会議の資料を印刷する機械の音だけが、
静かに響いている。
時計の針はすでに22時を回っていた。
外では雨。
ビルのガラスを伝う水滴が、街の灯を滲ませている。
桐山瑠奈は、デスクに広げた書類を前にため息をついた。
予定していたデータの一部が消えていた。
明日のプレゼンに必要な重要ファイル。
ミスを報告するべきか迷ったが、すでに上司は退社している。
(どうしよう……)
電話を取ろうとして、
ふと背後から声がした。
「桐山さん、まだ残ってたんだ」
悠真だった。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めている。
雨に濡れた髪から、しずくが落ちていた。
「一条さん……」
「連絡が入った。ファイル、消えたって」
「はい。バックアップ探してるんですけど、見つからなくて……」
「一緒に探そう」
彼は迷いなく隣の席に座った。
パソコンの画面に並ぶデータを、二人でひとつずつ開いていく。
外の雨音が、
いつの間にか強くなっていた。
「……あの時と同じだな」
不意に、悠真がつぶやいた。
「え?」
「高校のとき、よくこうして二人で残ってたろ。文化祭の準備で」
「……覚えてるんですね」
「忘れられるわけないよ」
モニターの光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
瑠奈は、キーボードを打つ手を止められなくなる。
(――そんな言葉、ずるいよ)
沈黙。
二人の間を、雨音だけが満たしていた。
「……桐山」
「はい?」
「俺、あの頃……ひとつだけ後悔してることがある」
胸の奥が震えた。
「泣いてた理由、聞けなかったこと」
瑠奈の指が止まった。
「……覚えてたんですか」
「当たり前だろ。
あの時、俺……聞くのが怖かった。
理由を知ったら、何かが壊れる気がして」
「壊れたのは、聞かなかったからですよ」
静かな声。
でもその響きは、雨よりも強かった。
悠真が息をのむ。
「桐山……」
「私、ずっと言えなかった。
泣いたのは、あなたのせいです」
彼の瞳が揺れた。
「麗華さんと一緒に笑ってたあなたを見るたびに、
胸が苦しくて、でも嫌いになれなくて……」
瑠奈は両手で顔を覆った。
「好きだったんです。ずっと――ずっと、あなたが」
雨音が、世界のすべての音を飲み込む。
悠真は、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
「……俺も、気づいてた。
でも、怖くて逃げた」
「逃げた?」
「お前を傷つけたくなかった。
優しくすればするほど、俺自身が苦しくなった」
その言葉に、瑠奈の涙が零れた。
彼の肩に落ちるしずくは、雨なのか涙なのか分からなかった。
「もう逃げません」
悠真の声が低く響いた。
「今さらかもしれないけど――
俺はあの時から、お前を忘れたことは一度もない」
「……本当に?」
「本当だ」
次の瞬間、
停電のように世界が一瞬暗くなった。
外の雷鳴が光り、二人の影を重ねる。
息が触れ合う距離。
けれど瑠奈は、わずかに顔をそらした。
「……だめです。
そんなの、今さら信じたらまた壊れます」
「壊れてもいい。
今度は、俺が全部受け止める」
その言葉は、優しくて、残酷だった。
雨は、やむ気配を見せない。
オフィスの灯りの下、二人はただ見つめ合っていた。
“沈黙”が壊れた夜――
それは同時に、
“言葉にできなかった恋”が息を吹き返した瞬間でもあった。
だが、その雨が止むころ、
また別の嵐が始まることを、
まだ誰も知らなかった。