『沈黙のプリズム ―四人の約束―』

第16章「朝の報せ」

翌朝。
雨は上がり、街は洗われたように澄んでいた。
ガラス越しの陽射しがデスクに反射し、
昨夜の嵐が嘘のように静かな朝。

瑠奈はいつも通り出社した。
化粧鏡に映る自分の顔は、少しだけ赤い。
眠れなかった。
夜遅くまで頭の中で、悠真の言葉が何度も繰り返されていた。

「壊れてもいい。今度は、俺が全部受け止める」

(……受け止める、なんて言わないで。
 本気で信じたら、また壊れる)

そう思っても、胸の奥は少し温かかった。



午前十時。
オフィスに一つの報せが届く。
総務からのメール、件名は――
《昨夜の残業対応に関する確認》。

開いた瞬間、瑠奈の心臓が止まりそうになった。

――“一条常務と桐山主任が二人で深夜まで残っていた件について、
 安全管理の観点から確認をお願いしたい”

(どうして……)

文章は事務的だ。
だが、“二人きりで深夜残業”という言葉だけが、
社内の噂に火をつけるのに十分だった。

同僚たちの囁き声。
「常務と桐山さん、仲いいよね」
「昨日、帰るとき見たって人がいるらしい」

胸の奥に、冷たい痛みが走る。



昼休み。
会議室に入ったとき、
そこには麗華がいた。

「……麗華さん」
「ねぇ、ちょっと話せる?」

彼女は微笑んでいた。
だがその笑顔は、氷のように冷たかった。

「昨日の夜、残ってたのね」
「仕事の確認をしていただけです」
「そう。
 でもね、そういう“誤解を招く行動”は、
 あなたが一番避けなきゃいけない立場じゃない?」

「誤解、ですか」
「世の中、誰も本当のことなんて見てないのよ。
 “見えること”しか信じない」

麗華の声は静かだったが、
言葉の一つひとつが刃のように鋭かった。

「……あなたは昔からそう。
 黙っていても誰かに守られる。
 でもその沈黙が、いつも誰かを傷つけてきた」

瑠奈は何も言えなかった。

(そうだ。
 私の“沈黙”が、あの頃も麗華さんを傷つけたのかもしれない)

「気をつけてね、桐山さん。
 今のあなたは、誰の言葉より“注目されている”のよ」

麗華は立ち去った。
ドアが閉まった音だけが、会議室に響く。



夕方。
瑠奈のもとに、悠真から社内チャットが届いた。

【すぐに話せるか?】

彼女は少し迷ってから返信した。

【場所は?】
【屋上】

屋上に出ると、
風がまだ雨の名残を運んでいた。

「昨日の件、聞いた」
悠真の声は低く、落ち着いていた。
「俺が対応する。心配するな」
「でも、噂になってます」
「放っておけ。いずれ消える」
「そうやって……いつも黙ってやり過ごすんですね」

瑠奈の声が、風にかき消される。

「私は、もう黙っていたくない」
「瑠奈……」
「私が何を思っていたか、
 あなたが何を選ぼうとしてるのか、
 ちゃんと向き合わなきゃ、また同じことになる」

悠真は言葉を失った。

「麗華さん、あなたのこと、まだ――」
「それは違う」
「ほんとに?」
沈黙。
その沈黙が、何よりの答えに聞こえた。



夜。
帰り道、街の灯がぼやけて見えた。
風が頬を撫で、
信号の光が滲む。

(沈黙を壊しても、また別の沈黙が生まれる……)

瑠奈は小さく笑った。
その笑顔は涙に濡れて、儚かった。
< 17 / 30 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop