『沈黙のプリズム ―四人の約束―』
第17章「疑惑の午後」
午後の光がオフィスを照らす。
どこかざわついた空気。
コピー機の音、電話のベル、
それらのすべてが妙に遠く聞こえた。
瑠奈はデスクに座り、
何度も画面の通知を確認していた。
社内掲示板に、匿名で書き込みが出ている。
“常務と桐山主任、特別な関係らしい”
“夜遅くまで二人きり、って噂だよ”
一文一文が心を刺す。
“誰が”ではなく、“なぜ”――それが問題だった。
(……こんなこと、誰が)
心当たりが、
ひとりだけ、あった。
昼過ぎ。
会議室。
「一条常務、今お時間よろしいですか?」
麗華の声がした。
淡いピンクのブラウスに、落ち着いた口紅。
その笑顔の奥に、確かな計算が光っていた。
「昨日の件ですが……」
「もう処理した。必要以上に騒がないでくれ」
「そう。……でも、“沈黙”が誤解を生むこともありますよ」
悠真は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「あなたが黙っている間に、
彼女がどんな目で見られているか――
それ、分かってますか?」
一瞬、悠真の表情が強張る。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「ええ。
あなたは優しい。
でも、その優しさは時々、
誰かを“救わない”の」
麗華は書類を置き、
ドアの方へ向かう。
「……あなたが守りたい人、
その沈黙でまた泣かせないといいわね」
ドアが閉まる音が、会議室に響いた。
悠真は拳を握った。
午後四時。
プレゼン前の準備。
瑠奈はコピーをまとめていた。
そこに、同僚がそっと近づく。
「ねえ、桐山さん……」
「はい?」
「気にしない方がいいよ。みんな言ってるだけだから」
「……何を、ですか」
「一条常務のこと」
息が止まった。
同僚は気まずそうに視線を逸らす。
「ほら、麗華さんと常務、前から親しいって有名でしょ。
でも最近は、あなたの名前も一緒に出てて……」
その瞬間、
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
夕方。
廊下の突き当たり。
悠真が立っていた。
「桐山」
「……はい」
「少し話がある」
会議室に入ると、彼の表情は硬かった。
「この状況、どう思ってる?」
「どうって……」
「噂だ。放っておけない。
俺の立場も、お前の立場も危うくなる」
「私のせいですか」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
沈黙。
瑠奈の声が震える。
「また、黙るんですね」
「……違う」
「いつもそう。
何か起きるたびに“俺が悪い”“放っておけ”って。
本当のことを言ってくれない。
私、何を信じればいいんですか」
悠真は、言葉を失った。
外では、
灰色の雲が空を覆い始めていた。
「……俺を信じろ」
ようやく出た言葉は、
頼りなく震えていた。
「信じたい。
でも――あなたの隣に立つのが麗華さんの姿ばかりで、
私、もうどうすればいいか分からない」
その瞬間、ドアの向こうで人の気配がした。
ドアノブがわずかに動き、
誰かが廊下から立ち去る音。
――麗華だった。
ドアの隙間からこぼれた会話の断片が、
彼女の耳に確かに届いていた。
唇を噛み、麗華は小さく笑った。
「そう……やっぱり、そういうことね」
その笑みは、
かつての“少女の嫉妬”ではなく、
大人の“仕返し”の予感を孕んでいた。
夜。
オフィスを出た瑠奈は、
雨の気配を感じながら空を見上げた。
「沈黙が優しさだと思ってた。
でも、本当は、逃げるための言い訳だったんだね」
風が髪を揺らし、
遠くで雷が鳴った。
新しい嵐が、近づいていた。