『沈黙のプリズム ―四人の約束―』

第19章「沈黙の別れ」

朝の街は、まだ薄い霧に包まれていた。
ビルの谷間を風が抜け、
白い息が、冬の名残を残して漂う。

桐山ホールディングスの正面玄関。
社員たちが行き交う中で、
瑠奈は小さなスーツケースを引いて立っていた。

胸ポケットには、退職願――ではなく、
「休職届」。

(戻る場所があるだけ、幸せなのかもしれない)

そう思っても、心の奥は冷たい。

会社に向けて一礼したあと、
エントランスを出ようとしたその瞬間、
後ろから声がした。

「桐山!」

振り返る。
一条悠真が駆けてきた。
息を切らし、ネクタイが少し乱れている。

「待ってくれ。行くって聞いた」
「……はい」
「話がしたい」
「もう、話してはいけないと思います」

彼はその場に立ち尽くした。
風が吹き、二人の間を抜けていく。



「昨日、君に電話した」
「出られませんでした」
「……だろうな」
悠真は苦く笑う。
「記事の件、すぐに訂正文を出す。
 あれは誤解だって、俺が説明する」
「そんなことしたら、あなたの立場が危うくなります」
「関係ない。俺が守る」

その言葉に、瑠奈は小さく首を振った。

「もう守らないでください。
 守られるたびに、私は何も言えなくなっていくんです」

彼の表情が、かすかに歪む。
「俺は――ただ、君を」
「愛してる、って言ったら、
 また黙ってしまうんでしょう?」

静かな声だった。
けれどその一言で、
悠真の喉が震えた。



「……君は強くなったな」
「違います。
 強く見せないと、また泣いてしまうだけです」

二人の間を通り過ぎていく社員たちが、
足早に視線を逸らす。
その沈黙の空気が、
まるで世界そのものが二人の別れを見守っているようだった。

「行かないでほしい」
「行きます」

即答だった。
瑠奈の声は震えていなかった。

「私がここにいる限り、
 あなたはきっとまた私を“守ろうとする”。
 でも、もう私は守られたくない。
 ――自分の声で、立てるようになりたいんです」

悠真の目に、光が揺れた。
彼は一歩踏み出したが、
その距離を詰めることはできなかった。



「じゃあ、ひとつだけ聞かせてくれ」
「……なんですか」
「今でも俺のこと、嫌いじゃない?」

少しの沈黙。
そして、微笑。

「嫌いになれたら、
 こんなに苦しくないですよ」

その答えに、悠真は何も言えなかった。

「ありがとう」
瑠奈は深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとう」

彼女が背を向けた瞬間、
朝日が差し込んだ。
白い光が、二人の影をゆっくりと引き離していく。

悠真はただ、その背中を見つめ続けた。
何も言わず、何もできず。
“沈黙”だけが、ふたりの最後の言葉になった。



瑠奈が角を曲がる。
見えなくなった瞬間、
悠真のポケットの中で、
携帯が小さく震えた。

画面には、未送信のメッセージ。

「もう一度会いたい」

指が止まる。
――送れなかった。



数時間後。
オフィスの机の上、
悠真の視線がある一枚の封筒に止まった。

桐山瑠奈の字で、
「御礼」とだけ書かれた白い封筒。

中には短いメモが一枚。

“沈黙が、あなたの優しさを奪いませんように。”

その一文を読み終えたとき、
悠真は静かに目を閉じた。

窓の外には、再び小雨が降り始めていた。
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