リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜

「ベンジャミン様、ウェディングドレスはぜひ、マーチング商会のレース生地を使用したいのです。いいですよね?」
「えっ……そのレースって」

 マーチング商会は国内でも上質なドレスの生地を取り扱っている。その中でもレースは特に高額で、ギルバート公爵領で栽培しているレニンを使った布やレースをはるかに上回る代物だ。
 そんな高級品を買うなんて、領地全体が不安定の今、両親からなんと言われるか。

「はい、実は有名デザイナーの新作がそのレースを使っているのです。いつか、このレースをつけて素敵な旦那様と愛を誓いたいと、ずっと心に決めておりましたの! もう注文してしまったので事後報告ではありますが」
「事……はぁ!? 僕の許可を取る前に勝手に決めたのか! 支払いはギルバート公爵家なんだぞ!」
「だってベンジャミン様は許してくださるもの。最高に幸せな日にするために、最高のエミリをお見せしたいのです! ねぇ、ベンジャミン様も見たいでしょう? アルカディア王国一の礼拝堂、ステンドグラスに照らされた私を――」

 ほんのり赤らめた頬と妖艶な笑みを浮かべるエミリに、ベンジャミンはぞっとした。
 子リスのような愛らしさから一転、獲物に狙いを定めた蛇のような笑み――自分の言動が常識だと、さも言いたげな態度が信じられなかった。

「正気かい? そのレース一枚で、ドレスが何着買えると思う? ただでさえ復興の修繕費が足りないのに、なんて勝手な……」
「あら、でもギルバート家はお金持ちじゃないですか」
「君はまだギルバート家の人間じゃない! すべて自分の思い通りになると思わないでくれ!」

 滅多に怒鳴らないベンジャミンだが、エミリの行動は度を超えている。勢いで突き飛ばすと、エミリは悲鳴とともにその場に倒れ込んだ。今にも泣きそうに涙を浮かべ、腹部を抑えて守ろうとする。恐怖の色を浮かべたその表情に、少しときめいた。

(……ああ、そうだ。君はそういう顔が似合うよ)

 すっかり怯えたエミリに、ベンジャミンは同じ視線まで屈むと手を差し伸べる。

「ごめんね、エミリ。今、領地のことで忙しくて……君に当たるつもりはなかったんだ。すでに注文してしまったものは仕方がない。僕がなんとかしよう」
「ベンジャミン様……本当に?」
「もちろん。君に怖い思いをさせてしまった、心ばかりのお詫びとさせてほしい。さらに磨きがかかった美しい花嫁姿を楽しみにしているよ」

 そう言って微笑むと、エミリはまた嬉しそうに笑ってベンジャミンの腕の中に飛びこんだ。か弱い力で精一杯抱きしめる彼女の頭を優しく撫でる。
 彼女の腹にはギルバート公爵家の後継者がいる。今ここで捨てるには惜しい。

(そう……エミリはそのまま、僕の腕の中にいればいい。ドレスのレースくらい、領民からの徴収額を引き上げればすぐ元通りだろう。不要なものは切り崩せばいい)

 エミリを宥めながら、ベンジャミンは小さく口元を歪めた。

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