リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
予定より少し遅れた出発となったが、リシェルは無事に馬車に乗り込んだ。馬車でも一週間はかかる道を夜通し馬車を走らせ、今日で三日目。
ベッカー伯爵家専用の馬車は、フランクとエミリの所有ということもあって、リシェルは使用人らと同じ馬車を利用している。「これでは可哀想だ」と使用人達が幾度となくフランクに抗議したが、翌日にはクビを言い渡されてしまった。
(大丈夫、私がいなくなっても彼らが困らないように準備はしてきた)
家を出る前に全員分の推薦状を書き終え、家令と侍女頭に渡してある。リシェルが生まれた頃からずっと傍にいてくれた、信頼できる二人だ。
(あとはこれを渡すだけね)
リシェルは資料が詰め込まれたトランクを引っ張り出す。中にはギルバート公爵家の領地や、ベッカー伯爵家が取引している商会の情報が入っている。婚約破棄を告げられたあの日、公爵夫妻に渡そうとした資料もまとめられていた。本来であれば説明したうえで渡したかったのだが、あの状況では仕方がない。
馬車に揺られて向かう目的地への道中には、隣国グランヴィルとの国境近くを通りがかる。
そこはかつて、リシェルの両親が馬車ごと崖から転落した場所だった。
両親が亡くなって五年、リシェルは事故現場どころか、両親の墓さえも訪れていない。優しい表情を浮かべる二人を思い出してしまったら、自分の決意が揺らいでしまいそうだったから。
(もう後悔はしない。すべてを終わらせて、私は私の人生を生きる!)
走行中に無理を言って、馬の走る速度を落としてもらう。事前に用意していた小さな花束を持って馬車の窓を開くと、目の前に広がる絶景に思わず息を呑んだ。
「……美しいわ」
グランヴィル王国は特に魔道具の発展が著しく、平民でも隔てなく暮らせる国造りに注力している発展国だ。さらに騎士団の取り締まりが厳重に行われており、ここ数年で治安が大きく改善されつつある。遠くにうっすらと見える王城から市街地にかけて並ぶ建物の壮大さに、リシェルは感動した。
(お父様もお母様も、この景色を見ていたのかしら)
胸が苦しくなる。できれば一緒に見たかったとすら思う。
両親が落ちた崖の近くに差し掛かる。馬車の速度はそのままに、リシェルは持っていた花束を投げようとした。
――その瞬間。
ガタンッ!と何かが外れた音が聞こえたと同時に、馬車が大きく揺れた。
リシェルは咄嗟に窓枠に縋りつくようにしがみつくが、勢いづいた馬車は止まらず、振り落とされそうだった。視界の端に移った窓の外は、まっすぐ崖に向かっていくのが見える。
「――っ!」
リシェルはぎゅっと目を瞑る。浮遊感に襲われた。
目の前が真っ暗になった。