リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
(――いえ、これは好都合じゃない?)
捨てられようとしているのなら、逆に自分が捨ててしまってもいいのでは、と妙案が浮かぶ。
なんせリシェルは、ずっと前からベンジャミンからは良く思われていないと気付いていたし、他人のものを欲しがるエミリの行動にはたいそう呆れていた。
しかし食事やドレスなどは変わらず、学園に通わせて働きに出ることも許してくれた。目に見えてわかる体罰や質素な生活といった冷遇な環境でなかったのは、リシェルが幼い頃に成し遂げた功績によって王家から注目されていたことが防波堤となり、上級貴族へ成り上がろうと画策するフランクからリシェルを守ってくれていたから。
今までベッカー家に居場所を失くしても逃げなかったのは、亡き両親との思い出が詰まったあの場所と、十九年間ずっと傍にいてくれた使用人達を裏切りたくなかったからだ。それでも万が一を考えて、司書の仕事の合間にさまざまな準備を進めていた。一人で生きていくことなっても困らないように、ずっと。
リシェルは頭の中を巡らし、これからの段取りを整える。そして深呼吸をすると、口元に小さく笑みを浮かべる。
「承知いたしました。ギルバート公爵家との婚約解消に同意いたします」
「そ、そうか。ありがとうリシェル! やはり君は賢い。よい判断をしたと思うよ。これからもその頭脳を僕達のために尽くしておくれよ。大丈夫、君の可愛い従妹のエミリは僕が必ず幸せにすると誓う。もちろん、ベッカー伯爵家の未来も僕が導いていく。君は僕らの言う通りに働いてくれたまえ!」
そういってベンジャミンはエミリを後ろから優しく抱きしめる。彼らの周りにずっと花が散っているが、目の錯覚だろう。
「お姉様、私達の結婚式には来てくださるわよね? 私の晴れ姿、お姉様にも見ていただきたいわ!」
「……そうね、ベッカー伯爵の判断にゆだねます」
「え?」
あえてフランクのことを『ベッカー伯爵』と口にした途端、応接の間が一瞬で凍りついた。
そこでようやく全員が気付いた。翡翠の瞳の奥が笑っていないことに。
「私、一週間後に大切な予定がありますの。ここからだと少し遠くて、もう出ないと約束の時間に遅れてしまいます。他に何もなければ、こちらで失礼させていただきますわ」
「なっ! そんなの聞いていないぞ!」
「私のスケジュールなど知る価値もないと、以前からおっしゃっていたではありませんか。共有するなと言われたので、お伝えしておりませんでした。……せっかくの機会ですし、ここではっきりと申し上げます。用事を終えて戻ってきましたら、私はあの家を出ます」
毅然な態度のリシェルに、フランクは目を丸くして驚いた。無理もない、幾度となく虐げてきたにもかかわらず、頑なに家を出る素振りを見せてこなかったのだから。
フランクは頬の緩みを隠すように、顎髭をいじりながら問う。
「急にどうした、リシェル。いくら婚約破棄されたからといって、考えなしの言動はお前らしくないぞ?」
「いいえ、私はずっと前から家を出ることを検討しておりました。それでも生まれ育った家を離れるのは悩んでおりましたが……もう結構です。いつまでも私があの家にいたら、伯爵もエミリも、気分良くないでしょう?」
そう言って口元に笑みを浮かべる。目に見えない何かが制圧していて、誰も何も言い返せない。
「~~っ! リシェル! 君はエミリと僕の愛を、両家に約束された輝かしい未来を素直に喜べないのか!」
すると、ベンジャミンがエミリを抱きしめる手を強め、リシェルに向かって声を張り上げた。微かに震えるエミリの身体を安心させようと必死だ。その様子が、小動物が一生懸命に威嚇しているように見えて、リシェルは「まぁ!」と頬に手を添える。
「ベンジャミン様もご存じではないですか。私は表情に出にくいのだと。内心はとっても喜んでおりますのよ。お二方の幸せ、そして両家のこれからの活躍を心からお祈りいたします。……ですが、これだけは覚えておいてください」
リシェルは背筋を伸ばすと、翡翠の瞳でまっすぐ彼らを見据える。
「私はすべてを知っている。あなた方がしてきたことも、これから始まることも全部、決められた定めであることを――ゆめゆめ、お忘れなきよう」
そう言ってスカートの裾を摘まみ、華麗にカーテシーを行う。指先ひとつ、揺れて煌めく髪一本までが洗礼されていた。
その場にいる誰もが見入っているうちに、リシェルはトランクを持って応接の間を静かに出ていった。引き止める者はいなかった。