恋のリハーサルは本番です

第115話 キスシーン稽古は修羅場の予感

稽古場に緊張が落ちていた。

台本のページに大きく書かれた一文──
《二人は距離を詰め、キスをする》

姫野亜理沙は、その行を見ただけで声にならない悲鳴を上げた。

「ム、ムリムリムリムリむりですーーーっ!!」

演出家の佐藤が額を押さえ、神埼が肩をすくめる。

その横で、高峰翔はニヤリと笑った。

「ほら桜井、覚悟決めろ。ヒーローだろ?」

「翔さん、煽らないでくださいっ!」

蓮が慌てる横で、あかりは台本に目を落としながら言った。

「キスは未遂でもいいの。心が動けば成立するから」

その声は穏やかで、脚本家としての判断。

なのに蓮は、妙に胸がざわついた。

(……未遂でいい、か)

“それ以上”は望んでいないと言われた気がした。

そしてそれが、少しだけ寂しかった。

蓮と亜理沙は距離をとる。

あと三歩で触れられる距離。

蓮(役) 「君が笑うなら、俺は何度だって立ち上がる」

亜理沙(役) 「そんな言葉……ずるい。期待しちゃうじゃない」

ここまでは完璧。空気が一気に甘くなる。

いよいよ、距離を縮める瞬間──

亜理沙
「ひゃいっ!?ちょ、ちょっと待っ……心の準備が……っ!」


「今のは役の心の叫び?本人の叫び??」

亜理沙
「両方ですぅぅぅ!!」

蓮が苦笑する横で、あかりが歩み寄る。

台本を胸に、少しだけ視線を逸らしながら。

「……桜井くん。ここ、手の位置が違う」

ふと、蓮の手を取って位置を直す。

指が触れた瞬間、世界が一瞬止まった。

近い。

呼吸が触れそうな距離。

亜理沙がポカーンと口を開く。

翔は腕を組んで、面白そうに見ている。
「こ、こう……ですか?」
「……そう。優しく、触れる前の迷いが滲むように」

あかりの声は震えてはいないのに、感情だけが揺れている。

蓮は息を飲む。

(どうして……指先まで熱くなるんだ)

一瞬、あかりの方を見た。

あかりも、ほんの一瞬だけ視線を合わせて──
逸らした。

それは、否定じゃなく、逃避だった。

「さっ、桜井さん!私も覚悟しますっ!」

亜理沙がパンッと両頬を叩いて、再度距離を詰める。

一歩。

二歩。

その瞬間──

翔がポツリと呟いた。

「……キスする前から、もう三角関係が始まってるんだよ。
芝居じゃなくて、現実でな」

亜理沙は顔を真っ赤にし、蓮は言葉を失い、
あかりは笑顔に隠して胸の奥を押さえた。

修羅場の予感しかしないキスシーン稽古──開幕。
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