恋のリハーサルは本番です

第96話 拍手のあとで、名前を呼ぶ

拍手は、すでに静まっていた。

客席には、観終えたあとのざわめきと、
言葉にできない余熱だけが残っている。

人が少しずつ帰っていく中、
あかりは、席を立てずにいた。

(……終わったんだ)

舞台も。
そして──逃げ続けてきた時間も。

ノートパソコンは閉じたまま。
今日は、もう“書く”必要はない。

そのとき。

「……あかりさん」

背後から、名前を呼ばれた。

振り返ると、
そこに立っていたのは、蓮だった。

衣装はすでに脱いでいるが、
まだ舞台の熱をまとったままの顔。

「……蓮さん」

二人の間に、
一拍分の沈黙。

舞台の上なら、
台詞で埋められたはずの間。

でも、ここは舞台の外だ。

「……書き換えましたね」

蓮が、静かに言う。

あかりは、視線を落とした。

「……勝手に、ごめんなさい」

「違う」

蓮は首を振る。

「救われました」

あかりは、驚いて顔を上げる。

「え……?」

「別れの台詞を言わなくてよかった」

「役者としても……」

一瞬、言葉を探すように間を置き、

「……一人の人間としても」

胸が、強く鳴った。

(ああ……)

(この人、ちゃんと来てくれたんだ)

待つだけじゃなく。
逃げるでもなく。


「私……」

あかりは、ぎゅっと指を握る。

「脚本家だから、って言い訳してました」

「舞台のため、とか」

「誰かを傷つけないため、とか」

声が、少し震える。

「でも……」

「それって全部、
 自分が選ばれる覚悟を、
 持たなかっただけなんです」

蓮は、何も言わずに聞いていた。

「だから今日は……」

あかりは、顔を上げ、まっすぐに蓮を見る。

「答えを舞台に置いてきました」

「選ぶのは……舞台の外で、って」

沈黙。

けれど、その沈黙は、
もう苦しくなかった。



廊下の向こう。

美咲は、壁にもたれながら、
二人の姿を見ていた。

(……呼んだんだ)

胸が、ちくりとする。

でも、それ以上の感情は、
不思議と湧いてこなかった。

(私、ちゃんと終われたんだ)

舞台上で。
自分の中で。

翔が、隣に立つ。

「行かなくていいのか?」

美咲は、首を振った。

「ううん」

そして、微笑む。

「今の私は……
 見送る役でいい」

翔は、小さく笑った。

「強くなったな」

「……役者ですから」

そう言って、美咲は背筋を伸ばし、
別の方向へ歩き出した。



蓮は、一歩だけ前に出た。

「……あかりさん」

舞台の上では、
何度も呼んだ名前。

でも、今は違う。

「俺、待つつもりでした」

「それが優しさだと思ってた」

少し、自嘲気味に笑う。

「でも……」

「それって、
 選ばないって逃げることと、
 同じだった」

あかりの目が、揺れる。

蓮は、はっきりと言った。

「俺は──」

一瞬、息を吸う。

「あなたを選びたい」

逃げ道のない言葉。

あかりの胸に、
熱いものが込み上げる。

「……即答は、できません」

正直な言葉だった。

「でも」

あかりは、一歩、蓮に近づく。

「私も……
 もう、選ばない優しさは、やめます」

二人の距離は、
触れないまま、確かに縮まった。



舞台は終わった。

けれど、物語はまだ続いている。

拍手のあと。
役を脱いだあと。

名前を呼ぶことで、
ようやく始まる関係がある。

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