忘却の蝶は夜に恋う
夜会のためのドレスを婚約者に見立ててもらうのは、女子にとって憧れだ。女子の誰もが一度は夢見ることを一つ目の願いにしたのは、普通の女子のような思いを味わってみたかったからだ。自分のために選んでくれたものを着たら、どんな気分になるのだろうかと。
だけどイスカは着なかった。黒色の服しか着ないノクスに合わせたというのは建前で、本当の理由は夜会にある。
ノクスは貴族が嫌いだ。彼の口から聞いたわけではないが、おそらくそうだろうと感じた場面が何度もある。
夜会は貴族階級の人間の集まりだ。取り繕った笑顔と言葉の裏側で、様々なものが張り巡らされている。敵か味方か傍観者しかいないあの場所を好き好んで参加している者はひとりもいない。
そんな場所に、選んでもらったドレスを着て参加をしたら、彼らと同じだと思われるのではないかと思ったのだ。
イスカも貴族だ。だけど彼らとは違うのだと思ってほしくて。同じだと思われるのが怖くて、着れなかったのだ。
「私も君もせっかくおめかしをしたのに、今夜は踊れないね」
イスカは冗談めかした声でそう言い、バスルームで濡らした裾をひらりと持ち上げる。
「……僕は踊れない」
「音楽に合わせて適当に足を動かすだけでいいんだよ」
「難しいことを言わないでくれ」
ノクスの声音が少しだけ和らぐ。夜空へと移された眼差しにいつもの鋭さはない。ハードスケジュールの後にあんな事が起きたからか、疲れているように見えた。
イスカはノクスの隣に並び立ち、彼に倣って夜空を見上げる。彼がどの星を見つめているのかは分からないが、同じものを見つけられていたらいいと思う。
「──ねぇ、婚約者殿。二つ目の願いを、今ここで言ってもいいだろうか」
「……無理難題でなければ」
「私のこと、名前で呼んでくれないか?」
イスカは月を見つめながら、願いごとを口にした。なんとなくだが、ノクスも月を見ているのではないかと思ったのだ。
「……イスカーチェリ」
「イスカ、と」
「イスカ。これでいいか?」
一度目はぎこちなさそうに、二度目は淡々とした響きを持って放たれたその声は、波紋を広げていくようにイスカの胸を温かくさせた。
イスカは頬を緩めた。名前を呼ばれるのは、こんなにも嬉しいことだったのだ。


