忘却の蝶は夜に恋う
イスカは自分が着ているドレスを見下ろしてから、薄らと微笑んだ。
「君こそ、私とセバスチャンがこっそり選んだ礼服を着てくれなかっただろう。せめてタイくらいはと思って、洒落たグレーのものを用意したのに」
「僕と貴女とでは違う。僕は頼んでいないが、貴女は僕に頼んだだろう。どうして貴女は僕が選んだものを着てこなかったんだ?」
イスカは手に持っていたグラスを置いた。
ノクスにドレスを見立ててもらったのは、イスカの願いごとのひとつ目だからだ。三つの願いごとを叶えてくれたら、彼の目の前からいなくなる──そのうちの一つを彼はちゃんと叶えてくれた。彼に選んでもらった布で仕立てられたドレスは、五日前に邸に届いていたというのに。
だけどイスカは着なかった。その理由は──。
「黒いドレスを着たのは初めてだが、中々似合っていると思わないか?」
イスカは立ち上がって、ノクスの目の前まで歩み寄った。ほんの少しだけ背が高い彼の綺麗な顔を見上げ、黒子ひとつない白い頬に指を滑らせる。
「本当は……君が選んでくれた、あのドレスを着たかったよ」
「ならどうして……」
「あれを着るのは今日じゃない気がしたんだ。だから今回は君に合わせて、黒色のものを着てきた。ただそれだけのことさ」
窓から射し込む青白い月光を背にしたノクスが、窮屈そうに眉根を寄せる。軽薄そうな唇がそっと開き、何かを言いかけたが、イスカは頬に触れていた手を少しだけ動かして、親指を唇に当てた。何も言うな、と伝えるように。