さくらびと。【長編ver.完結】
*8*秋、新病棟。
秋の半ば、いよいよ新病棟への移行が始まった。
それはまさに嵐のような日々だった。
「桜井さん!502号室の患者さんのカルテ急いでコピーして!」
「了解です!あと30分後に701号室の患者さん搬送予定なのでベッドメイキングお願いできますか?」
指示が飛び交うナースステーション。
通常勤務に加え、次々とやってくる荷物整理やファイル移動で看護師たちは体力の限界に挑戦しているような状態だった。
蕾は腕にファイルの山を抱えながら小走りで廊下を進む。
途中、搬送用リフトに乗せられた患者さんとすれ違った。
「申し訳ありません。あと少しで新しいお部屋に着きますから!」
介助する看護助手に優しく声をかけると、患者は小さく頷いた。高齢の女性だ。
長い入院生活で衰えた体を揺らしながらも、その眼差しには新しい環境への好奇心が見える。
「桜井さん!ちょっと来て!」
山本さんの叫び声に駆け寄ると、新しい電子カルテシステムの導入トラブルが発生していた。画面が固まり操作不能に陥っている。
「ここをクリックして……うーんダメか。管理者アカウントが必要みたい。」
二人が四苦八苦していると、「どうした?」と有澤先生が駆けつけた。
有澤先生の指示で事態は徐々に収束に向かう。
こんな些細な場面でも彼が近くにいるという安心感が心強く思えた。
全ての患者とカルテ、そして備品の移動が完了したのは三日後の午後遅くだった。新しいナースステーションで最終確認を終えると、皆が安堵の溜息を漏らした。
「やっと終わった……」山本さんが椅子に崩れ落ちるように座り込む。
「本当にお疲れさまでした。これで一段落だね。」
蕾も同様に机に肘をつきながら言った。
「いや、これからが本番だよ。」
有澤先生の声が耳に入った。
見上げると彼はモニターに映る新しい患者データをチェックしていた。
「この新システムだと今まで見えなかった情報が見えるようになる。
例えばこの患者さんは過去の入院歴に特定の傾向があるみたいだね。
これからはこういった情報も踏まえた治療計画が立てられるようになるんだ。」
その説明を聞いて、蕾の中に新たな使命感が湧き上がった。
これからの日々は想像以上に過酷なものになるだろう。
でも同時に新しい可能性に満ち溢れている。
「じゃあ今日はとりあえず解散だね!明日からまた新しいスタートだ!」
吉岡さんが元気よく宣言すると、他のメンバーも苦笑交じりで賛同した。
病棟全体が疲労感と期待感の入り混じった空気に包まれる中、蕾は窓の外を見た。
夕暮れ時の空には美しいグラデーションがかかっている。
(この景色も新病棟からならまた違って見えるんだろうな)
そんな思いを抱きつつ彼女は静かに立ち上がった。
今日までの日々が夢だったかのような錯覚に陥りながらも、確かな現実として心に刻まれていく。